この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

西日本豪雨と、米中貿易戦争に思う。

こんにちわ。天機です。

ひさびさの更新になります。

(この記事 約2500字)

 

 

 

最近も、いろいろとニュースが多いですね。

 

国内でいえば、西日本の記録的な豪雨によって、おおきな被害が発生しています。

 

海外に目を転じてみると、

アメリカのトランプ政権が対中国で巨額の制裁を発動したことをきっかけとして、

米中貿易戦争がはじまろうとしています。

 

また、ヨーロッパにおいては、

各国で移民問題が深刻化するようになって、

EUの理念が揺らごうとしています。

 

 

 

天機は、これらさまざまなことの背景に共通してあるのは、

 

「異常の顕在化、例外の顕在化」

 

なのではないだろうか、というふうに思うのです。

 

 

 

この世界は、一見したところ、

どこまでも「普通の日常的な世界」がひろがっているようにも思えます。

 

しかし天機は、

その日常的な世界のはるかかなた、その周縁部、辺境には、

「普通ではない世界」が存在しているように思うのです。

 

 

 

通常があるとすれば、異常もある。

原則があるとすれば、例外もある。

 

この世界というのは、

通常と異常が組み合わさって、原則と例外が組み合わさって、

はじめて成立している。

 

けっして、通常だけでできているとか、原則だけでできているとか、

そういったことはないのだ。

 

通常だけ、原則だけ、という「1つ」ではなくて、

通常と異常、原則と例外、という「2つ」こそが、

この世界を表現するのに正しい数字なんだ。

 

天機は、そう思うのです。

 

 

 

自然災害などおこらない、平穏な日常生活というのが「通常」ならば、

大規模な自然災害が発生しておおきな被害が出るというのは「異常」です。

 

最近は、自然災害もふえてきているように感じます。

今回の西日本豪雨災害でも、死者数が200人に迫ろうとしています。

 

自然災害は「異常」をあらわすものですが、その「異常」は、

この世界から消すことは、できないのです。

 

ふつうは、自然災害は、まれにしか起こりません。

毎日毎日、自然災害が起こるかというと、そういうことは、ないわけです。

自然災害が起こる可能性は、やっぱり、とても小さい。

 

でも、とても小さいものは、すなわちゼロなのか、といえば、

それはちがう。

 

とても小さいものは、とても小さいものながら、それはゼロにならずに、

厳然として存在し続ける。

消せないのです。

 

 

 

国と国とがおたがいに仲良くし、共通の相互利益をめざして貿易などを

発展させていく、というのが「通常」であるのならば、

おたがいに対立しあい、制裁などを課すようになって貿易が縮小し、

はては、戦争状態にまで至ってしまうようなのは、「異常」です。

 

1990年前後から、これまで30年ほどにわたって、

世界を席巻してきた潮流というのは、

いわゆる「グローバリゼーション」という言葉で表現されるような、

世界的に貿易が拡大し、国と国とが密接に関係しあい、

世界が一体化していくという、

上でいうところの、「通常」の拡大局面だったわけです。

 

ところが、

2016年に発生した、

イギリスのEUからの離脱、アメリカにおけるトランプ政権の誕生、

といったイベントをきっかけに、

世界の潮流、風向きがかわりはじめました。

 

ヨーロッパにおいては、

国と国との垣根をなくしていく利益よりも、移民の弊害のほうがクローズアップされる

ようになり、

アメリカでは、これまで自身が率いてきた自由貿易体制による利益よりも、

安価な海外製品が自国産業を破壊する弊害のほうがクローズアップされるように

なってきたのです。

 

いわば、上でいうところの、「異常」が、だんだんと顕在化してきたのです。

 

ふだんの国と国とのやりとりでは、

貿易の振興をつうじてお互いに発展していくことを目指す、というのが、

「通常」です。

ほとんどの局面は、それなのです。

 

でも、その背後には、

国と国とが、自国の利益をかけていがみあい、激しく対立するという、

「異常」が存在しているのです。

 

この「異常」は、日常的な世界には、なかなかあらわれてきません。

なかなかあらわれてきませんから、ひとは、

そんなものはないんだ、と、ともすれば、考えてしまいがちなのです。

 

ところが、その「異常」は、けっしてなくなったわけではない。

「異常」を、この世界から消し去ることは、できないのです。

その「異常」は、この世界にあらわれる機を、じっと待っていて、

それがたとえば、

今般の米中貿易摩擦や、ヨーロッパにおける移民に対する世論の硬化のように、

一挙に噴出してくることがあるのです。

 

 

 

自然災害など起こらない平穏無事な日常生活という「通常」に対して、

大規模な自然災害が発生して甚大な被害が生じるという「異常」。

 

貿易の振興をつうじて相互利益の拡大を目指していくという「通常」に対して、

国と国とがいがみあい、制裁を課し、戦争にまで至るという「異常」。

 

あるいは、

安全快適にまもられた、社会における日常生活という「通常」に対して、

凶悪な犯罪が発生するという「異常」。

 

 

 

こうして見てくると、

「異常」というものは、普通の感覚では、「いやな」ものが多いですね。

 

だからひとは、その「異常」について、

あたかもそんな「異常」はこの世界には「存在しない」かのようにふるまったり、

あるいは、

その「異常」は「邪悪」なものであって、それを「なくす」ことが「正しい」

と考えたりするように、天機には思えるのです。

 

 

 

でも天機は、

この世界というのは、そもそも、

そんな「異常」というのが、ごく日常的な「通常」と組み合わさることで、

はじめて成り立っているものだと、思うんです。

 

たいせつなのは、

「異常」を亡き者にすることではなくて、

その存在を認めて、それと共存していくことです。

 

通常には、通常に対する対処の仕方があり、

異常には、異常に対する対処の仕方がある。

 

異常のもたらす災禍に対しても、それに応じて対応していく必要はあります。

 

ただ、異常というものを、はなから悪と決めてかかって、

それをまったくのゼロにしてしまおうとすると、

かえって、この世界からのおおきな反撃を喰らうような気もします。

 

天機は、そう思います。