この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

夜と霧、について考えてみる。

みなさん天機です٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

今回は久しぶりに、この世界の不思議について考えてみる

記事を書いてみようと思います。

 

 

さてみなさんは、夜と霧、という文学作品をご存じでしょうか?

 

 

天機は、この作品の名前だけを知っています。

まだ、読んだことはありません( ´艸`)

 

 

これは、ヴィクトールフランクル、という人が書いた作品で、

ナチス支配下における強制収容所での体験を書いた作品です。

 

日本では、みすず書房というところから刊行されており、

全世界でも数百万部が販売されていて、

とんでもなく感動する作品だと言われているようです。

 

 

今回、天機は、

この作品のタイトルである、夜と霧、という言葉について

考えてみようとしています。

 

 

もともとこの文学作品は、

発行されたドイツでは、違ったタイトルでした。

 

 

それを日本で出版するさいに、

夜と霧、というふうに改題したようなのですね。

 

 

なぜ、夜と霧、にしたのかというと、

これ以外の芸術作品のなかにも、夜と霧というタイトルをもっている

ものがあったほか、

1941年に出された、

ヒトラーの総統命令というのが絡んでいるようなのです。

 

 

ナチスドイツの総統ヒトラーは、

1941年に、夜と霧、という名前で知られる総統命令を出しました。

 

 

この命令は、ナチスドイツ占領地における反体制派の活動家を

秘密裏に消し去るために出されたもので、

ナチスに目をつけられた活動家たちは、文字通り、

まるで夜と霧のように、

人目につくことなく消え去ってしまった、

と言われています((((;゚Д゚))))

 

 

ではなぜヒトラーは、自らが出した総統命令に、

夜と霧、という名前をつけたのか、というと、

それは、ヒトラーが好んで聴いていたリヒャルト・ワーグナー

の音楽作品が関係しているのですね。

 

 

リヒャルト・ワーグナーの楽曲(オペラでしょうか?)の1つに

ラインの黄金」という作品があるのですが、

そのなかの第3場「ニーベルハイム」のなかで、登場人物が、

「夜と霧になれ、だれの目にもうつらないように!」

という呪文を唱える場面があるということなのですね。

 

 

なるほど、これで合点がいきます。

 

 

ヒトラーリヒャルト・ワーグナーの楽曲を好んで聴いていたので、

この作品のことも知っており、

それで自らの総統命令にもそのセリフから引用したタイトルを冠し、

それがまわりまわって、

日本で夜と霧という作品の日本語タイトルになった、と。

 

そのような一連の流れが理解できそうです。

 

 

しかし自分は、へんなところが気になりました。

 

天機がへんなところを気にするのは、

いつものことですが( ̄∀ ̄)

 

 

そもそも、この一連の流れの発端になったのは、

リヒャルト・ワーグナーがその作品のなかで

「夜と霧」という言葉を使ったからなのですが、

なぜワーグナーは、

この組み合わせの言葉を使ったんだろう?

 

 

たしかに、だれの目にもうつらないように、

という呪文のなかの言葉と、夜と霧は、しっくりときます。

 

夜だとあまり周囲の状況とか暗くて見えませんし、

霧がかかっていても、やはり見にくくなるでしょうから。

 

それに、夜と霧という言葉、

なんだかキャッチーな組み合わせで、ドキドキさせる感じもあります。

 

 

しかし天機は、

それでも少しの違和感を感じるのです。

 

 

この組み合わせ、

男と女、とか、天と地、とか、夜と昼、とか、大と小、とか、

そういった組み合わせ、対比のルールからは、

少し逸脱しているような気がするんですよ。

 

 

夜の反対語は、ふつう、霧ではありません。

 

夜の反対語は、昼です。

 

というのも、夜というのは、

時間帯を指す言葉であり、その反対語は

夜ではない時間帯、つまり、昼になるからです。

 

 

いっぽうで、霧という言葉は、

時間帯を指す言葉ではないのです。

 

霧が出ているというのは、

ある状態、ある現象をさす言葉であって、

時間帯とは関係がありません。

 

霧は、夜に出ることもあれば、昼に出ることもあります。

 

そして霧の反対語としては、なんでしょう?

霧の出ていない状態?

からっとした空気?快晴?

