この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

人間のからだに関する、小さな発見3つ

みなさん天機です。٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

 

今回は、天機が天機理論を考えるなかで発見した、

人間のからだに関する小さな発見を3つ、お話しようと思います。

(この記事の字数は 約1100字)

 

 

 

天機は、天機独自の理論をかんがえるために、

日常のごくごくあたりまえのことをずーっと考え続けているのですが、

そのなかで、つぎのようなことを見つけました。

 

 

 

その①

「首から上と首から下、黒いものと白いもの」

 

 

 

人間の首から上には頭が、人間の首から下には胴体があります。

 

そして、首から上にも、首から下にも、それぞれ、黒いものと白いものが

あるんですね。

 

 

 

首から上の黒いものは、かみの毛とかヒゲとかです。

首から上の白いものは、歯です。

 

 

 

首から下の黒いものは、陰毛とかわき毛とかです。

首から下の白いものは、爪です。

 

 

 

そして。

 

 

 

首から上の黒いもの(かみの毛とかヒゲとか)は、

ほっておくと、どこまでも伸びるようです。

 

が、首から上の白いもの(歯)は、どこまでも伸びるわけではありません。

 

 

 

いっぽう、

首から下の黒いもの(陰毛とかわき毛とか)は、

どこまでも伸びるわけではないのですが、

首から下の白いもの(爪)は、ほっておくと、どこまでも伸びるようです。

 

 

 

まとめると、

 

首から上の黒→のびる

首から上の白→のびない

首から下の黒→のびない

首から下の白→のびる

 

ということになります。

 

 

 

首から上、首から下、そして、黒と白で、

伸びるか伸びないかが、正反対になっているのですね٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

 

その②

「見えるものと、見えないもの」

 

 

 

人間は、自分の髪の毛を自分で見ることは難しいですが、

自分の陰毛を自分で見ることは、たやすいです。

 

 

 

いっぽう、

人間は、他人の髪の毛を見ることはたやすいですが、

他人の陰毛を見ることは、難しいです。

 

 

 

まとめると、

 

自分の髪の毛→見にくい

自分の陰毛→見やすい

他人の髪の毛→見やすい

他人の陰毛→見にくい

 

となるわけですね。

 

 

 

なぜ、難しいのか、たやすいのか、

その理由は異なっているのですが、ちょうど対照的になっていますね٩( ๑╹ ꇴ╹)۶

 

 

 

では、最後です。

 

 

 

その③

「健康なときと、病気のときでは、流れが反対になる」

 

 

 

人間は、健康な時は、「上から入って下から出ます」

 

食べ物や飲み物を口から取り入れて、下からうんこやおしっこをだしますね。

 

 

 

このこと自体は病気の時も変わらないのですが、

病気の時はそこに、「下から入って上から出る」という、

反対方向の流れが加わります。

 

 

 

病気の時は、下から、座薬や浣腸が入ります。

上からは、鼻水や嘔吐、咳がでますね(*゚▽゚)ノ

 

 

 

天機はこんなことを1人で考えて、1人で悦に入っています٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

 

以上、天機でした(*゚▽゚)ノ

神様には本当に慈悲はあるのか

みなさん天機です。٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

 

今回は、神様には本当に慈悲はあるのか

について書いてみようと思います。

(この記事の字数は 約1500字)

 

 

 

新型コロナウイルスの感染拡大がつづいています(つд`)

 

これまでにも、人間の社会をさまざまな災厄が襲ってきましたが、

そのたびに人間は、

そういった災厄がおさまるように神に祈ったり、

こんな災厄があるなんて神も仏もないのだろうか、と

憤ったりしてきました。

 

 

 

神様がほんとうに慈悲深い存在ならば、

なんで人間をそんなに苦しめるようなことをするのだろう?

それっておかしくない?

 

そう考えたひとは、多いかもしれません。

 

 

 

実際、キリスト教では、そのことが大問題になってきました。

 

 

 

キリスト教で想定されている神様は、

全知全能の善なる唯一神です。

 

全知全能であって、しかも善なる神なんだから、

人間に災厄をもたらすはずはない。

 

なのに、実際にはこの世界には、いろんな苦しみや災厄が存在する。

矛盾するではないか。

 

というわけで、

中世の神学なんかでも、大論争になってきたのです。

 

 

 

中東のほうだったかな、ゾロアスター教かなんかでは、

このことについて、ちがった解釈をしているようです。

 

つまり、じつはこの世界というのは、

全知全能の善なる唯一神だけが支配しているのではなくて、

善なる神様と悪なる神様が、せめぎあっている

 

ときには悪なる神様のほうが力が強くなることもあるので、

それで、この世界には災厄が存在するんだ、と。

 

 

 

天機もこの問題について、考えてみました。

 

 

 

神様が慈悲深くて、善なる存在だと考えるのは、

キリスト教にかぎった話ではないと思います。

 

ここ日本でも、日本人はお正月には初詣に行ったりすると思いますが、

あれなんかは、

神様が人間に良い影響を与えてくれるという前提のもとに、

そのご利益をもらいに行くものではないでしょうか。

 

 

 

つまり、全世界的に、おおくのひとは、

神様というのは善なる存在で、慈悲深くて、

人間に無条件に利益をもたらしてくれるのだ、と、

なんとなく思っているのです。

 

 

 

ですが天機は(いつものことですが)、

違った風に考えてみました٩( ๑╹ ꇴ╹)۶

 

 

 

神様がそもそも神様であるゆえんは、

全知全能で人間に幸福をもたらしてくれるから神様なんではなくて、

なんらかの特殊な力を持っている

そのこと自体だけが、神様の神様たる源泉みたいなものなのでは?

