この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

牛と人間の友情が成立しないとしたら。

こんにちわ。天機です。

(約1700字)

 

 

 

きょうは、動物と人間の友情について、考えてみたいと思います。

 

 

 

はてなブログを読んでいると、ブロガーさんの中には、

生き物を飼っていらっしゃるかたも、ちらほら見かけます。

 

代表的な生き物で言えば、犬さんとか、猫さんとかでしょうか。

 

飼い主さんたちは、精一杯の愛情をそそいで、

それらの犬さんや猫さんとの友情を築いているように思います。

 

 

 

犬さんや猫さんは、通常、「愛玩動物」とされています。

人間が、ペットとして飼育することが、

一般的に想定されているような生き物だ、ということだろうと思います。

 

 

 

ところが、

牛さんや豚さん、鶏さんは、

一般的には、愛玩動物であるとの評価を受けてはいないように思います。

 

牛さんや豚さん、鶏さんは、

一般的には、食用動物であるとの評価を受けているように思うのです。

 

 

 

この、

犬さんや猫さんに対する人間の評価や取扱いと、

牛さんや豚さん、鶏さんに対する人間の評価や取扱いに、

このような相違が生まれてくる原因は、

いったい、なんなのでしょうか?

 

 

 

天機が思うに、それには、

人間の食生活の歴史が関係しているのではないだろうか、と思うのです。

 

 

 

人間の歴史が、文書によって記録されるようになってから、

かれこれ、数千年がたちます。

 

人類、と言う種が誕生してからだと、

アウストラロピテクスでしたっけ?

100万年くらいはたっているかもしれません。

 

 

 

人間も、その他の多くの生き物とおなじように、

生きていくためには、他の生き物を食べなければいけません。

 

 

 

人類は、おそらく、

その古くからの歴史において、

どんな生き物なら食べられて、どんな生き物なら食べられないか、

また、

どんな生き物なら食べて(人間にとって)美味しくて、

どんな生き物なら食べて(人間にとって)美味しくはないのか、

いろいろと試行錯誤や実験をするなかで、

学習していったんだと思うのです。

 

 

 

そして、幸か不幸か、

犬さんや猫さんは、人間にとっては、食べてもあまり美味しくはなく、

他方で、

牛さんや豚さん、鶏さんは、食べると、

比較的美味しいぞ、ということが、

人間にとって、だんだんとわかってきたのです。

 

 

 

それゆえに、

犬さんや猫さんは、食用とされることからは、

だいたいにおいてはまぬかれ、

他方で、牛さんや豚さん、鶏さんは、

多くは人間の食用となるように、運命づけられてしまったのです。

 

 

 

つまり、ごくごく簡単に言うと、

牛さんや豚さん、鶏さんの「不幸」を決定づけたのはなにか?

というと、それは、

 

自分自身の肉体が人間にとっては美味であったということ

 

に、ほかなりません。

 

 

 

だれかを友人として所有したいという願いと、

だれかを、なにものかを、食べてしまいたいという願いは、

相いれない願いです。

 

 

 

友人としてだれかを所有したいという願いは、

その友人は、自分とは異なる他者として生存し続ける、

ということが前提になっています。

 

 

 

他方で、だれかを、なにものかを、食べてしまいたいという願いは、

そのだれかやなにものかの生存を、

この世からは消し去ってしまうということが前提になっているのです。

 

 

 

もしかしたら、牛さんとの友情をはぐくむことも、

あるいは可能かもしれません。

 

この広い地球上には、

食肉として出荷することを前提とはせずに、

純粋に牛さんとの友情をはぐくむために、

牛さんを飼育しているひとだって、それはいるでしょう。

 

 

 

でも、牛さんにとっては不幸なことに、牛さんは、

人間にとっては非常に美味である、という、肉体を、

自己の一部として持っています。

 

そのために、人間の側としては、

牛さんとの友情をぶちこわしにしてでも牛さんの肉体を味わいたい、

という誘惑にたえずとらわれることにもなり、

他方で、牛さんの側としては、

いまはたとえ人間の側との友情が成立していたとしても、

いつ、人間の側の食欲が表面にあらわれてきて、

自己の生存がおびやかされるかわからないという、

慢性的な恐慌状態におちいることにもなるわけです。

 

 

 

