この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

世界は、いろいろでできている。

みなさん天機です٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

今回は、

世界は、いろいろでできている

というテーマでお話ししてみたいと思います。

(この記事の字数 約4100字)

 

 

天機が好きな歴史小説に、

司馬遼太郎さんの「項羽と劉邦」という本があります。

 

 

このお話が取り扱っている時代は、

古代中国です。

 

 

国史上はじめて、中国全土を統一することに成功したのは、

秦の始皇帝というひとでした。

 

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このひとは、

各地でバラバラだった度量衡(どりょうこう)を統一したりするなど、

いいこともやったのですが、

大土木事業に多くの人民を酷使するなどしたので、

人民のあいだには、大きな不満と怨嗟(えんさ)がうずまいていました( ノД`)

 

 

そんなこともあって、

結局、始皇帝の死後に中国全土で反乱が起こり、

秦は短命に終わってしまいます。

 

 

そんな秦に対する反乱においていろんな群雄があらわれるのですが、

そのなかから、

項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)という二大英雄があらわれて、

のちに対決することになっていきます。

 

 

最終的に勝利して天下をとるのが劉邦

敗れて自害するのが項羽なのですが、

この両雄は、とても対照的な性質をもっていました。

 

 

まず、項羽のほうなんですが、このひとは

自分の身内をとても大切にし、信頼するひとでした。

 

逆にいうと、

身内以外の他人をあまり信用しないひとでした。

 

 

そのため、

項羽のもとには当初、多士済々(たしせいせい)の有能な幕僚が

いたのですが、

だんだんと項羽から謀反を疑われるようになって、

項羽のもとを去っていったり、

その能力を十分に発揮できないようになってしまったのです( ノД`)

 

 

また項羽は、楚(そ)という国が出身国なのですが、

楚の国の民にたいする信頼がとてもあついひとでした。

 

逆にいうと、

楚の国以外の民にたいしては、あまり信用していないような

ひとでした。

 

 

秦軍と反乱軍の戦いで、「鉅鹿(きょろく)の戦い」という

決戦があったのですが、

その戦いのときに項羽は自軍の兵士に対して、

楚人にとって、楚人だけがたよりになるのだ

と、とくに訓示しています。

 

自分の郷国を信じることがあつく、郷党性の強い

項羽らしい発言かと思います。

 

 

結局、項羽はこの鉅鹿の戦いに勝利して天下の覇権をにぎったか

に見えたのですが、

劉邦と対峙するなかで、だんだんと窮していき、

ついには敗れてしまいました( ノД`)

 

 

いっぽう。

 

 

項羽のライバルだった、劉邦はどうかというと、

これが、

自分の身内をあんまり信用しないひとでした( ̄∀ ̄)

 

 

劉邦はもともと、農民の出身だったのですが、

若いころから、家業の農作業を手伝わず、

都会に出て遊び歩き、

遊侠の群れに投じていました。

 

そのため、一家一族からは、ごろつきのように見られて

忌み嫌われており、

劉邦は早くから世間に根をはって、

世の中のいろんな人間と関係を結び

そのひとたちに助けられて生きていったのです。

 

 

そんな劉邦のもとには、

自分の軍を旗揚げしてからも、

有能な人材があいついで幕下(ばっか)に投じてきて、

彼らがいろんな奇功をたてることで

劉邦の勢力はだんだんと大きくなっていきました。

 

 

最終的に項羽の楚軍との決戦にのぞむ段階にあっては、

体の頑丈そうな斉の兵とか、騎乗の上手な代の兵とか、

いろんな地方の雑多な兵が劉邦のもとにあつまって、

かれらはみな、劉邦軍(漢軍)の赤い旗をひるがえした

といいます。

 

それは地を揺るがすような大軍になったそうです。

 

 

 

自分の身内や自分の出身国に対して信頼があつく、

他者や他国民をほとんど信用しない項羽

 

他人に助けられ、他者の才能を愛し、

雑多な他国の人間がこぞって参集した劉邦

 

 

その2人のたどった運命は、

とても興味深いものがあります。

 

 

以上はいまから2000年以上も前の戦いについての

お話なのですが、

ごく最近でも、対照的な性質をもった両陣営による

大きな戦いはありました。

 

 

たとえば、第二次世界大戦

 

 

アドルフヒトラー率いるナチスドイツというのは、

自分たちアーリア人種こそが世界で最も優れた人種である

と考えて、

アーリア人種だけが支配するような世界を目指して

戦争に突き進みました。

 

 

それに対する連合国というのは、

アメリカ、イギリス、フランス、などが中心となる

陣営でしたが、この陣営は、

主要な大国だけでも十分にドイツを圧倒できるように

思われたにもかかわらず、

名もないような小国までもが何十か国と連合国に名をつらねました。

 

それがのちの国際連合へと形を変えていきます。

 

 

つまり、連合国の戦い方というのは、どちらかというと、

雑多ないろんなものが集まって

みんなで戦う、というスタイルだったのですね。

 

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このように、古代中国の楚漢戦争、そして第二次世界大戦

見てきたわけなのですが、

読者のなかには、

それって結局のところ、軍事力や兵の数が上回っているほうが勝つ、

っていう、それだけのことなんじゃないの?