 

つまり、

たくさんのひとが考える神様というのは、

人間に利益や幸福をもたらしてくれるという意味でプラスの存在なのですが、

実際には神様はそうではなくて、

あくまで中性な存在なのではないでしょうか。

 

 

 

そして、ひとびとが神社仏閣や教会に祈りに行ったりお願いをしに行ったりするのも、

本来は、

 

ねえ、神様、あなたは全知全能で善なる存在なんでしょ?

その善なる力で人間、わたしに、幸福をさずけてくださいな💛

 

という祈りの仕方は「誤り」で、じつは、

 

ねえ、神様、あなたは特別なすごい力を持っているんですよね?

その力を神様がどう使うかは、わからない

人間の幸福のために使ってくれるかもしれないし、

もしかしたら、人間をいじめるために使うことだって、できちゃうかもしれない。

でも、もし人間の幸福のためにその力を使ってくれるんなら、

すごくうれしいんだけどなー??

 

みたいな、すごい控えめな祈りの仕方が、

じつは本来の祈りなんじゃないかって、そんなふうに天機はふと、思いました。

 

そこには、

手を合わせたり、お賽銭を入れたりしたら、自動的にご利益がでてくる

ATM的な神様観ではなく、

畏れをふくんだ神様観があるような気もします。

 

 

 

以上、天機でした(*゚▽゚)ノ

減収世帯に20万円?政府のコロナ経済対策

みなさん天機です。٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

 

今回は、政府のコロナ経済対策について、思うところを書いてみたいと思います。

(この記事の字数は 約1800字)

 

 

 

ついさきほど、政府がコロナ経済対策として、

減収世帯に20万円を支給する方針を固めたとの報道がありました。

 

収入が減少したことの資料を役所に提出することを要件とし、

対象世帯は全5800万世帯のなかの、約1000万世帯を見込んでいるようです。

 

 

 

政府のコロナ経済対策については、これまでにも各方面から反対意見などが

あいついでいて、

天機も思うところがあります( ゚Д゚)㌦ァ!!

 

 

 

まず、いちばん簡明でわかりやすい経済対策をとるのなら、

 

全国民に一律に、1人あたり10万円を支給

 

とかがいいのではないでしょうか。

 

 

 

これなら、一見したところの不公平感はまったくないので、

比較的多くの国民に受け入れられやすく、また、

支給にあたっての事務作業は大幅に簡略化されるでしょう。

 

 

 

 

日本にはおおよそ、1億2000万人の国民がいるとすると、

1人に10万円を支給するのに、総額で12兆円必要になります。

 

が、いいかえると、それくらいの経済対策をとっても、

12兆円ですむということです。

 

政府は総額で60兆円ほどの経済対策をとるとも言っているのですから、

そのうちの12兆円をそのように使っても、罰はあたりますまい。

 

 

 

アメリカなんかは、総額で240兆円ほどの経済対策をとり、

大人1人あたり13万円ほど支給するとも言われています。

 

アメリカと日本ではGDPの規模も違いますし、また、現段階では

日本はアメリカほど深刻なコロナ被害はでていないので、

アメリカと同規模の経済対策をとる必要は、かならずしもないとは思います。

 

が、12兆円くらいなら、十分、日本にも支出する余力はあるのでは

ないかな、と思うんですよね。

 

しかし、なぜだか財務省は、頑として金を出したがらない…(つд`)

 

 

 

次善の策としては、

住民税非課税世帯などの生活困窮世帯にしぼって一定金額を支給することでしょうか。

 

 

 

ある程度所得の低い世帯に的をしぼることで、

生活困窮する可能性の高い世帯を重点的に支援することが可能になるほか、

住民是非課税世帯なら役所でチェックすることが簡単で、

支給にあたっての事務作業が煩雑にならずにすむ、という利点もあります。

 

 

 

このように考えてくると、たぶん、

 

減収世帯

 

にかぎって支給するという案は、いろいろと問題をかかえた案だろうと、

天機なんかは思うんですよね((((;゚Д゚))))

 

 

 

たとえば、ここに、コロナ騒動前の収入が月50万円だった正社員の夫婦がいる

とします。

 

その夫婦は、今回のコロナ騒動で、収入が月30万円に減りました。

 

あ、減収しているな、減収しているからこの世帯には支給しよう、

と、まあ、そうなるとしますよね。

 

 

 

じゃあ、こんどは、

コロナ騒動前から収入が月30万円だった正社員夫婦がいるとしますね。

 

この夫婦は、コロナ騒動のあとにも収入は減らず、月30万円のままでした。

 

あ、この世帯は減収はないな、なら、支給しないでおこう、と。

 

まあ、そうなりますよね。

 

 

 

でも、これっておかしくなはいでしょうか。

 

もともと50万円で30万円に下がった世帯と、

30万円で変化がない世帯とでは、いったい、どちらのほうが

たいへんな思いをしているのでしょうか??

 

 

 

これは一概には言えないと思うんですよね。

 

50万円だった世帯は前年においては、20万円分の余力があったために、

貯蓄が多いのかもしれないのです。

 

 

 

また、コロナの騒動が発生し、深刻化したのって、

せいぜいここ三ヶ月ほどのことですよね?