 

なんだか、わかりにくいですね・・・

そもそも、霧に反対語なんかあるのでしょうか。

 

 

ともあれ、

夜と昼とか、男と女とか、大と小とか、

そういった、反対になる言葉、対になる言葉を組み合わせてつくった

言葉では、どうもなさそうです。

 

 

でも、考えてみたら、対になる必要、反対である必要は、

そもそもないのかもしれない。

 

 

だれの目にもうつらないように、という呪文の中の1つの言葉なんだから、

そこには、

だれの目にもうつらない、という意味で、

似通った、類似した言葉が並列的に並べられるのも、

自然なことかもしれません。

 

夜も見えにくいし、霧も見えにくいのです。

 

見えにくいものを例示してみたら、

たまたま夜と霧が思いついた。

 

それで問題はないのかもしれません。

 

 

類似したものを並べた言葉は、ほかにもあります。

 

たとえば、

浦島太郎が竜宮城で歓待を受けた時の「タイやヒラメの舞い踊り」とか、

あるいは、殷の紂王の快楽におぼれるさまを描いた「酒池肉林」とか。

 

 

しかし、です。

 

 

類似したものを並列的にならべた言葉であっても、

規則的なものはあります。

 

 

タイヤヒラメの舞い踊りでは、

タイとヒラメには、ともにお魚であるという、共通項があります。

 

酒池肉林であれば、

ともに飲食物を快楽のために供したもの、という共通項があります。

 

 

ところが。

 

 

夜と霧というのは、見えにくい、という以外の共通項を、見つけにくい。

 

というのも、

夜は時間帯をあらわす言葉であるのに対して、

霧は時間とは関係なく、

状態や現象をあらわす言葉だからなのです。

 

 

何と言いましょうか。

 

これは、天機だけかもしれないのですが、この

夜と霧という言葉には、

なんだか、パースの狂った絵画でも見ているかのように、

ひとを落ち着かない気分にさせるものがあるように思うのですね。

 

 

そこで、といえばなんですが。

 

 

天機は、この夜と霧という言葉には、

なにか、隠れた背景があるのではないか、と考えました。

 

深読み、というやつですね( ゚∀ ゚)

 

ここからそれについて、

天機の考えた独創理論(こじつけ)を展開していきたいと思います。

 

 

さて。

 

 

天機はこのブログで何回か、天機理論というものを展開しています。

 

 

このブログを何回か読まれている方の中には、

おなじみのプロットというのも、あるかもしれません。

 

 

まずは、そこから始まります。

 

 

天機はこの世界には、

理の原理と、生の原理という、2つの原理があると考えています。

 

 

理の原理というのは、

他者が存在することを認めてそれを尊重しよう、という原理。

 

生の原理というのは、

自分が生きるためならば他者を犠牲にしてもかまわない、という原理。

 

 

すごくシンプルに言ってしまうと、

理の原理はどちらかというと善で、生の原理はどちらかというと悪です。

 

 

さて。

 

 

人間には男女があります。

また、人間には心と体があります。

 

 

天機は、つぎのようなことを考えました。

 

 

男性の体というのは、生の原理と結びついた体(悪の体)である。

男性の心というのは、理の原理と結びついた心(善の心)である。

 

たいして、

女性の体というのは、理の原理と結びついた体(善の体)である。

女性の心というのは、生の原理と結びついた心(悪の心)である。

 

 

このように考えたのです。

 

 

このように考えた理由をごくごく簡単に言うと、

男性は肉体の欲求、つまり肉欲によって、犯罪に手を染めることもある。

 

また、男性はどちらかというと、

論理的なことを1人でえんえんと考える傾向があって、

囲碁とか将棋とかを好むのも、男性に多い。

 

いっぽうで、女性の体というのは、

出産したり、授乳したり、他者をはぐくむという性質をもつ。

 

また、女性はどちらかというと、

ショッピングを謳歌したり、楽しむこと、

自分自身の欲求に忠実に生きることにたけている。

 

 

なんてことを考えたので、

男性の体=生の体(悪の体)、男性の心=理の心(善の心)

女性の体=理の体(善の体)、女性の心=生の心(悪の心)

といった、区分けを考えたのです。

 

 

そして天機は、この区分けを、

人間だけでなく天地にも及ぼして考えてみよう、と思いました。

 

 

この世界には、天地があります。そして、

 

天には天空と太陽があり、地には大地と水があります。

 

 

天機は考えました。

 

 

天は男性、地は女性である、と。

 

 

そして、天にある天空と太陽については、

天=男性、天空=男性の体(生の体、悪の体)、太陽=男性の心(理の心、善の心)

であり、

地にある大地と水については、

地=女性、大地=女性の体(理の体、善の体)、水=女性の心(生の心、悪の心)

であると考えたのです٩( ๑╹ ꇴ╹)۶

 

 

