教育勅語が問題になっている。
政府関係者は答弁で、教育勅語を教育現場で使用することも、かならずしも
否定されるものではない、との見解をしめした。
教育勅語の内容の中には、親を尊重せよ、とか、兄弟仲良く、とか、
みんなの役に立つことをして世界をリードしよう、
といったような、かならずしも否定できないような、
道徳的な内容もふくまれている。
が、それだけならいいのだが、教育勅語には、
いったん国家の非常事態が発生したならば、
身命を賭して国家と天皇のために尽くせ、という文言が入っていて、
これこそが教育勅語の核となっている。
かつての大戦の悲惨な経験を忘れてしまったのだろうか。
身命を賭して国家と天皇のために尽くすことを強要したからこそ、
悲劇的な玉砕や神風特攻といった悲劇が多発したのだろう。
こういったことは、第二次大戦の敗戦国は日本のほかにもあったけれども、
日本以外では見られなかった悲劇だ。
国家のために国民が存在するのではない。
国家のためならば国民はぼろ雑巾のように使い捨てられてよいもの
ではないのだ。
国民あってこその国家だろう。
国民がかわいそうだとは思わないのか。
日本を支えてくれる大切な国民に、そういった犠牲を強いた当時の
政府関係者は、きびしく批判されなければいけない。
国家は国民のものである。
日本のこれまでの歴史も、名もなき市井のひとびとが営々と
積み重ねてきたものだ。
それを忘れてはいけない。