 

 

 

たいてい、役所が把握する年間所得って、

1年に1回、公的機関に申告することで把握されるものだと思うんですよ。

 

月単位での収入の変動なんて、たぶん、役所は把握してないですよね。

 

そうすると、公的なお墨付きのない個人的な書類でもって、

収入の減少を申告することになるのでしょうか。

 

その書類の真実性は、どのように担保されるんでしょうかね。

 

 

 

とまあ、それ以外にも、減収ということを要件にした場合には、

いろいろな問題がありそうに思えます。

 

 

 

政府には、支給にあたっての手続きをいたずらに複雑化することなく、

簡便にスピーディーに実効ある対策をとってほしいと天機は思います(*゚▽゚)ノ

国家の福と、個人の福と

みなさん天機です。٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

 

今回は、国家の福と、個人の福と、について書いてみようと思います。

(この記事の字数は 約2200字)

 

 

 

前回、以下のような記事をアップしました。

 

 

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

 

 

この記事の中で、インドや中国といった国では、日本とはことなって、

占術が高度に発達しており、

個人の幸福というのを執拗なまでに実現しようとする

国民性があるのではないだろうか、というお話をしました。

 

今回は、それに関連するお話をすこし。

 

 

 

たとえば、お金に関することでいえば、

漫然と宝くじを買って当選を夢見ていても、あまり成果はなかったりしますよね。

 

そのいっぽうで、株式投資を専門的に研究しているひとのなかには、

何十億も稼いでいるひとがいます。

 

もし、株式投資が宝くじのように、完全に運否天賦の勝負なら、

何十億も勝ち続けるのは不可能でしょうから、

株式投資は水物のように見えても、

そこにじつは、なんらかの法則性が存在するのではないか、

ということがうかがえます。

 

 

 

占いにお話を戻すと。

 

 

 

日本で人気のある、出生時間を問わないなんちゃって四柱推命とか、

すべてのひとを9種類にざっくり分類する九星気学とか、

あるいは動物占い、血液型占いなんかも日本では人気ですが、

そういった占いは、楽しくはあるけれども、

個人の幸福を実現するといううえでは、あまり成果がなかったりします。

 

 

 

その反面で、

インドや中国のように、徹底的に理論を考え抜いてつくられた占術なんかは、

ちょうど、

法則性などなさそうなところに法則性を見出して稼いでいる株式投資のように、

個人の幸福を実現するうえで、おおきな力があるのかもしれません。

 

 

 

そこで、じゃあ、インドや中国のように、

個人の幸福を実現する力の大きい占術のほうが素晴らしくて、

ひとびとはみな、そちらのほうをやったほうがいいのか。

 

 

 

というと、たぶん、

 

それがそうでもない

 

のだと、天機は思うのです。

 

 

 

というのは、

インドや中国のように、「個人の」幸福を徹底的に実現しようという

執拗な占いを国民みながやっているような国というのは、

どういうわけか、

貧困に悩まされていたり、社会問題をかかえていたりする傾向があるように、

天機には思えるからなんですね。

 

 

 

ちょっと占いからはそれて、文化や社会の話にうつりますと、

インドや中国というのは、個人や徒党を重視する傾向からか、

 

小勢力が乱立しやすい

 

社会でもあるのです。

 

 

 

たとえば、インドでは、大英帝国東インド会社をつくって

過酷な帝国主義支配をおこないましたが、あれなんかも、

ムガール帝国崩壊後にインド国内で小勢力が乱立する状態になり、 

統制がとれなくなったところを、イギリスにつけこまれた、

という側面があったりします。

 

 

 

中国もそうです。

 

第二次大戦前の十五年戦争のとき、日本の軍国主義勢力の侵入に

中国は悩まされましたが、あれなんかも、

中国国内で軍閥が乱立していたために、

統一的に日本に対して抵抗ができなかったからです。

 

 

 

日本はその点、逆です。

 

明治維新がはじまるまえ、イギリスの勢力は薩長側に、

フランスの勢力は幕府側に、それぞれ加担してあらそっていました。

 

諸外国ではその当時、実際に、

そうしてイギリス、フランスの後押しを得た勢力がたがいにあらそって、

国がめちゃくちゃになってしまったところもいくつかあったのです。

 

 

 

しかし、日本では、明治新政府と旧幕府が戦争をはじめようとしたときに、

なぜだか幕府側の総大将である徳川慶喜は大阪から撤退し、

なぜだか勝海舟江戸城無血開城するなどして、

日本国内が泥沼の内乱におちいり、諸外国の草刈り場になることを防いだのです。

 

それなんかは、

自分の側の勢力が勝つこと、利益を得ることよりも、

日本国全体の利益に視点が向いていたからこそ、できたことなんだろうと

天機は思っています。

 

 

 

このように、

インドや中国では、自分個人、自分の家族、自分の徒党、自分の小勢力の

利益を優先するために、結果、

国家全体の利益はそこなわれて、おおくの人民が塗炭の苦しみにあえぐことが

よくあります。

 

日本は逆で、

個人の利益がある程度おさえられていたり(所得税最高税率なんかも高い)、

国民皆保険制度なんかも整備したりして、

日本型社会主義なんかと揶揄されながらも、

国家全体、国民全体の利益に意識が向くことが多い社会なのかもしれません。

 

 

 

で、ここで占いや占術に話を戻すと。

 

 

 

もしかしたら、

この世界にある福運というのは、その総量が決まっているのではないか。

 

国家にある国家の福運というのも、その総量が決まっているのではないか。

 

天機は、そんなふうにも考えるのです。

 

 

 

国家の福運というのは、いうなれば、1つの巨大なおまんじゅうみたいなもので、

個人が、たとえばインドや中国のように、

高度な占術を発達させて、国民がこぞってその占術を使用することで、

その福運を自分個人の幸福のために

 

かすめとって

 

いくと、結果として、国家の福運はそのぶんやせ細っていき、

そのために国家や社会の全体の利益は、

だんだんと損なわれていくんじゃないだろうか。

 

日本の指導層は、なぜだかそのからくりを知っていたので、

あえて、

日本においてはそういう高度な占術が広まることのないように

努めたのではないだろうか。

 

 

 

天機は、そんなふうなことを考えました。

 

