この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

苦の剰余価値は

みなさん天機です。٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

 

今回は、苦の剰余価値

というテーマで書いてみようと思います。

(この記事の字数は 約2300字)

 

 

 

日本では、がんばること、苦労することが

称賛されるような傾向があるのではないか、

と、天機はときどき思うことがあります。

 

 

 

夏になると高校野球がありますが、

甲子園の舞台に立つためには、

球児はハードなトレーニングをこなす必要があります。

 

 

 

それも含めて、

見ている側の人間は、がんばることを称賛します。

 

 

 

また、夏になると24時間テレビもありますが、

その番組の中では、

健常者も、そして障害者も、

がんばってなんらかの課題をこなすコーナーが

ありますね。

 

 

 

障害者だったら、たとえば登山だったり。

 

健常者だったら、100キロマラソンだったり。

 

 

 

とにかく、頑張ることが称賛されるわけです。

 

 

 

頑張ることは、本人にとっては、

時としてつらいものです。

 

 

 

頑張りすぎると、過労自殺のような不幸な出来事が

生じることもあります(つд`)

 

 

 

でも、ここ日本においては、

頑張ること、苦労することは、

称賛されることが多いのです。

 

 

 

それはなぜでしょうか。

 

 

 

いろんな考え方、

日本の文化や習慣、社会のありようといったものから考えても、

これについてはいろんな考え方があると思うのですが、

天機は、自分の変な考え方を述べてみたいと思います(*゚▽゚)ノ

 

 

 

それは、

 

苦の剰余価値(くのじょうよかち)

 

という考え方です。

 

 

 

この世界では、なにか目的を達成しようとしたときに、

エネルギーが100%、

その目的達成のために使われるとは限りません。

 

 

 

エネルギーの一部が無駄になってしまったり、

横取りされたり、

本来想定されていたところとは違うところへ

一部がいってしまう、ということは、

めずらしくはないのです。

 

 

 

たとえば、自動車はエンジンを積んで、

そのエンジンのなかでガソリンが燃焼することで動いていますが、

ガソリンが燃焼することで得られるエネルギーの100%を

自動車の推進力として利用できているわけではありません。

 

 

 

その一部は、無駄になってしまっています。

 

 

 

ガソリンが燃焼することで得られるエネルギーのうち

どれくらいの割合を有効に活用できているのかを測る指標が

燃費効率です。

 

 

 

資本主義の世界でもそうです。

 

 

 

労働者は労働によって利潤を生みだし、

その労働に対する対価を得ていますが、

自分の労働から生み出した果実の100%が

労働者に還元されているわけではありません。

 

 

 

労働者が生み出した利潤のうち、

一部は資本家のもとに留保され、

さらなる経済活動のための原資となるわけです。

 

 

 

この、労働者が生み出したけれども、

資本家によって一部召し上げられてしまうところの

利潤のことを、

共産主義の理論的支柱を提供したマルクスは、

 

剰余価値

 

という名前で呼びました。

 

 

 

さて。

 

 

 

人間が頑張ること、苦労することにも、

じつは、この

 

剰余価値

 

があるのではないか、と、天機は考えるのです٩( ๑╹ ꇴ╹)۶

 

 

 

たとえば高校球児を考えてみましょう。

 

 

 

高校球児たちは、甲子園にでて活躍するために、

日々、猛烈な練習を繰り返します。

 

 

 

それが、苦、です。

 

 

 

この苦をあじわうことによって、高校球児たちは、

 

あるいは青春の思い出ができたり、

 

あるいは仲間との友情が育めたり、

 

あるいは肉体的にも精神的にも強健になったり、

 

あるいは女の子にモテたり、

 

あるいは活躍することで自尊心を満足させられたり、

 

あるいは報道されることで有名になったり、

 

あるいは、

のちにプロ野球選手になる道がひらけて、

人生がおおきく展開していったり、

 

といったふうに、いろんなメリットが得られる可能性があります。

 

 

 

これが、

高校球児たち自身が、自分自身で受け取ることのできる価値

自分自身に還元されるところの価値です。

 

 

 

ところが、

高校球児たちが頑張ったことによって

この社会に、この世界に、生み出された価値は、

これにとどまるものではありません。

 

 

 

高校野球という興業がおこなわれることによって、

社会のいろんなところで助かるひとがいます。

 

 

 

甲子園を運営して、観客を受け入れている事業主体。

 

選手や応援団を移送する観光バス会社。

 

選手や応援団を宿泊させるホテルや旅館。

 

日々の活躍を報道するテレビや新聞などの報道機関。

 

かちわり氷やビールを売る売り子さん。

 

観客を移送する鉄道会社。

 

そして、選手たちの白熱するプレーを見て、

感動したり、勇気をもらったり、元気になったりする、

数えきれないほど多くのひとたち。

 

 

 

こういった恩恵を受けるいろんな主体やひとびとが

存在できるのは、

選手が日々の泥臭いトレーニングに励んだからです。

 

 

 

もし、選手たちが、

そんなしんどいことは馬鹿らしいからやめておいて

家でスマホでゲームでもしてようよ、

と思っていたら、

選手の外側にいるこれらの組織体とかひとびとは、

なんらの経済的利益も、なんらの感動も、

得られなかったかもしれないのです。

 

 

 

というように。

 

 

 

ひとが頑張ると、

頑張ったひとそのひと自身が手にすることのできる

利益や恩恵といった価値以外に、

その周囲のひとや組織にむかっておおきく波及していく

ところの

 

剰余価値

 

がうまれると、天機は思うのですლ(╹◡╹ლ) 

 

 

 

この剰余価値が社会や世界におおきな福利をもたらすために、

苦は称賛されることがあるのではないか。

 

 

 

天機はそんなふうに思いました。

 

 

 

もっとも、この剰余価値を目当てに、

苦労する本人に苦労させるだけ苦労させて

自分はその苦の剰余価値だけをせしめよう、

なんていうのは、

搾取に関係する非常に醜い側面かと思いますが、

もし、

その苦労した本人がきちんと報われることを前提として、

そのうえでさらに、周囲に波及していく効果があるのなら、

苦も捨てたもんではないなあ、

と、天機にしてはめずらしく、そんなことを考えたのでした。

 

 

 

以上、天機でした(*゚▽゚)ノ