この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

この世界は、快楽を罰しようとするのだろうか。

こんにちわ。天機です。

(この記事の字数 約2200字)

 

 

 

今回は、標題のようなテーマで書いてみようと思います。

 

 

 

この世界というのは、

人間がなにか快楽を得ようとすると、

それに、罰をセットでくっつけてくることが、ときどきあるなあ、

と、天機は最近、思っています。

 

 

 

たとえば。

 

 

 

美味しいものをおなかいっぱい食べたいなあ、

という人間の快楽には、

肥満というかたちで、醜い容姿がセットでついてくる。

 

 

 

日常、味わえないような、とてつもない快感が得たいなあ、

と思って、麻薬や覚せい剤に手を出すと、

薬物中毒で廃人というのが、セットでついてくる。

 

 

 

不特定多数と気持ちいいことがしたいと、性に奔放になれば、

エイズその他の性病。

 

 

 

無尽蔵のエネルギー源が欲しいなあ、と原発をつくれば、

原発事故と放射能漏れ。

 

 

 

いまや、日常生活には欠かせない存在となった、プラスチック。

 

軽くて安くて丈夫だけれど、

自然界では分解しにくくて、海洋汚染したりする。

 

 

 

夏は涼しいエアコンで快適に過ごしたいなあ、と思えば、

電力消費にともなって地球温暖化

 

 

 

ほんとに、いろいろあります。

 

 

 

この世界というのは、

人間が快楽を得ることを、こころよくは思っていないのではなかろうか?

 

人間なんて、苦しめばいいと思っているのだろうか?

 

 

 

ときどき、そんなことを考えたりします。

 

 

 

実際、それを思わせるような、むかしの神話というのが、あったりします。

 

 

 

たとえば、古代ギリシャ神話には、

プロメテウスのお話がでてきます。

 

 

 

人間が、寒さにふるえて困っているのを見たプロメテウスは、

天界から火を盗み出して人間に与えます。

 

そしたら、プロメテウスは、最高神ゼウスの怒りにふれて、

岩場にくくりつけられてしまいます。

 

そして、生きながらに大鷹によって内臓をついばまれるという

責め苦を、

えんえんと受けることになってしまうのですね。

 

 

 

このお話なんかを読むと、

人間の苦しみを取り除くことを、天は、

こころよくは思っていないのではなかろうか、という気にもなってきます。

 

 

 

 

 

 

では、どうして天や神々は、

人間に苦しみをあたえようとするのでしょうか。

 

 

 

単純に、いじわるなのでしょうか。

 

人間が困っているのをみて、笑っているのでしょうか。

 

それとも、困難が人間を成長させるのを待っているから…?

 

 

 

天機は、その理由について、

ちょっと変わったふうに考えてみました。

 

 

 

この世界では、通常、「苦」というのは、

 

① 自分が思い描く、なにか望ましい状態

と、

② 自分が現実にいま存在している状態

とがあったときに、

 

①と②が、はなれている、乖離しているときに、

それを「苦」というふうにみなしているだろうと思うんですね。

 

 

 

たとえば。

 

 

 

①自分はいま、おなかがすいている。

 おなかいっぱいご飯を食べられたら、しあわせだろうなあ。

②現実には、ご飯を食べれていない。

 

①と②に乖離があるので、これは、この世界では「苦」です。

 

 

 

①病気に起因するからだの痛みがなければ、どんなに幸せだろう。

②現実には、病気のためにからだが痛い。

 

これも、①と②に乖離があるので、この世界では「苦」です。

 

 

 

あたりまえのことかもしれませんが、この世界では、

 

① 自分が思い描く望ましい状態

② 現実の自分の状態

とがあったときに、

 

①と②が乖離していれば「苦」であって、

①と②が一致していれば「幸福」や「快楽」なのです。

 

 

 

ですが、天機は思ったのです。

 

 

 

もし、ぼくたちが慣れ親しんでいる、

この世界の背後に、

「裏の世界」みたいなものがあって、

そこでは、「苦」と「快楽」が、

この世界の「苦」や「快楽」と、

ちょうど「逆」になっていたら…?

 

 

 

つまり、先に述べたような①と②が乖離していることが、

この世界での苦であったわけですが、

もしかしたら、「裏の世界」では、

①と②が一致していることこそが、苦になっているのではないだろうか…?

 

 

 

そんなふうに考えてみたのです。

 

 

 

ちょっと想像しにくいかもしれませんが。

 

 

 

この世界では、生きることは皆が望むことで、

死ぬことは、嫌なことでしょう。

 

ところが、「裏の世界」では、生きて、生きて、

むしろ死にたいのに、

自分の意思や力では死ぬことがどうしてもできずに、

それが苦になっている、とか。

 

 

 

あるいは、この世界では、

望みがかなわないことは苦で、望みがかなうことは幸福や快楽であるわけですが、

「裏の世界」では、

望みはどんなものでも次々とかなってしまい、

むしろ、そのことによって、

退屈や倦怠といったものが、どうしようもないほど苦しいものになっている、とか。

 

 

 

「苦」という漢字のなかには、

「古」という漢字がかくれていますよね。

 

ふるい、とか、いにしえ、とかいったことです。

 

 

 

もしかしたら、この世界がはじまるその前の、

はるか昔のいにしえのときに、

死にたくて死にたくてどうしようもないのに死ねない、とか、

望みはつぎつぎとかなってしまって退屈で退屈でしょうがない、とかいった、

この世界では想像しにくいようなかたちでの「苦」があって、

その「苦」から逃れるためにこそ、

この世界は生み出されたんじゃないか?

 

 

 

それこそが、「苦」の本源的なかたちであったので、

そのような苦、つまり、

むしろ望みがかなってしまうことによってこそ引き起こされるところの苦、

が、ふたたびこの世界に立ち現れることのないように、

人間ののぞみは、あえて叶いにくいようにして、

人間に、この世界でいうところの「苦」をあたえているんじゃないだろうか?

 

 

 

そんなことを、天機は考えていました。