 

 

以上、天機でした(*゚▽゚)ノ

 

日本ではなぜ、高度な占術が発達しないのか

みなさん天機です。٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

 

今回は、

日本ではなぜ、高度な占術が発達しないのか

というテーマについて書いてみようと思います。

(この記事の字数は 約4600字)

 

 

 

占いにはいろんな種類があります。

 

街中の占い店をのぞいても、いろんな占い師のかたが、

いろんな手法で占っているのを目にすることができます。

 

 

 

天機はいまから20年ほど前、大学生だったころに

占いの世界にはまるようになり、

それから20年間、占いとつきあってきました。

 

 

 

そんななかで思うことなのですが、

 

日本には本格的な占いがなかなか定着しないなあ

 

と思うのです。

 

 

 

たとえば、日本で独自の発達をとげた占いに、

 

九星気学

 

というものがあります。

 

 

 

これは、人間がどの年にうまれたかによって、

すべての人間を9種類にざっくりと分類し、

そのひとの運勢から、吉方位凶方位までを見てしまうという、

なんともざっくりとした占いなのですが、

日本ではなぜか人気があり、これを専門にする占い師さんも多いです。

 

みなさんももしかしたら、五黄土星とか、九紫火星とかいった言葉を

聞いたことがあるかもしれません。

 

あれが九星気学です。

 

 

 

東洋占術、たとえば、紫微斗数四柱推命では、

基本的には、2時間単位での出生時間がわからないと占えませんし、

インド占星術や西洋占星術でも、きちんと占おうと思えば、

出生時間が必要です。

 

 

 

しかし、日本の九星気学、そして、日本で独自に簡略化された四柱推命では、

出生時間を見ずに占ってしまいます。

 

そして、そういった占いの人気は、日本では高いです。

 

 

 

海外、とくに中国やインドの占いと、日本の占いを比べた時に思うのは、

 

インドや中国では、

運命学を真剣に研究すれば、

真実に到達できると考えている。

 

対して日本では、占いというものを、

どうもうさんくさくとらえているフシがあって

そこまで究めようとはしない。

 

そんな違いがあるのではないだろうか、と思うのです。

 

 

 

人間が幸運を手に入れる秘術、技法のようなものがあるのではないか、

という考え方と、

その幸運を手に入れるために、なかば執念のようなものをもって

運命学や占術を研究する、といった姿勢は、

中国やインドにおいては、ことのほか強いです。

 

 

 

たとえば中国では、奇門遁甲という方位学があります。

 

これは、日本の九星気学による方位学なんかとは、

比べ物にならないくらい、精緻に方位の吉凶を見極めようとする術です。

 

 

 

また、風水というのも、中国発祥のものとして有名ですよね。

 

地形や、居宅の形状が、人間の吉凶に影響するというのを、

徹底的に究めた術です。

 

 

 

また、これはインドのお話なんですが、

ジョーティシュ占星術というのでは、開運のための方法として、

宝石を使用します。

 

ルビーやサファイヤといった、貴重な宝石をおおく産出するインド

ならでは、といった感じなのですが、

生年月日と生まれた時間から、インド占星術での盤をつくり、

そのひとが身に着けたら幸運になるであろう宝石を割り出すわけです。

 

 

 

なぜ、これらの国々においては、そこまで真剣に運命学や占術を究めよう

とするのか。

 

そしてなぜ、日本においては、そうではないのか。

 

 

 

天機は、その理由として、2つのことが考えられると思っています。

 

 

 

まず1点目は、

日本においては、占いや運命学は、やはり少しうさんくさいと思われていて、

学問的に執念をもって綿密に研究するような対象ではない、

と思われているだろうな、ということです。

 

 

 

日本でも、頭をつかったり、学問研究をしたりすることは、さかんです。

 

しかし、その努力の方向性としては、

経済学や商学などのいわば実学の方向へと向かうか、

あるいは、物理学や医学といった科学研究の方向へと向かうのです。

 

簡単に言うと、

人間の福利を向上するような実用的な学問には、

頭脳や努力を傾注しようとするのですが、

うらないのような「うさんくさい」ものにそこまで努力を傾注しても、

見返りは少ないだろう、と日本人はなんとなく思っているふしがあるのです。

 

 

 

それに対して、インドや中国というのは、

よくわからない運命のようなものにも、じつはその背景に法則性のようなものが

あるんじゃないか。

研究してそれを究めれば、労せずして幸運を手に入れることができるんじゃないか。

 

そのように考えているふしがあるんですよね。

 

 

 

天機は思うんですが、このインドや中国の考え方や姿勢というのは、

たとえていうなら、

馬券でシステマティックに利益をあげようと研究する人間の姿勢につうじる

ものがあるように思うんですよ。

 

 

 

たまに日本でも、コンピュータのプログラムを組んで馬券的中ソフトをつくり、

高額な儲けを得ているのに税金の申告をせず、

国税に摘発されるひとのニュースがあがることがありますよね。

 

 

 

ふつうのひとは思うと思うんです。

 

ギャンブルなんかどうやったってギャンブルなんだから、

一生懸命研究するなんて、馬鹿のやることだ。

 

それよりは、まじめに勉強していい会社にはいって、

たくさんお給料をもらうのが、堅実でかしこいやりかただ、と。

 

 

 

じじつ、日本国民のおおくのひとは、

まじめにそのような堅実な人生方針を選択します。

これは、日本人の堅実な国民性にも通底するものかもしれません。

 

 

 

しかし、ときとして、馬券的中プログラムで大儲けをするひとのように、

一見したところ、法則性など見つけられなさそうなところに、

法則性を見つけてしまうひとがあらわれることがあります。

 

