この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

雷を恐れる理由

みなさん天機です٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

今回は、雷について考えてみようかと思います。

(この記事の字数 約3900字)

 

 

みなさんは、雷は怖いですか?

 

 

雷は大丈夫だよ、っていうかたもいるとは思うんですが、

それでも、ゴロゴロってきて、ピッカー!!ってなると、

ドキッ!!としてしまいますよね((((;゚Д゚))))

 

 

おうちの中にいれば、

外で雷が鳴ったり光ったりしているのを

楽しむ余裕もあったりするのですが、

雷が鳴っているときはやっぱり、

あんまりわざわざ外に出かけていこう、とは

思わないですよね(;´∀`)

 

 

 

 

では、そんな雷の、怖さの特徴って、

いったい、どんなところにあるのでしょうか?

 

 

天機が思うに、それは、

 

「落雷によって自分が死ぬ可能性はかぎりなく低いけれど、

 それでも運が悪ければ絶命する可能性はある」

 

ってところだと思うんですよ。

 

 

昔から「地震、雷、火事、親父」なんていうのが

怖いものの代表のように言われてきましたが、

地震なんかとくらべると、

雷の怖さの特徴が浮かび上がってくるかもしれません。

 

 

地震というのは、たいてい、

ある範囲を持っています。

 

 

グラグラ、と地震で揺れるのは、

大地の上の一点、というわけではなくて、

通常はけっこう広い範囲がぐらぐら揺れます。

 

 

面の広さを持っているのが、地震なんですね。

 

 

地震の被害の大きさは、

その地震の規模に比例していて、

強い地震であれば多くの人が死んだり怪我をしたりし、

たくさんの建物が倒壊したりしますし、

弱い地震であればそれほどでもないのですが、

いずれの場合でも、

その被害が広い範囲にわたるということだけは、

変わりないのですね。

 

 

雷というのは、

それとはちょっと違います。

 

 

雷の被害というのは、落雷が起こることによって

生じるのですが、

落雷は通常、大地の一点のうえに起きます。

 

 

一点だけなので、

よほど運が悪いような人でもない限り、

落雷によって死んだり、ケガをしたりすることは

あまりないわけなんですね。

 

 

ふつうは雷が鳴っていてもなんてことはない、

それが普通なんです。

 

 

でも、まれに、まれになんですが、

雷は人を殺すことがあります。

 

 

確率的にはめっちゃ小さいんですけど、

それがゼロにはならない。

 

 

その可能性、小さな可能性があるので、

ひとはあんまり、

雷が鳴っているときに外に出ていこうとは

思わないんですね。

 

 

雷にうたれる可能性はとてもとても小さくて、

もし、とてもとても小さいものがすなわち無とかゼロならば、

雷にうたれることはない、ということになってしまい、

ひとは安心してお外に行けます٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

でも実際には、

雷にうたれる可能性はとてもとても小さいけれど、

とてもとても小さいものはかならずしも無とかゼロではないので、

雷にうたれる可能性は残ることになり、

ひとは不安からあんまり外には行きません( ノД`)

 

 

このように考えてくると、

雷の原理、雷のおそろしさを作り出している背景にある原理は、

 

とてもとても小さなものが必ずしも無やゼロとはかぎらない

 

という原理なんじゃないかな?なんて、

天機は考えたりするのですね٩( ๑╹ ꇴ╹)۶

 

 

とてもとても小さなものが無やゼロとはかぎらない?

 

 

そんなの、当然のことじゃん。

 

 

なに、あたりまえのこと言ってんのよ( ´艸`)

 

 

なんて、思われるかもしれませんね。

 

 

でも、このことは、当然のことではないと思うんです。

 

 

この世界には、その考え方とは異なる原理で

動いているものもあります。

 

 

その1つが、

数と、数のつくりだす論理なんですね。

 

 

みなさんはもしかしたら、

 

1=0.99999…

 

という式の証明の仕方を、

どこかで見たことがあるかもしれませんね。

 

 

この式の左辺は、1。

 

 

そして右辺は、0.99999…と、

小数点以下に9が永遠にならぶもの。

 

 

ふつうに考えたら、こんな違うものが同じなわけない!

と思いそうですが、

数学では、これは同じになります。

 

 

この式には、いろんな証明の方法があります。

 

 

気になったかたは、以下のWikipediaの記事を

参考にされてください٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

ja.wikipedia.org

 

 

ここからさらに、考えをすすめていきましょう。

 

 

数学では、

1=0.999999… ー①

となることがわかりました。

 

 

そして、当然のことですが、

1=1 ー②

であることも、わたしたちは知っていますね٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

ここで、②の式の両辺から①の式の両辺を引くと、

0=0.0000…1

という式があらわれてきます。

 

 

つまり、数学の論理では、

まったくなにもないという意味の0と、

限りなく小さいという意味の0.0000…1は、

同じものだ!

ということになるんですね。

 

 

これからわかることは、なんでしょうか?

 

 

まったくなにもないということと、

とてもとても小さいということは、同じことなんだ、

だって、数学がそう言ってるんだから、

ということでしょうか?

