この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

心と重力。

こんにちわ。天機です。

(約2700字)

 

 

 

きょうは、この世界の不思議、にかんするお話です。

 

天機は、よく荒唐無稽な妄想をするのですが、

きょうの記事も、そんな感じのおはなしですね。

 

 

 

さて、この世には、「重力」というものがあります。

 

万有引力の法則を発見したのは、ニュートンでしたっけ。

この世の中の、ありとあらゆるものは、みな、引力をもっている、

とかいうことだったと思います。

 

 

 

ですから、

太陽は地球に引力をおよぼし、そのために地球は、

太陽の周りを周回運動しています。

 

地球は月に引力をおよぼし、そのために月は、

地球の周りを周回運動しています。

 

地球の持つ重力は、地球の上に乗っかっているありとあらゆるものに影響して、

それゆえに、みんな、地球にくっついているし、

人間はみな、体重というものを持っているし、

高いところから物を落とせば下に落ちていく、というわけです。

 

 

 

ここで、万有引力、というからには、

田中さんも、佐藤さんも、渡辺さんも、みな、

それなりに引力を持っているはずなのですが、

実際には、

田中さんが佐藤さんの引力に引っ張られてぴゅーっと飛んでいくとか、

佐藤さんが渡辺さんの引力にとらえられて身動きできない、

なんてことは、起こっていないわけです。

 

 

 

というのも、自分の理解では、

地球の持つ圧倒的な強さ、大きさの重力に比べて、

佐藤さんや田中さんのもつ引力なんて、

あまりにも小さすぎるので、実際は、

無視してよいようなものだからなんですね。

 

 

 

自分は、この物理的な重力を、

人間の心と関連付けて考えてみました。

 

 

 

いまここで、かりに、佐藤さんという人が、

「自分はバナナがとても好きなんだ。バナナは美味しいし、健康にもいいよ。

 みんな、バナナを食べようよ!」

というような見解を持っていたとしましょう。

 

 

 

この佐藤さんが、さて、

他の多くの人に、自分と同じようにバナナを好きになってもらい、

バナナを食べる気になってもらうためには、どうしたらいいでしょうか。

 

 

 

ふつうは、たとえば、

いろんな人に話しかけて、バナナの素晴らしさを伝えるとか、

インターネット上でサイトを立ち上げて、バナナをアピールするとか、

ブログやツイッターでバナナをアピールするとか、

バナナの素晴らしさについて新聞に意見広告をだすとか、

はたまた、政治家になって、

国民がバナナの消費をふやすように政策をかえていくとか、

まあ、そういったあたりのことでしょうかね。

 

 

 

佐藤さんはみんなにバナナを食べてほしいのですが、

それを実現するためには、

上に挙げたような手段を、通常はとらなくてはいけないのです。

 

 

 

それはどうしてかというと、ふつうは、

佐藤さんが、自分はバナナが好きだ、バナナの良さよ、世界に広まれ!

と心の中でいくら念じたところで、

それだけでは、ほかのみんなの心は、

バナナを食べよう、っていうふうには、ならないからなんですね。

 

 

 

そんなの当たり前やん!なに、当然のこと言ってんだよ!

なんて、お叱りの言葉を受けそうです。

 

 

 

たしかに、これは当たり前のことです。

誰かが心の中でなにかを思い、なにかを願ったとしても、

通常は、そのことだけでは、

他者の気持ちに影響をあたえることは、できません。

 

他者の気持ちをかえていくためには、

自分の意見を表明し、その表明された意見にふれた他者が、

自分の意見をかえていく、というプロセスをふまなければいけないのです。

 

 

 

ですが、ここで天機は、ふと、重力のことを考えてみました。

 

太陽や地球といった、とてつもない重力をもつものは、

その重力で、他の物体に影響をあたえることができます。

 

ところが、個々の人間のような存在は、重力をもっているとはいっても、

その重力があまりにも小さすぎるため、

ほかの物体をひきつけたりする現象は、通常は、認識されないのです。

 

 

 

人間の心も、通常は認識されないけれど、じつは、

重力のようなものを、秘めているのではないだろうか。

 

個々の人間の心がもつ重力は、認識できないほど小さいので、

通常は、

だれかがなにかを思ったり、なにかを願ったりするだけでは、

ほかのひとの心に「直接」影響することはない。

 

 

 

でもここに、かりに、

すごい強力な心の重力を、何らかの理由で持つにいたった、

特殊な人間がもしいたとしたら、

たとえば、

そのひとが「バナナは素晴らしいなあ。バナナが好きだ。みんな、

バナナを食べよう」と、

 

心の中で思っただけで

 

他の多くの人が、どういうわけか、

だんだんとバナナが好きになりだす、といったような、

超常現象が起きることがあるのではないだろうか。

 

 

 

天機は、そんなことを考えていました。

 

 

 

中国の古典に、「老子」という作品があります。

 

老子第49章には、

「聖人無常心、以百姓心為心。」

とあります。

 

 

 

この文章を、書き下し文にすると、

「聖人には常の心なく、百姓(ひゃくせい)の心をもって心となす」

となります。

 

 

 

一般的には、この老子の文章は、

「聖人というものには、一定不変の決まりきった心というものがなく、

 常に民衆の気持ちに寄り添っているのだ」

と解釈されることが多いです。

 

 

 

でも、天機は変わり者です。

 

変わり者の天機は、この老子の文章について、以下のように解釈しました。

 

 

 

「聖人は、われわれが一般的に考えるような、

 通常の意味での普通の心というものを持たない。

 聖人がなにかを思い、なにかを願ったなら、

 それがそのまま直接、ひとびとの心に影響して、

 そのひとびとの心を変えさせる。

 聖人とは、そういう超能力、特殊能力をもった存在である」

 

というように解釈したのです。

 

 

 

老子において、「聖人」とは、

出自が高貴であるひと、というわけではありません。

 

人格的に優れていて、とても優しいひと、というわけでもありません。

 

書物を多く読んでいて、知識をたくさん貯めこんでいるという意味において

賢いひと、というわけでもないのです。

 

 

 

老子における、「聖人」の資格は明確です。

 

この世界の森羅万象の背後に流れていて、

通常人の認識では到底知りえないような、隠れた原理について洞察しているために、

脳みそが通常人とは異なるようになった存在、

それが老子でいうところの、「聖人」です。

 

単に優しいとか、普通人の理解がおよぶくらいの賢さがある、というだけでは、

「聖人」とするには、足りません。

 

聖人か聖人でないか、のちがいは、ただ1つ、脳みその違いなのです。

 

 

 

天機が思うに、

そのように脳みそが通常人のそれと異なるにいたった聖人は、

その心が「重力」をもつにいたったのではないでしょうか。

 

それゆえ、

老子がわざわざ第49章でおそらくはのべているように、

聖人の心は、民衆の心に、直接的な影響力をもつようになったのではないか。

 

 

 

天機は、そのようにも思います。