運命学や占術に過度に傾注するインドや中国というのは、

そういった、濡れ手に粟、のようなものについて、

それをただ漫然と待つのではなく、

異様なまでの執念で手に入れようとする国民性を持っているのかもしれず、

他方で日本人には一般的に、そのような性質はみられない、

ということになるのかもしれません。

 

 

 

べつの言い方をすれば、日本という国、そして、日本人という人間は、

労せずして利益や幸運を手に入れることを、

なにか悪いことででもあるかのように、

心の底で思っているのかもしれません。

 

幸福や利益というのは、苦労するからこそ手に入れることができるのだ、

と、日本人はどこかでぼんやりと信じているのかもしれない。

 

 

 

つまり、苦労の美徳というものを、日本人は重視しているのかもしれず、

それが、濡れ手で粟を目指すようなたぐいの占いや運命学とは、

相性が悪いのかもしれません。

 

 

 

2点目なんですが、日本という国ではえてして、

 

知性や頭脳を、我欲と結び付けてはいけない

 

といったような思想や考え方があるのではないか、と思う時があるのです。

 

 

 

たとえば。

 

明治期の、日本がまだ開国したばかりだたったころ。

 

日本の指導層は、先進的な欧米の文明を取り入れて、

いちはやく文明国家化するために、

お雇い外国人というものを大量に採用して、

彼らに高給を支払うことにしました。

 

 

 

これなんかを見ると、知識と、金銭的な利潤が、

一見むすびついているように見えます。

 

 

 

しかし、このような破格の待遇を受けたのは、おもに、

そとからやってきた外国人だったりします。

 

それに対して、純粋な日本人は、たとえば、森鴎外だったり、

あるいは野口英世だったりとか、

そういった日本人は、日本をいちはやく文明国家化させるという、

国家の重責をになって、猛勉強したわけですが、

かならずしも、金銭的にいちじるしく報われたわけでもないように

思うのですね。

 

 

 

こんにちだって、そうではないでしょうか。

 

 

 

たとえば、日本人でノーベル賞を受賞したひとというのは、

日本という国の名声を高めたわけでもあるので、

日本の人々からすごく称賛されますよね。

 

しかし、その発明の対価をめぐって訴訟に関係するようになった、

たとえば、青色発光ダイオードの中村さんとか、

あるいは、小野薬品とオプジーボの権利をめぐってあらそっているひと

なんかには、

少なくない日本人は、眉をひそめる傾向があるのです。

 

 

 

こういった例は、知恵や知識と、金銭的な利益が結合することに、

日本という国、あるいは、日本人は、

特殊な拒否反応をしめすのではないか、と思われる例です。

 

 

 

念のため付言しておくと、

金銭的な利益を求めること、経済的に成功すること、それ自体を、

日本人は拒絶するわけではないのです。

 

 

 

たとえば、ユニクロ柳井正さんとか、ホンダの本田宗一郎とか、

そういった立志伝中の人物を、日本人は好む傾向があります。

 

 

 

しかし、そういった成功者というのは、概して、

多くの人間を組織して、その組織(企業)の力で成功を手に入れたような

ひとばかりなのです。

 

飲食店を起こして成功したひと、芸能界で成功した人などもそうですが、

みな、多くの人間を喜ばせたひとが、この国では支持される傾向があるのです。

 

 

 

ところがその反面、

頭脳や知識、知恵といったものは、

それが無償で多くの人の幸福に寄与するかぎりにおいて、

この国においては支持、評価されるのですが、

その頭脳や知識、知恵といったものが、金銭的な利益などの

力、と結合するのを、

この国はどういうわけか、非常に嫌がるのです。

 

 

 

整理すると、以下のようになります。

 

 

 

日本において支持されるもの→

 

〇 頭脳や知恵、知識が、無償に近い形でひとびとに寄与する場合

〇 多くの人を巻き込んで、あるいは、多くの人を喜ばせて、

  個人が成功する場合

  あるいは、苦労の末にひとが成功する場合

 

日本において支持されないもの→

 

〇 頭脳や知恵、知識が、個人の力や利益に直接結合する場合

 

 

 

なので、日本においては、

名探偵コナン金田一少年一休さんなどは、

いちおう、知能をみんなのために使ってくれるので支持されますが、

デスノート夜神月なんかは、いくら知能があっても、

そのままでは日本人の支持を得にくいのです。

 

 

 

同様に、

湯川秀樹朝永振一郎といった学者、あるいは、池上彰さんなんかは、

知能をみんなの幸福のために使ったり、

その頭脳でもってみんなにわかりやすく解説してくれたりするので

支持されますが、

権利をめぐって争うことになったノーベル賞受賞者中村修二さんとか、

あるいは、

東大を卒業していながらも投資で違法なことをやった

村上世彰さんなんかは、やはり支持されないわけです。

 

 

 

そして、占いについて話を戻すと、

日本において流行っている九星気学なんかは、どちらかというと、

あんまり頭を使わない占いなんです。

 

理論なんかも、精緻なわけでもない。

 

 

 

ところが、中国の紫微斗数四柱推命、風水とか、

宝石を使用するインド占星術なんかは、

理論がすごく精緻です。頭を使う。

 

そして、頭をつかって人間の幸福を執拗なまでに実現しようとするのです。

 

 

 

頭をつかって、科学や文明を発展させて、結果として人間も幸福になる、

というのではなくて、

頭をつかって、通常はあきらかでないようなこの世界の隠れた法則性に

アクセスし、

それを個人の幸福や利益、吉祥に直接、結合させようとするのです。

 

 

 

というわけなので、こういった占いは、

頭を使うことが人間の個人的な欲望に直結する傾向があるので、

日本においては、嫌われるのかもしれないと、個人的には思います。

 