牛さんの肉体が非常に美味である、ということが、

牛さんと人間との間で純粋な友情が成立するうえでの、

おおきなネックになっているのです。

心と重力。

こんにちわ。天機です。

(約2700字)

 

 

 

きょうは、この世界の不思議、にかんするお話です。

 

天機は、よく荒唐無稽な妄想をするのですが、

きょうの記事も、そんな感じのおはなしですね。

 

 

 

さて、この世には、「重力」というものがあります。

 

万有引力の法則を発見したのは、ニュートンでしたっけ。

この世の中の、ありとあらゆるものは、みな、引力をもっている、

とかいうことだったと思います。

 

 

 

ですから、

太陽は地球に引力をおよぼし、そのために地球は、

太陽の周りを周回運動しています。

 

地球は月に引力をおよぼし、そのために月は、

地球の周りを周回運動しています。

 

地球の持つ重力は、地球の上に乗っかっているありとあらゆるものに影響して、

それゆえに、みんな、地球にくっついているし、

人間はみな、体重というものを持っているし、

高いところから物を落とせば下に落ちていく、というわけです。

 

 

 

ここで、万有引力、というからには、

田中さんも、佐藤さんも、渡辺さんも、みな、

それなりに引力を持っているはずなのですが、

実際には、

田中さんが佐藤さんの引力に引っ張られてぴゅーっと飛んでいくとか、

佐藤さんが渡辺さんの引力にとらえられて身動きできない、

なんてことは、起こっていないわけです。

 

 

 

というのも、自分の理解では、

地球の持つ圧倒的な強さ、大きさの重力に比べて、

佐藤さんや田中さんのもつ引力なんて、

あまりにも小さすぎるので、実際は、

無視してよいようなものだからなんですね。

 

 

 

自分は、この物理的な重力を、

人間の心と関連付けて考えてみました。

 

 

 

いまここで、かりに、佐藤さんという人が、

「自分はバナナがとても好きなんだ。バナナは美味しいし、健康にもいいよ。

 みんな、バナナを食べようよ!」

というような見解を持っていたとしましょう。

 

 

 

この佐藤さんが、さて、

他の多くの人に、自分と同じようにバナナを好きになってもらい、

バナナを食べる気になってもらうためには、どうしたらいいでしょうか。

 

 

 

ふつうは、たとえば、

いろんな人に話しかけて、バナナの素晴らしさを伝えるとか、

インターネット上でサイトを立ち上げて、バナナをアピールするとか、

ブログやツイッターでバナナをアピールするとか、

バナナの素晴らしさについて新聞に意見広告をだすとか、

はたまた、政治家になって、

国民がバナナの消費をふやすように政策をかえていくとか、

まあ、そういったあたりのことでしょうかね。

 

 

 

佐藤さんはみんなにバナナを食べてほしいのですが、

それを実現するためには、

上に挙げたような手段を、通常はとらなくてはいけないのです。

 

 

 

それはどうしてかというと、ふつうは、

佐藤さんが、自分はバナナが好きだ、バナナの良さよ、世界に広まれ!

と心の中でいくら念じたところで、

それだけでは、ほかのみんなの心は、

バナナを食べよう、っていうふうには、ならないからなんですね。

 

 

 

そんなの当たり前やん!なに、当然のこと言ってんだよ!

なんて、お叱りの言葉を受けそうです。

 

 

 

たしかに、これは当たり前のことです。

誰かが心の中でなにかを思い、なにかを願ったとしても、

通常は、そのことだけでは、

他者の気持ちに影響をあたえることは、できません。

 

他者の気持ちをかえていくためには、

自分の意見を表明し、その表明された意見にふれた他者が、

自分の意見をかえていく、というプロセスをふまなければいけないのです。

 

 

 

ですが、ここで天機は、ふと、重力のことを考えてみました。

 

太陽や地球といった、とてつもない重力をもつものは、

その重力で、他の物体に影響をあたえることができます。

 

ところが、個々の人間のような存在は、重力をもっているとはいっても、

その重力があまりにも小さすぎるため、

ほかの物体をひきつけたりする現象は、通常は、認識されないのです。

 

 

 

人間の心も、通常は認識されないけれど、じつは、

重力のようなものを、秘めているのではないだろうか。

 

