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最近は世界中でいろんな分断がすすんでいると
報じられたりもしていますよね
移民問題とか政治問題、物価高や戦争のことなど、
なにか怒っている人のほうが多くて、
楽しみを求める人は
数が減っているような、そんな印象さえ受けるんですよ
よく、書籍とかネットなんかでも
正しさよりも楽しさのほうが大切なんだよ、みんな
楽しさのほうを求めようよ、なんて
呼びかけている人がいますよね
たしかに言っていることには一理あるような気もするんですが、
最近の世界では
楽しさを求めるような人はだんだん減っていて、
反対に正しさを求めて怒っている人が増えているような、
そんな気もするんです
そんな世界だからこそ、
寛容であるということの価値は
いまいちど、注目されてもいいようにも思うんですよね
1人1人の人がお互いに相手にたいして寛容さを持つことで、
細かいことに目くじらをたてたりせずに
社会にあたたかい雰囲気が戻って来る。。。
そんなことも、もしかしたら
あるのかもしれませんね
でも、その寛容さ
自分は思うんですが、この寛容さを実現するときには、
「寛容の相互性」
というのが、非常に重要になってくるようにも思うんですよ
つまり、いっぽうだけが一方的に寛容であることを
求められるのではなくて、
「お互いに」寛容であるようにしようよ、
ということなんです

ここにAさんとBさんがいるとしますね
そこに誰かがやって来て、Aさんにこう言うんですよ
「AさんはもっとBさんにたいして寛容さを示すべきだ。
寛容であるということは、社会にとって重要なことなんだよ」と
なるほど、と思いますよね
たしかに、社会が円滑に回っていくためには
寛容さは必要でしょう
ところがですね
この人は、Bさんに対しては
まったくそんなことは言わないんですね
Bさんに対しては
「Bさん、Aさんに対してもっと寛容になろうよ。
寛容であることは、社会にとっては必要なことなんだよ」
なんてことは、いっさい言わないんです
寛容であることは社会にとって重要なこと、
みんなでもっと寛容な社会をつくろうよ
たしかに、一見いいことを言っているように聞こえますよね
ところが、このやってきた世間のひとは、
その寛容になろうという呼びかけを
Aさんだけにしかおこなわないんですよ
Aさんは仕方なく相手に寛容さを示します
ところが、BさんはAさんにたいして
びた一文も寛容さを示さないんですよ
これって、なんだかおかしくはないですかね?
寛容であることはたしかに社会を円滑にしていくには
必要なことかもしれませんが、
それも「お互いに」寛容であってこそ、でしょう?
いっぽうだけが一方的に寛容さを強要されるなんて、
いっぽうは相手の奴隷かなにかなんでしょうか
この「お互いに」という視点は
とても重要なものだと自分は思うんです
これがないがしろにされると、
ないがしろにされたほうに怒りを生じて、結局
社会の分断を招くと思うんですね