占いというのは多かれ少なかれ、人間の個人的な幸福を追求するものであり、

そのことは日本でも同様なのですが、

日本においては、個人的な幸福や利益を追求することと、

頭脳を使うことが結合するのを嫌がるので、

日本の占いは、そのほとんどが、あまり頭を使わない占いになっています。

 

 

 

以上、天機でした(*゚▽゚)ノ

あったらうれしい、と、なければ困る

こんにちわ。天機です。

 

 

 

きょうは、「あったらうれしい」と、「なければ困る」について、

対比させながら考えてみたいと思います。

 (この記事の字数は 約2900字)

 

 

世の中には、仕事でも、なんでもそうなんですが、

「あったらうれしい」ものと、「なければ困る」ものがあります。

 

 

 

たとえば、仕事で考えてみましょうか。

 

 

 

家庭では、日々、ゴミが排出されますが、

そのゴミは、清掃作業員によって回収されていきます。

 

 

 

ゴミをだすのは、ふだん、当たり前のこととして、

気にも留めないでいますが、

これがもし滞ってしまうと、わたしたちは、たいへん困ります。

 

 

 

その意味で、清掃業というのは、なければ困る、

というほうに分類されるものだと思います。

 

 

 

介護サービス、というのも、そうかもしれません。

 

 

 

わたしたちは、だれもが、年をとってくると、

体も頭も、思うようには働かなくなり、

だれかのお世話にならなければならない時を迎える可能性があります。

 

 

 

介護サービス業で働いているひとびとは、

そういった大切なニーズをささえています。

 

 

 

これがもしなくなってしまうと、わたしたちは、

自分の老後に対して、大きな不安を抱きながら生活しなければ

ならないかもしれません。

 

 

 

したがって、介護サービス業もまた、どちらかといえば、

なければ困る、というほうに分類されると、天機は思います。

 

 

 

こうしてみてくると、なかには、こんなふうにおっしゃるかたも、

いるかもしれません。

 

 

 

「仕事っていうのは、どんな仕事だって、なければ困るんだよ」

って。

 

 

 

でも、じっくりと仔細に検討すれば、天機は、

必ずしもそうとは言い切れないような気がするんですね。

 

 

 

たとえば、漫画を描くことを仕事にする人々がいます。

 

 

 

ひとびとは、漫画を読むことで、楽しくなったり、

リフレッシュできたりします。

 

 

 

その意味で、漫画というのは、人々の生活に、楽しみを与えてくれるものです。

 

 

 

でも、もし漫画がかりになくなったとしても、

すこしは寂しいかもしれませんが、

日常生活をおくっていくうえで、ゴミ清掃サービスがなくなってしまった場合ほど、

はなはだしい不便を感じるものでは、ないでしょう。

 

 

 

なので、漫画というのは、どちらかといえば、

「なければ困る」というよりは、「あったらうれしい」ほうに

分類される仕事だと思うのですね。

 

 

 

同じように考えていくと、

映画作品とかで使用される美麗なVFXを制作する技術者とか、

芸能人とか、カリスマ美容師とかいった職業についてるひとたちも、やはり、

「なければ困る」というよりかは、

「あったらうれしい」職業についているひとたちだと、自分は思うのです。

 

 

 

さて、このように見てきたように、世の中には、

清掃業や介護サービスのように、「なければ困る」仕事もあれば、

漫画家や、グラフィック映像制作技術者、カリスマ美容師のように、

「あったらうれしい」仕事もあります。

 

 

 

そして、これまでの世の中では、ごくごく大雑把に言って、

 

 

 

 あったらうれしい仕事についているひとは、

金銭的にめぐまれたり、

人からもてはやされたりすることが多く、

なければ困る仕事についているひとは、

仕事が苛酷であるわりには

給料や待遇があまりよくない

 

 

といった傾向があるように、天機には思えるのですね。

 

 

 

実際、たとえば、なければ困る職業の代表格である介護サービス業に

従事しているひとなんかは、

お給料の割に労務が苛酷であることから、

離職率が大変高いことで知られています。

 

いっぽうで、売れっ子漫画家なんかは、

何億という収入があることで有名ですよね。

 

 

 

と、ここまで書いてきて、自分の論旨には反するような事例もあることに、

ふと気づいてしまいました…Σ(゚д゚;)

 

 

 

お医者さんは、なければ困る職業ですが、

その待遇やお給料はとてもいいですね。

 

また、漫画家は、売れていなければすごく収入が低いです。

 

 

 

となると、

なければ困る職業は、つらい割には待遇と給料がわるくて、

あったらうれしい職業は、待遇やお給料にめぐまれている、

という自分の説は、根拠を失ってしまいますね…

 

 

 

困りましたね。

 

 

 

あらたな場合分けを考えてみましょう。

 

 

 

労働を、

 

① 比較的苦痛をともなう単純労働

② 専門的な知識を必要とする労働

③ ひとを楽しませる労働

 

の3つに区分します。

 

 

 

①の労働には、介護サービス業や、ゴミ収集業、工場労働者などが

ふくまれますが、

この区分の労働は、たいていは、つらい割には給料や待遇が悪いことがおおくて、

それはたぶん、ほとんど変化しないと思われます。

 

 

 

②の労働には、医師や弁護士、公認会計士、看護師、税理士などが含まれ、

その職業につくのに専門的な知識の修得を必要とします。

いったんその知識を修得し、その専門的な職業についてしまえば、

好不況の波にはあまり左右されることなく、安定しているのが特徴です。

 

 

 