個々の人間の心がもつ重力は、認識できないほど小さいので、

通常は、

だれかがなにかを思ったり、なにかを願ったりするだけでは、

ほかのひとの心に「直接」影響することはない。

 

 

 

でもここに、かりに、

すごい強力な心の重力を、何らかの理由で持つにいたった、

特殊な人間がもしいたとしたら、

たとえば、

そのひとが「バナナは素晴らしいなあ。バナナが好きだ。みんな、

バナナを食べよう」と、

 

心の中で思っただけで

 

他の多くの人が、どういうわけか、

だんだんとバナナが好きになりだす、といったような、

超常現象が起きることがあるのではないだろうか。

 

 

 

天機は、そんなことを考えていました。

 

 

 

中国の古典に、「老子」という作品があります。

 

老子第49章には、

「聖人無常心、以百姓心為心。」

とあります。

 

 

 

この文章を、書き下し文にすると、

「聖人には常の心なく、百姓(ひゃくせい)の心をもって心となす」

となります。

 

 

 

一般的には、この老子の文章は、

「聖人というものには、一定不変の決まりきった心というものがなく、

 常に民衆の気持ちに寄り添っているのだ」

と解釈されることが多いです。

 

 

 

でも、天機は変わり者です。

 

変わり者の天機は、この老子の文章について、以下のように解釈しました。

 

 

 

「聖人は、われわれが一般的に考えるような、

 通常の意味での普通の心というものを持たない。

 聖人がなにかを思い、なにかを願ったなら、

 それがそのまま直接、ひとびとの心に影響して、

 そのひとびとの心を変えさせる。

 聖人とは、そういう超能力、特殊能力をもった存在である」

 

というように解釈したのです。

 

 

 

老子において、「聖人」とは、

出自が高貴であるひと、というわけではありません。

 

人格的に優れていて、とても優しいひと、というわけでもありません。

 

書物を多く読んでいて、知識をたくさん貯めこんでいるという意味において

賢いひと、というわけでもないのです。

 

 

 

老子における、「聖人」の資格は明確です。

 

この世界の森羅万象の背後に流れていて、

通常人の認識では到底知りえないような、隠れた原理について洞察しているために、

脳みそが通常人とは異なるようになった存在、

それが老子でいうところの、「聖人」です。

 

単に優しいとか、普通人の理解がおよぶくらいの賢さがある、というだけでは、

「聖人」とするには、足りません。

 

聖人か聖人でないか、のちがいは、ただ1つ、脳みその違いなのです。

 

 

 

天機が思うに、

そのように脳みそが通常人のそれと異なるにいたった聖人は、

その心が「重力」をもつにいたったのではないでしょうか。

 

それゆえ、

老子がわざわざ第49章でおそらくはのべているように、

聖人の心は、民衆の心に、直接的な影響力をもつようになったのではないか。

 

 

 

天機は、そのようにも思います。

宇宙銀行のしくみとは?-預け入れと貸し付け

みなさんこんにちわ。天機です。

 

 

 

きょうは、宇宙銀行について書いてみようと思います。

(約3600字)

 

 

 

宇宙銀行については、以前にもいくつか記事をアップしたことがあります。

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

 

 

今回のお話は、若干、スピリチュアルなおはなしになるかと思います。

 

 

 

世の中では、いいことをしたり、誰かのためになることをしてあげたりしたら、

やがてそれは、自分に良い影響となって還ってくるんだよ、

なんてことがいわれたりします。

 

たとえば、

「情けは人のためならず」とか「陰徳陽報」とかいった言葉は、

そのことをあらわした言葉である、と、一般的には考えられています。

 

 

 

宇宙銀行とか、宇宙預金とかいった言葉は、

そういったしくみを、言い換えた言葉なのです。

 

 

 

この世の中には、目には見えない宇宙銀行というものがあって、

自分が誰かのためになにかいいことをしてあげたりすると、

それは、宇宙預金となって、自分の口座に蓄積されていく。

 

そしてやがては、自分がその宇宙預金を引き出すときになって、

自分がこんどは幸福に恵まれることになる。

 

簡単に言ってしまうと、そういうしくみなのです。

 

 

 

この、宇宙預金とか、宇宙銀行とかいう考え方は、

最近では、インターネット上でも、ちらほら見かけるようになってきています。

 

この考え方を、本にあらわしたひととしては、

小林正観といったひとがいるようです。

 

