みなさん天機です٩(ˊᗜˋ*)و
今回は、
人間はどうして他人の不幸を願ってしまうことがあるのか、
ということについて、自分なりに考えてみたいと思います。
みなさんは、生きていくなかで、
他人の不幸を願うときってあるでしょうか?
恥ずかしながら、天機はときどきあります(;´∀`)
他人の幸福を願うのか、それとも、他人の不幸を願うのか、
については、その人の性格に影響されることも
あるかと思うんですね。
天機はあまり善良な性格をしていないので、
それで、他人の不幸を願ってしまうときがあるのです。
でも、言い訳になるのですが、
インターネットで「他人の不幸」とか検索してみると、
「他人の不幸は蜜の味」みたいな文章を含むサイトが
ヒットしたりもするので、
たぶん世の中には天機と同じように
他人の不幸をときどきは願ってしまう人間も
それなりにいるんじゃなかろうか、なんて
自分は思ったりもするんですね( ´艸`)
では、人間はどうして他人の不幸を願ってしまうことが
あるのでしょうか?
それにはいろんな心理学的な理由もあるのかもしれませんが、
ここでは、天機独自の想像を書いてみたいと思います。
天機が思うに、
この世界の幸福の総量とか、不幸の総量とかは、
じつは決まっているんじゃないだろうか、
と思うんですよね。
ということは、
誰かのところへ不幸が訪問した場合には、そのぶん、
べつの誰かのところへ不幸が訪問する可能性は減る、
と、天機はそのように考えているんです。
ゼロサムゲームの考え方ですね。
たとえば、大自然で、
一頭のライオンが、カモシカの群れを追いかけているとします。
カモシカの群れは、追いかけられるなかで
2つの群れに分かれました。
このとき、ライオンが片方の群れを追いかけることにした場合、
もう片方の群れはライオンから襲われる可能性が
がくんと減りますよね?
ライオンは現状、一頭しかいないわけですから、
自分のいる群れとはべつの群れを襲っているということは、
つまりは、自分の群れにはやってこない、
ということを意味することになります。
つまり、他者に不幸が存在することは
自分の安全、幸福を意味することになる、
というわけなんですね٩( ๑╹ ꇴ╹)۶
これはライオンとカモシカのお話であって
人間には関係ない、と思われるかもしれませんが、
たとえば、つぎのような例はどうでしょうか。
あるところに、A村とB村という、
2つの集落がありました。
その2つの集落は、けっこう離れています。
ここで、そのどちらかの集落を襲撃しようと考えている
山賊団がいました。
相談の結果、山賊団はA村を襲撃することに決しました。
山賊団は、どちらかの村だけを襲撃することに
とりあえずはしていますから、この場合、
A村が襲撃されたことの反射的な効果として、
B村は襲撃をまぬかれているんですよね。
つまり、A村に不幸が存在するということが、
B村の幸福につながっているわけです。
このように、太古の昔から、
自然界においても、人間の世界においても、
他者に不幸が存在するということが自己の幸福を意味する、
という事例が存在してきて、
人間の深い記憶の中にそのことが息づいているんじゃないか。
そのために人間は、他人の不幸を願ってしまうことがあるのでは、
と、そのように自分は想像しているんですね。
ということは、
他人の不幸を願ってしまうという人間の気持ちも
きちんと根拠があるものなので、
否定したりはできないものなんじゃないかな、
と思われる方も少なくないとは思うんですが(;´∀`)、
天機はそれでも、
他人の不幸を願うというのは、できることなら
避けたほうがいいと思うんです。
他人の不幸を願うというのは、
これまで見てきたように
他人が不幸になることによって自分の不幸を避ける、
という側面があると思うんですね。
ということは、
他人が不幸になれば自分は不幸にはならず、
自分が不幸になれば他人は不幸にはならない、
という、言ってみれば
1つの天秤のような関係をそこに
意識することになるかと思うんですよ。
それに対して、
他人と協力する、というのは本来、
他人と自分とがともに幸福になるという状態を
目指すものだと思うんですね。
なので、
他人の不幸をいつも願っていると、
心の中で他人を自分の潜在的な敵だと
認識することになってしまい、
他人と協力するという気持ちがだんだんと
少なくなっていきそうな気もするんですよね( ノД`)
なので、
他人の不幸を願ってしまうことがあるというのは
人間の自然な性(さが)でもあると思うのですが、
ときどきは
他人と協力することも思い出してみると
いいと思います٩(ˊᗜˋ*)و
今回はそんなお話でした。
以上、天機でした( ´ ▽ ` )ノ