③の労働には、演劇家、漫画家、作曲家、音楽家、映像技術者、カリスマ美容師

などが含まれ、ひとを楽しませることをなりわいとしています。

この③の区分に属するひとには、駆け出しの漫画家アシスタントや、

テレビのADなど、収入や待遇がいまだよくないひとも含まれますが、

ハリウッドの映画スターや、売れっ子漫画家など、

いったん人気を得れば、

②の区分の労働者の待遇や給料をはるかに超えるものをえられる可能性を

もった労働者です。

 

 

 

ふむふむ。

 

こっちの分類のほうが、実態にやや合致している気がしますね٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

 

さて、このように職業を分類してみたのですが、

じつは、今回の新型コロナウイルスの拡大という状況の中で、

いちばん割をくっているのが、

③の、ひとを楽しませる職業についているひとたちなのです。

 

 

 

新型コロナウイルスの感染拡大によって、

いろんなイベントが自粛を求められたり、ひとが集まることが

避けられたりするようになってきました。

 

そのなかで、

俳優業についているひとや、音楽家、演劇家といったひとたちが

収入が大幅に減って苦労しているという話も聞きます。

 

また、映画館に足をはこぶひともずいぶん減っているために、

映画館の収入も落ち込んでいるようです。

 

 

 

という流れがあるので、やはり、先の職業分類で③に属した

人を楽しませる職業についているひとが、

今回の新型コロナウイルスの感染拡大によって、

おおきな苦痛を受けていることは、間違いないようです。

 

 

 

そして、すごくおおまかに分けてしまうと、さきの3つの職業分類では、

①と②は、なければ困る職業に、③は、あったらうれしい職業に、

どちらかといえば分類されるような気もするんですね。

 

 

 

今回の新型コロナウイルスの感染拡大という事態は、

かつてなかったものであり、今後どのように展開していくのか、

いつごろ終息するのか、といったことが非常に不透明な状況です。

 

もしかしたら、非常に長期的に人類を苦しめることになるかもしれません。

 

 

 

かりに今回の新型コロナウイルスの感染拡大が長期化していくような

ことになれば、

ひとびとに、いろんなことを楽しむ余裕がなくなってしまうために、

ひとを楽しませる職業、あったらうれしい仕事は、

だんだんと追いやられることになってしまうのかもしれません。

 

 

 

以上、天機でした(*゚▽゚)ノ

 

ウイルスうつしてやる男と、因果関係の存否

みなさん天機です。٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

 

今回は、ウイルスうつしてやる男と、因果関係の存否

について書いてみようと思います。

(この記事の字数は 約3700字)

 

 

 

新型コロナウイルスに関するニュースが、毎日ながれています。

 

そんななか、先ごろ、とんでもない男のことが報道されました。

 

 

 

その男は、新型コロナウイルスの検査で陽性となり、

行政から自宅待機を要請されていたにもかかわらず、

なんと、ウイルスをうつしてやるんだ!などと放言し、

実際にフィリピンパブなどに行って接客してもらった結果、

女性従業員の感染が発覚したらしいのですΣ(゚д゚;)

 

 

 

なんともひどい話です。

この男の行為は、当然、強い非難に値するでしょう。

 

 

 

さて、世間では、この男の行為を、

なんらかの犯罪行為に当たるとして処罰できないものか、

ということが議論されているようです。

 

 

 

考えられる犯罪としては、いろんなものがあると思いますが、

そのなかに傷害罪というのがあります。

 

簡単に言うと、

ひとを傷つけるという実行行為があって、

実際に被害者に傷害の結果が発生すれば成立します。

 

 

 

たとえば、今回のこの男の事例とすこし似ているかもしれませんが、

みずからがエイズに感染していることを知りながら、

それを黙して性行為におよび、相手方をエイズに感染させたひとが、

この傷害罪に問われた事例があるようです。

 

海外の事案だったような気もしますが。

 

 

 

では、今回のこの男も、

ウイルスを感染させてやるんだ!と放言して街中にとびだし、

実際にフィリピンパブの女性従業員が感染したという結果が発生した以上、

傷害罪の成立が認められるのでしょうか?

 

 

 

天機は大学で法学をまなんだことがあり、

つたない知識ですが、いちおう、自分で考えてみることにしました。

 

 

 

さて、日本では、罪となる行為とそれに対する刑罰は、

あらかじめ明確に法律でさだめておかなければいけない、という

罪刑法定主義がとられています。

 

その罪刑をさだめているものの1つが、刑法の各本条なのですが、

その各本条を構成している要素をこまかく分解したものを、

 

構成要件

 

といいます。

 

 

 

犯罪にあたるのかどうかの認定においては、

この、構成要件に該当しているかどうかを、ひとつひとつ確かめていきます。

 

かりに、どれか1つでも、構成要件に該当してはいない、となると、

それだけで犯罪は成立しない、とされてしまうものなのです。

 

 

 

さて、その構成要件を構成する要素の1つに、

 

因果関係

 

というのがあります。

 

この因果関係というのは、犯罪となる実行行為と、それによる結果とのあいだが、

ちゃんと線でつながっているかどうかを確認するための構成要件要素です。

 

いくら実行行為があって、また、結果が発生していたとしても、

因果関係が切断されていたら、構成要件要素が欠けているとして、

やはり犯罪は成立しないのです。

 

 

 

この、刑法上の因果関係というのは、

刑法では厳密に検討していきます。

 

 

 

まず、因果関係が存在するためには、その前提として、

 

条件関係

 

が存在しなければいけない、とされています。

 

 

 

条件関係というのは、単純にいうと、

 

あれなければ、これなし

 

という関係です。

 

 

 

なんのこっちゃ?と思われる方も多いと思いますので、説明しますと、

あれなければこれなし、というのは、

Aという実行行為がかりになかったならば、Bという犯罪結果は発生しなかっただろう、

という関係のことです。

 