と思われるかたも、多いかもしれません。

 

 

でも、天機は思うのです。

 

 

数の多いほうが勝つ、強いほうが勝つ、

それはたしかにこの世界では当然のことなんだけど、

じつはそれ以外に、

 

 

雑多なものを雑多なまま維持しておく

 

 

ということに、

なにか独特の強さがあるのではないだろうか?

と。

 

 

古代中国の楚漢戦争では、最終的には劉邦の漢軍のほうが

大軍になりましたし、

第二次世界大戦でも、連合軍のほうが

物量でまさっていたことは事実です。

 

でも、劉邦の漢軍が、

諸方からのいろんな国の兵士が集まった雑軍であったこと、

第二次大戦のときの連合軍が

非常にたくさんの小国もふくめた雑多な勢力であったこともまた、

ある意味で「純血主義」を採用したかにも思える

項羽の軍、ナチスドイツの軍と比較したときに、

非常に対照的であるようにも、思われるのですね♬(ノ゜∇゜)ノ♩

 

 

考えてみれば、これは、

戦争や軍事に限ったことばかりでなくて、

現代の経済活動とか、政治の世界に目を転じてみたときにも、

雑多なものがもつパワーのようなものを

見かける場面があります。

 

 

たとえば、資本主義のもとでの経済活動でいうと、

中小の企業よりは大企業のほうが

大きな影響力とか巨大な組織とかを持っていますが、

大きな企業になればなるほど、

関わる利害関係者とか多数の従業員とかも雑多になっていき、

また、国際情勢とか市況の変化とか

考慮に入れなければならない要素も

多種多様になっていくようにも思われます。

 

 

いっぽうで、政治の世界では、

総理大臣とかになってくると、地方の町村の長とかとは違って、

国政全般にわたって考えないといけないですし、

また、政権党の総裁として選挙に勝つために

有象無象の有権者にも愛想をふりまいて

選挙運動をする必要もあります。

 

 

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また、この日本という国では、

国の象徴として最高位に天皇陛下がいますが、

天皇陛下は、外国の要人に会ったり、

園遊会を催したりと、

とにかくいろんな人に会うというのが

その重要な仕事の1つになっていますね٩( ๑╹ ꇴ╹)۶

 

 

つまり、以上見てきたように、

戦争や軍事の世界でも、経済とか政治の分野でも、

雑多なものを内包したり、あるいは

雑多なものの持つパワーをうまく活用できた組織や人間が、

結局は勝利することになったり、

力をもつようになったりする。

 

そんなこともあるんじゃないだろうか、なんて

天機は思うのです٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

 

が、もっと言うなら、

 

 

この世界そのものが、

雑多であることを

好んでいる

 

 

のではないだろうか?

 

 

そんなふうにも、天機は思ったのです。

 

 

たとえば、

草原ではライオンが鹿を追いかけるかもしれません。

 

ライオンは鹿を食べてしまいたいでしょうし、

鹿はライオンに食べられたくない。

 

ライオンも、鹿も、

ただ己が生きることを目指して生きています。

 

 

でも、ライオンとか鹿が生きる「場」を提供している

この世界じたいは、

ライオンにも、鹿にも、

どちらにも肩入れすることがありません。

 

この世界がいつもライオンの味方をするために

いつも鹿が食べられてしまうとか、

この世界がいつも鹿の味方をするために

いつも鹿が逃げおおせるとか、

そんなことは、ないわけです。

 

ライオンが勝つこともあれば、鹿がうまく逃げることもある。

 

どちらかだけに「統一」しないで、

いろんな場合を許容しているようにも思えるのが、

この世界のありようなのです。

 

 

実際、この世界には、

人も、動物も、草花も、虫も、星も、空も、大地も、雲も、

いろんな存在がそれぞれに「生きて」いますが、

それらが「生きる」ことのできる場を貸しているだけの

この世界は、

ただ場を貸しているだけで、

どれか1つだけにしてしまおうとはせず、

世界にいろんな存在がいることを楽しんでいるふうにも

天機には思えるのですლ(╹◡╹ლ)

 

 

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人間は、知恵をもつ生き物です。

 

知恵があるので、いろんなことを考えて、

自然界の隠れた法則性を導き出したり、文明を発展させたりして、

時をおうごとに

人間がより快適に生活できる工夫を重ねてきました。

 

 

でも、この知恵とか理とかいったものは、

じつは、無秩序を嫌う、という性質も持っている

ように思うのです。

 

だからこそ知恵をもつ人間は、

混沌とした状況があると、それを整理したくなりますし、

いろんな雑多なものが存在していると、

それを統一したくなったりします。

 

 

でも、この世界というのは、本来は、

雑多なものが雑多なまま存在していること、

いろんな存在が併存していることを好む世界だ、

ということを考えると、

たまには人も、「統一」することをやめて、

自分の中に「いろいろ」を取り込んでみるのも、もしかしたら、

この世界がよろこんで運をくれることなのかもしれません。

 

 

それはなにも大きなことでなくてもよくて、

たとえば日常においても、

たまには、いつも好んで食べている食べ物ばかりでなく

普段食べていないようなものを食べてみる、とか、

いつもは行かないようなお店に入ってみるとか、

聴いたことのないような音楽をときには聴いてみる、

とかいったようなことでも、あるいは

運がやってくるかもしれない。

 

 

なぜって、この世界は「いろいろ」が好きだから

 

 

 

そんなことを、思っていました。

 

 

 

 

以上、天機でした( ´ ▽ ` )ノ