 

 

変わり者の天機は、そうは思いませんでした(;´∀`)

 

 

天機がわかったのは、

まったくなにもないということと、

とてもとても小さいということは、同じことだと、

そのように考える学問が数学なのだ、

ということだけです。

 

 

つまり天機は、数学がそのように考えているということは

承知したのですが、

数を離れたこの世界の森羅万象、真実を

数学が正しくとらえているのかどうかについては

留保しているんですよね( ´艸`)

 

 

天機は、この世界が誕生してきたその成り立ちについて、

独自の天機理論のようなものを考えていて、

このブログでも何回か紹介しています。

 

 

そのなかで天機はよく、

この世界の始まりには矛盾があって、

その矛盾が理を産み、

その矛盾と理の出会いから生命が生まれてきた、

なんていうお話をするんですね٩( ๑╹ ꇴ╹)۶

 

 

つまり、

矛盾→理→生命

という順番でこの世界は生まれてきたんだ、

という説です。

 

 

でもじつは、この最初の矛盾のまえに、

もう少しほかの存在があったんじゃないかな?

とも、最近天機は考えるようになってきたんですね。

 

 

それがじつは、「無」と「寸」なんです。

 

 

天機は、つぎのように考えています。

 

 

この世界の本当の始まりには、

まったくなにもない、という意味での無がありました。

 

 

その無が変化していったのか、それとも

無から産み出されてきたのかは、

天機はよくわからないのですが(;´∀`)

その無のつぎに、

無ととてもよく似ているんだけれど無とはほんの少しだけ違う、

とてもとても小さいんだけどまったく何もないというわけじゃなくて

なにかがある存在、

が生まれたと思ったんですね。

 

 

それをかりに、寸、と名付けましょう。

 

 

とすると、

この世界の本当の始まりには「無」があって、

そのつぎに「寸」というものが誕生してきた

ということになります。

 

 

この、もともとあった無と、そこから生まれてきた寸は、

出会って、お互いに絡み合い、

くんずほぐれつしながらお互いを切り刻みあって、

そこから「矛盾」というものが生まれてきた、

と、そのようなことを天機は考えたのです٩( ๑╹ ꇴ╹)۶

 

 

つまり、天機がよく言う

矛盾→理→生命

という順番の、前段階に、

無→寸

というプロセスも付け加えると、全体として

無→寸→矛盾→理→生命

というような、この世界の生まれてきた順序を

考えることができそうです。

 

 

無があって、そこから寸になって、

その2つが合わさって矛盾になった、という

お話はしましたので、

そこから後をすこし付け加えますと。。。

 

 

矛盾が形成されていって、ついにそれが極まって

矛盾ができたとき、

そこからポーンと、理が飛び出ていった、

と思うんですね٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

その理は、遠く遠く離れていくのですが、

その遠さが極まったときに、

ついにもともと矛盾がいたところに

戻ってくるのです。

 

 

そうして、その矛盾と、戻ってきた理の出会いから、

生命が生まれると、

そのように天機は思ったのですね。

 

 

そうして矛盾と理の出会いのなかから

生命が生まれてきたのだ、なんて思うわけですが、

そのときに、

もともと矛盾であったものが生命における「女性」に、

もともと理であったものが生命における「男性」に、

それぞれ転化した、なんて

天機は考えているのです((((;゚Д゚))))

 

 

つまり、この世界の生命に

男性と女性、オスとメス、おしべとめしべ、のような

「性別」が存在するのはなぜかというと、

この世界の始まるときに、矛盾と理があって、

それぞれが転化したものが生命における性になっているからだ、

なんてことを天機は考えているのですね。

 

 

途中でずいぶんと脱線してしまいました(;´∀`)

 

 

もともとなんの話をしていたのか、というと、

数学の論理では、

まったくの無と、とてもとても小さいものは、

それぞれ0と、0.0000…1に相当するもので、

数学では同一のものになる、ということでした。

 

 

で、そのあと天機理論のお話をして、

天機理論では

まったくなにもない無と、

無のつぎにあらわれてきた、

とてもとても小さいけれど何かがある存在、つまり寸は、

それぞれ別々の段階であると考えていることを

紹介しました。

 

 

それで、今回のブログ記事のはじめから考えてきたのは

雷のことだったんですが、

雷というのは、

雷に打たれて死ぬ可能性はほぼゼロに近いんだけれど、

それが完全なゼロにはならないところに雷の恐ろしさがあるんだ、

みたいなお話をしてきたんですね。

 

 

つまり、数学とかでは

ゼロと、ゼロに限りなく近い小さな小さなものは

同一になってしまうのですが、

その考え方では雷の恐ろしさを説明することは難しくて、

ゼロに限りなく近いんだけれど

ほんのわずか、ゼロとは異なっていて

微小ななにかが存在する、というものを認めて、

はじめて雷の恐ろしさが見えてくるよ、と、

そういうお話なのでした٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

以上、天機でした( ´ ▽ ` )ノ