このような天機の考え方は天機の独創であり(古代中国の伏羲が創始した八卦

考え方に非常におおきな影響を受けていますが)、

納得のいかないかたも多いと思います。

 

 

この考え方の詳しい由来を知りたいかたは、

以下のブログ記事を参照なさってください。

 

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

 

さて。

 

 

このように考えてくると、

人間というのは、完ぺきではないことがわかります。

 

 

人間のなかには、善も悪も、両方があるのです。

 

男性ならば、心は善ですが、体は悪なのです。

女性ならば、体は善ですが、心は悪なのです。

 

 

善も悪も、両方をあわせもつ。

 

それが人間であり、それが天であり地であり、

それが、存在する、ということなのだろう、と天機は思うのです。

 

 

ではここで。

 

 

人ならぬもの、は、いったいどうなんだろう?と考えてみます。

 

 

体も善なら心も善。あるいは、体も悪なら心も悪。

 

 

もし、そのようなものがあるならば。

 

 

それこそ、完全な善、あるいは、完全な悪になるのではないか。

 

そして、

体も善なら心も善というのが完全な善、つまりは神のようなものであり、

体も悪なら心も悪というのが完全な悪、つまりは悪魔のようなものであり、

その神と悪魔は、

ふつうは見えないものなんじゃないか。

 

 

そんなふうにも考えたのです。

 

 

つまり、こんな感じ

 

 

神(見えない)・・・体も善、心も善

人間(存在している)・・・体と心、どちらかは善、どちらかは悪

悪魔(見えない)・・・体も悪、心も悪

 

 

さて。

 

 

ここで思い出していただきたいのですが、

天機は、善と悪と、心と体の結びつきについては、

人間の男女だけでなく、天地にも拡大して考えてみようとしていました。

 

 

では。

 

 

天地において、

心も体も善で完全な善というのと、心も体も悪で完全な悪というのは、

いったい、

どんな状態なのでしょうか・・・???

 

 

ふつうの状態では、

天にも地にも、善と悪の両方がそなわっています。

 

天には天空と太陽があって、

天空は生の体(悪の体)であり、太陽は理の心(善の心)です。

天空という悪と、太陽という善、両方があります。

 

地には大地と水があって、

大地は理の体(善の体)であり、水は生の心(悪の心)です。

大地という善と、水という悪、両方があります。

 

 

ではここで、こころみに、

むりやり、善と善をくっつけた完全な善、

悪と悪をくっつけた完全な悪を、つくってみましょうか・・・?

 

 

天地における善は、

太陽(善の心)と大地(善の体)です。

 

この2つの善は、ふつうはいっしょの場に存在することは、ありません。

 

太陽は天空に浮かんでおり、大地にめりこむはずもありません。

 

 

しかし、です。

 

 

太陽は、大地の下に沈むことがあります。

 

1日の終わりに、西の空に太陽は沈んでいきます。

 

その時以降、太陽は大地と、その存在するところを同じくします。

 

 

それが、夜、です。

 

 

つまり、夜というのは、

太陽(善の心)と大地(善の体)がくっついた、

完全な善をあらわすものなのです。

 

 

では、もう1つのほう。

 

 

天地における、悪と悪をくっつけて、

完全な悪をつくってみましょうか。

 

 

天地における悪は、

天空(悪の体)と水(悪の心)です。

 

 

この2つの悪は、ふつうは同じところにはありません。

 

 

一般的には水は、大海や河川、湖沼というかたちで

大地に多く存在しているものです。

 

また、雲や雨滴になることがありますが、

雲や雨滴もまた独立したものであり、

天空と1つになってしまった、とみるのは、すこしむずかしい。

 

 

しかし、です。

 

 

地にある大海とか河川とか湖沼とかから立ち上った水蒸気が

天空へと入っていき、

あたかも天空と水とが混然一体となって1つになってしまったような

ものが、あります。

 

 

それが、霧です。

 

 

つまり霧というのは、

天空(悪の体)と水(悪の心)が結合した、

完全な悪をあらわすものなのです。

 

 

リヒャルト・ワーグナーはその楽曲の中で、

「夜と霧になれ、だれの目にもうつらないように!」

というセリフを使いました。

 

 

もしかしたら、その夜と霧という言葉は、

単に見えにくいとか、ものを見えにくくするということばかりで

選ばれた例示的な言葉なのではなくて、

この天地と人間に対する壮大な洞察を背景にして、

完全なる善(神)と完全なる悪(悪魔)とに

言及した言葉であったのかもしれない。

 

 

天機は、そんなふうに思いました。

 

 

以上、天機でした( ´ ▽ ` )ノ