この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

個人的な満足感を高めるような生き方。

こんにちわ。天機です。

 

 

 

きょうは、人間の生き方について、書いてみようと思います。

(この記事の字数 約1000字)

 

 

 

天機も、もう40歳になるなかで、

これまでの人生とか、生き方について考えるときがあります。

 

 

 

子供のころの天機というのは、どういうわけか、

「大物になってやるぞ」とか、

「偉人になってやるぞ」とかいった、

妙なことを考える子供でした。

 

 

 

ひとつには、本に影響されやすい、ということも、あったのかもしれません。

 

小学校には図書室があって、そこには、マンガ偉人伝みたいな本がならんでいて、

天機はよく読んでいました。

 

また、親や、親戚の伯父さんとかも、

偉人伝をプレゼントしてくることが多かったのです。

 

それを読んで、どういうわけか、

自分も名を残すような人物にならなければ、などと、

妙なことを考えていました。

 

 

 

有名高校から有名大学に進学するなかで、

ひとかどの人物にならなければ、

立派な人物にならなければ、といった考え方は、

さらに強まっていきました。

 

 

 

そして現在、40歳になった自分というのは、

立派な人物からは、ほど遠い人物になっています。

 

 

 

思うのですが、

世の中がまだ発展していなくて、みながまだ貧しかったような時代には、

偉人という存在も必要で、偉人が刻苦勉励することで

世の中を引っ張っていく必要もあったのでしょうが、

こんなに世の中も発展して、

けっこうそれなりに豊かなひとも増えてきた現代という時代においては、

特定の誰かだけが偉人になって世の中に対して多大な貢献をする、

なんてことは、

もはや、必要ではなくなってきてるんじゃないですかね?

 

 

 

世の中には、

たとえば偉人になって、みなから称賛され、人類に多大な貢献をするひともいれば、

たとえば犯罪者になって、みなから後ろ指をさされ、

ひとびとにおおきな迷惑をかけるひともいます。

 

そして、そういった、極端なひとびとのあいだには、

非常に多くの「ふつうのひとびと」が存在するものだと思うんです。

 

 

 

とりあえず、この現代という世の中において、

人生を生きていく上においては、

ひとに迷惑をかけないという最低ラインを確保したうえで、あとは、

「ふつうのひとびと」として生きられれば、

それでいいのではないか、という気もしてくるんですよね。

 

名を残そう、とか、立派な人物になろう、とかいった、

「枷(かせ)」から自分を自由にしてやると、

ずいぶん生きるのが気楽になるような気がします。