 

 

もしかりに、Aという実行行為がなかったとしても

Bという犯罪結果は生じたのならば、実行行為と犯罪結果のあいだには

条件関係が存在しないことになります。

 

そして、刑法においては、条件関係がそもそも存在しない場合には、

それだけで因果関係の存在が否定されます。

 

その場合には、因果関係が欠けているということで、

犯罪は成立しません。

 

 

 

というわけで、条件関係が存在することは、刑法上の因果関係が存在することの

スタートラインなのですが、これだけでは、

まだ、因果関係が存在することにはならないのです。

 

刑法上の因果関係が存在するといえるためには、条件関係の存在にくわえて、

 

相当因果関係

 

が存在することが必要なのです。

 

 

 

相当因果関係。

 

耳慣れないことばですね。

 

じつは、これは、

その実行行為からその犯罪結果が生じることが、ふつうの一般人から見て、

おかしいものではないかどうか、

という基準をもとに判断されるものなのです。

 

 

 

というわけで、刑法で犯罪が成立するためには、因果関係が存在する必要が

あるのですが、

その因果関係は、条件関係の存在を前提にして、さらに、

相当因果関係まで存在することが肯定されて、はじめて認められるものなのです。

 

 

 

具体例でみてみましょう。

 

 

 

AさんがBさんをナイフで刺しました。

 

その傷は致命傷となるものではなく、病院できちんと治療を受ければ通常は

治癒するものであったのですが、

搬送されたさきの病院でたまたま火災があり、

火災報知器が運悪く故障していたために通報できず、消火活動が遅れたために、

Bさんは火災に巻き込まれて命を落としました。

 

 

 

この場合、AさんがBさんをナイフで刺突するという実行行為はあり、

また、Bさんの死亡という結果も発生しています。

 

ならば、殺人罪のようなものを成立させていいのでしょうか。

 

 

 

ここで、さきほどの因果関係が問題になります。

 

まず、AさんがBさんをナイフで刺さなければ、病院に担ぎ込まれることもなく、

火災に巻き込まれることもなかったでしょうから、

Aさんの実行行為とBさんの死という結果発生のあいだには、

条件関係の存在を肯定できます。

 

 

 

しかしながら、ふつうの一般人ならば、

傷が致命傷ではなく、病院にかつぎこまれたならば、

きちんと治療をうけて回復するだろうと予想するのが自然なはずで、

病院がなぜか火災に遭い、なぜか火災報知器が故障していて、

結果的に絶命してしまうなんていうのは、異常な因果経過によって

結果的に死が発生したものというほかなく、

一般人が想定する因果経過とはおおきくかけ離れたものになっているといえます。

 

 

 

したがって、この場合には、相当因果関係が切断されてしまっていると

評価できるので、ふつうに殺人罪を成立させることは、

できないということになります。

 

 

 

では話をもどして、コロナウイルスうつしてやる男と、

フィリピンパブ女性従業員の感染について、

傷害罪が成立するのかどうかを考えてみましょう。

 

傷害罪が成立するのには、これまで述べてきたように

因果関係の存在が必要なのですが、今回の事例では、どうでしょうか。

 

 

 

一見したところ、

男が、ウイルスうつしてやる!と叫んで街中にくりだし、

実際に女性従業員が感染しているという事実がある以上、

因果関係が肯定できそうにも見えます。

 

が、厳密に考えてみましょう。

 

 

 

因果関係が存在するためには、これまで見てきたように、まず、

条件関係が存在する必要があります。

 

あれなければ、これなし、という関係でしたね。

 

では、このウイルスうつしてやる男のとった行動と、

パブの女性従業員が感染したという事実のあいだには、

条件関係が存在するといえるのでしょうか。

 

 

 

これはそう単純ではないのです。

 

じつは、この、ウイルスうつしてやる男の、ウイルスうつしてやる行為が

なかったら、

女性従業員が感染しなかったのか、というと、

かならずしもそうとばかりは言えないからです。

 

 

 

さきに、自分がエイズに感染していることを黙して相手と性行為におよび、

結果的に相手にエイズを感染させたひとが傷害罪にとわれた例をあげましたが、

あれなんかだったら、話は単純かもしれません。

 

性行為はそう頻繁になされるものでもなく、

かりに被害者が、その加害者とだけしか性行為を直近におこなって

いないのならば、そして、

そのほかに性行為をおこなった相手方はみなエイズなんかには感染して

いないのならば、

エイズは加害者をつうじて感染したのだ、ということが明らかだからです。

 

 

 

でも、コロナウイルスはどうでしょうか。

 

 

 

コロナウイルスは、容易に空気感染します。

 

つい数か月前までの日本でならば、コロナウイルスの感染拡大などという

事態はまだ起こっていなくて、

存在自体がまれなウイルスでもありましたから、話はべつでしょう。

 

 

 

しかし現在では、感染経路が明確にはわかっていないかたちでの

市中感染がひろがっているとも言われています。

 

となると、今回のパブの女性従業員がコロナウイルスに感染したのは、

もしかしたら、

ウイルスうつしてやる男ではない、別の誰かから感染したかもしれず、

その可能性を排除できないことになります。

 

 

 

ということは、

ウイルスうつしてやる男の行為がなかったら、

女性従業員の感染がなかった、とはかならずしも言えないために、

条件関係が存在しないことになり、

そもそもの条件関係が存在しないために因果関係が否定され、

つまりは、傷害罪は成立しないことになるのです。

 

 

 

このように、

今回のこの男の行為は、非常に迷惑であり、強い非難にも値し、

また、業務妨害などの罪にはとえるかもしれないのですが、

傷害罪に問おうとすると、

上記のような難しさが存在すると、天機は考えます。