この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

死について、ふと思ったこと。

みなさん天機です٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

今回は、死について、ふと思ったこと、

というテーマで記事を書いてみたいと思います。

 

 

人間は生きていますが、

寿命が来れば、いつかは死んでしまいます。

 

 

それは、みんな同じですね。

 

 

自分は40代になりますが、これくらい生きていると、

近親者を看取ったり、葬式に参列したりする機会が訪れます。

 

 

葬式があると、葬儀業者は、

葬式のときに飾る遺影が必要なので

親族に故人の写真の提供を求めることがあると思います。

 

 

そんなとき、通常は

故人のどんな写真が遺影として飾られますか?

 

 

 

 

通常は、故人の子供時代の写真なんて飾られないし、

あんまり若すぎるときの写真も選択されません。

 

 

だいたいは、50代を過ぎて

60代、70代の落ち着いた風貌の写真が

選ばれることが多いと思うんですよね。

 

 

ところで。

 

 

人生のゴールっていうのは、

いったい、いつのことだと思いますか?

 

 

一代で事業を築き上げて、富も名声も得た人が

亡くなるとします。

 

 

葬式のとき、その人の遺影が飾られると思うのですが、

その遺影は先に述べたとおり、

60代、70代くらいの写真だと思うんですよね。

 

 

たとえば、松下幸之助さん、と聞いて、

私達は黒縁の眼鏡をかけた温厚そうな彼の顔を

思い浮かべるわけですが、

あの写真はおそらく、

60代か70代くらいに撮影されたものでしょう。

 

 

つまり、成功者としての人生が確定した、

ちょうどそのくらいの時期の写真、ということになります。

 

 

私達が葬儀とかで目にすることの多い故人の写真は、

ちょうどそのくらいの年齢のときの写真なんですね。

 

 

その60代、70代というのは、

人生で築き上げてきたものが確定するような、

そんな時期です。

 

 

あるひとは、

事業で成功するなどして、富も名声も獲得し、

多くのひとに囲まれているかもしれません。

 

 

またべつのあるひとは、

人生があまりうまくいかず、

失意の老年を迎えているかもしれません。

 

 

極端な言い方をすれば、

そういう人生の「成功者」とか、「敗残者」とかいったことが

はっきりしてくるのが

60代、70代くらいの年齢で、

その年齢の写真が葬儀の遺影として飾られるわけです。

 

 

そうすると、です。

 

 

その年齢の写真が葬儀で飾られているのを目撃するという

象徴的な体験もあいまって、私達は、

ちょうどその、60代、70代くらいの

人生がおおむね「確定」したときが

人生のゴールだと、

 

 

誤解

 

 

してしまうことが、あると思うんですよ。

 

 

葬儀のときに、故人の遺影を目にするでしょう。

 

 

その60代、70代くらいの故人の姿を目にして

私達は、

故人はこんなひとだった、

故人の最期はこんな感じだった、

故人の人生は~

なんてことを思うわけなんですね。

 

 

でも、ちょっと待ってほしいのです。

 

 

それは、故人の最期では、ありません。

 

 

人間の、人生のゴールは、

人生がおおむね確定した60代、70代にあるのではなく、

「その先」があります。

 

 

60代、70代を過ぎると、

80代、90代に向かっていきます。

 

 

健康だったひとも、だんだんと病気がちになり、

杖とか車椅子を必要とするようになったり、

介護を要するようになったりします。

 

 

そして、ついに亡くなるというその瞬間は、

おそらく多くの人の場合は病院のベッドの上でしょうが、

たいてい、寿命で亡くなる死に際の人間は、

口元は干からびた梅干しのようになっていて、

身体は元気なときとは比べ物にならないくらい

小さく、骨ばった枯れ木のようになっていて、

身体を丸めて死んでいきます。

 

 

それが、死ぬということであり、

人生の本当のゴールなのです。

 

 

ところが、

この本当に人間が死ぬ瞬間の姿は

葬儀で飾られる写真にはなりません。

 

 

葬儀で飾られる故人の写真は、

先ほどから何度も述べているように、

60代、70代の人生が「確定」したかのように見える時期、

つまり、

本当の死、本当の人生のゴールの

「少し前」の姿なんですね。

 

 

自分は思うのですが、

ひとは、

人間が本当に死ぬ瞬間、人生の本当の意味でのゴール、

というものを直視したくなくて、

あえてピントをずらして

60代、70代の人生が「確定」したかのように見える時期を

人生のゴールだと思い込むことで、

本当の死の現実に蓋をしているのではないでしょうか。

 

 

60代、70代の人生が確定したかのように見える時期には、

あるひとは成功者としての人生が「確定」し、

またべつのあるひとは失意の人生だったということが「確定」し、

言わば、

「勝ち組」と「負け組」に分かれるわけです。

 

 

そうして、少なくないひとは、

その「勝ち組」と「負け組」に分かれた時点が

人生の終局だと、そう思っているのですが、

じつは死、人生の本当のゴールというのは

そこよりもほんの少し「先」に存在していて、

そこではどんなに「勝ち組」だったひとも、

どんなに「負け組」だったひとも、

みんな等しく枯れ木のような肉体ただ1つに

変えられてしまうんですよね。

 

 

簡単に言うと、

勝ち組だったひとも、負け組だったひとも、

死の瞬間、人生の本当のゴールのときには

「同じ」になってしまう、ということです。

 

 

たとえて言うなら、

勝ち組のひとが60代、70代くらいで

地上30階くらいの位置にあり、

負け組のひとが60代、70代くらいで

地下30階くらいの位置にあったとしても、

死の瞬間、枯れ木のような肉体になってしまうその瞬間には、

両者ともおなじ地上1階にいる、ということです。

 

 

それを都合が悪い、と考える人間がいるのか、

それとも、

そんなことは見たくないんだ、と考える人間がいるのかは

わかりませんが、

この世の中では、なんとかしてその事実を見えなくするように

工夫がなされることがあります。

 

 

たとえば、

先ほどから述べているように、

葬式における故人の遺影として、

死の瞬間の写真は使用しないで、あえて60代とか70代とかの

死の瞬間の少し前の時期の写真を用いることで

60代、70代の人生が確定したかのように見える時期こそが

人生の終局なのだ、と思わせたり、

梅干しのように干からびた棺桶のなかの故人の表情を隠すために

エンバーミングを施したり、

あるいは、お金をかけてすごく立派な戒名をつけてもらったり、

何千人もの参列者を集める告別式とかお別れの会とかを

催したり、といったことがあるわけなのですが、

そういったことはみんな、

本当の死の瞬間のときには枯れ木のようなただ1つの肉体、

同じ地点に還元されてしまう、ということから

なんとかして視点をそらして、

その少し前、60代とか70代とかの

人生が確定したように見える時期こそが人生の終局なんだ、

と思い込むための、

壮大な舞台装置のようにも思えるのですね。

 

 

人間は、たった1人でこの世に生まれてきたんだから、

死ぬときも、たった1人

なんにも持たずに死んでいく。

 

 

それでいいんじゃないかな、なんて

自分は思うのです。