こんにちわ。天機です。
きょうは、新聞の人生相談欄について、考えてみたいと思います。
(この記事の字数 約1000字)
天機は、たまに、新聞の人生相談欄に目を通すことがあります。
いろんなひとが、いろんな悩みを相談して、回答者が、それに回答していますね。
ここで、相談者を仮にAさんとし、Aさんに迷惑をかけているひとをBさんとし、
Aさんの相談に回答する回答者をCさんとしましょう。
もし、いま、これが新聞の人生相談欄などではなくて、
目の前にAさんもBさんもならんで座っていて意見をたたかわせ、
そのまえで、Cさんが仲裁をする、というような場面であれば、
Cさんは、Aさんの意見もBさんの意見も、両方とも聞いて判断することができ、
そのアドバイスも、
Aさんにも、Bさんにも、直接することができますよね。
ところが、新聞の人生相談欄は、そうではありません。
回答者であるCさんは、相談者であるAさんからだけ、事情を聞きます。
すると、その事情というのは、客観的で公平な視点から俯瞰してえられた
情報ではなく、どうしても、Aさん目線で語られる情報になります。
ここに、公平性に関する第一の問題点があります。
問題点は、それだけではありません。
回答者であるCさんは、基本的に、悩みを解決してあげようと思って
回答を書くのでしょうが、
その回答を読むのは、基本的には、相談を寄せたAさんだけです。
問題の根本原因が、Aさんを悩ませているBさんの理不尽にあったとしても、
回答者であるCさんは、回答をつうじてBさんに対して、
直接に影響力を行使することができないのです。
するとどうなるかといえば、回答者であるCさんは、相談者であるAさんに
対してしか、影響力を行使できないので、
たとえ問題の原因が理不尽なBさんにあったとしても、
「そこはAさんがこうすればいいんじゃないかしら?」とか、
「Aさんにも改善すべき点があるんじゃない?」とかいった方向へと向かう
ことになり、
あきらかにBさんがおかしいのにもかかわらず、
Aさんに、配慮することや自制することをうながす、といったような、
おかしな方向へとすすむことがあるわけなのです。
これが、公平性に関する第二の問題点です。
新聞の人生相談欄には、このように、その性質からくる限界が存在する
ものだろうと、天機は考えています。