 

 

この宇宙銀行や、宇宙預金について、

今回も、自分なりに考えてみます。

 

 

 

これまで、宇宙銀行や宇宙預金について、とりあつかっている

サイトや本などを見ていると、

その多くは、

「1人の人間について」とりあつかっているように思うのです。

 

つまり、

宇宙銀行に宇宙預金を預け入れる「自分という1人の人間」、

そして、やがてはその宇宙預金を引き出すことになる「自分という1人の人間」、

といった具合です。

 

視点が、1人の人間の、宇宙預金の出し入れ、

というところにしぼられているんですね。

 

 

 

でも、考えてもみてください。

 

みずほ銀行だの、三菱UFJ銀行だの、三井住友銀行だの、りそな銀行だの、

といった、

実際にお金をやりとりしている、現実の銀行は、

どういったしくみで動いているでしょうか。

 

 

 

それらの銀行は、たった1人の顧客を相手にしているわけでは、ないですよね?

 

たくさんの顧客から預金をあつめて、

それをたくさんの顧客に貸し付けて、基本的には、

それらの間の利ザヤを抜くことで、商売しているはずなのです。

 

 

 

であるならば、宇宙銀行や宇宙預金について考える際にも、

「自分という1人の人間に相対する宇宙銀行」

だけを考えるのではなくて、

「多くの人間のあいだで活動するところの宇宙銀行」

というふうに、

「宇宙銀行システム」

のようなものについて考える必要がある、と思うんですね。

 

 

 

では、その、「宇宙銀行システム」は、

いったい、どのようになっているのでしょうか。

 

 

 

たった1人の人間と、宇宙銀行との関係を考えているだけなら、

ことは非常に簡単で、シンプルです。

 

自分が善行をして、宇宙銀行に宇宙預金を預け入れる。

 

その宇宙預金に利子がつく。

 

やがて、その宇宙預金が自分に払い戻されて、自分に幸福がおとずれる。

 

以上で終わりです。このプロセスで、いちおうの清算となります。

 

世の中の、宇宙預金について書かれた、

インターネット上のサイトとか、本とかも、基本的にはこの、

「自分という1人の人間と、宇宙銀行とのやりとり」

についてしか、書かれてはいません。

 

 

 

でも、自分は、この宇宙銀行というのは、

多数の人間のあいだで運のやりとりをする、いわば、

「広域的宇宙銀行システム」のようなものを構築している可能性がある、

と思うんです。

 

するとどうなるか。

 

 

 

宇宙銀行システムは、

顧客から預かった宇宙預金を、その顧客当人に、満期が来たら弁済するだけでなく、

べつの顧客に、貸し付けることがあるのです。

 

つまり、

あるひとが善行をおこなって、運を貯めたとします。

 

ふつうは、その運は、そのひとが将来、自分の幸福というかたちで

受け取ることになる、と思うでしょうが、

広域的宇宙銀行システムにおいては、その運は、

だれかほかのひとのところへ、ほかのひとの幸福となって、

貸し出されてしまうことがあるのです。

 

 

 

ここで、宇宙預金や運についての、預け入れや貸し出しに関して整理すると、

 

預け入れ→将来自分が受け取れる運はたまるけれども、今現在は苦しいことが起こる。

払い戻し→自分がためた運を、現在の幸福というかたちで受け取る。運は目減りする。

貸し出し→誰かほかのひとがためた運を、自分の現在の幸福というかたちで受け取る。

     運に関して、負債を負うことになる。

 

 

というふうになるわけです。

 

自分がいま現在苦しい思いをしているのならば、

将来、幸福と交換できる運はたまっているのですが、いま現在の幸福はない。

 

自分がいま現在ハッピーであるならば、

いま現在の幸福はあるのですが、将来の幸福に変換できる運は目減りしてゆく。

 

だけでなく、

自分がいま現在、苦しい思いをして運をためていても、その運は、じつは、

だれかほかのひとの現在の幸福として、

すでに変換されてしまっている可能性がある。

 

これが、広域的宇宙銀行システムの意味するところなのです。

 

 

 

ここ日本では、しばしば、「勤倹貯蓄」が美徳とされることがあります。

 

コメディアンの萩本欽一さんは、「ダメなときほど運はたまる」という本を

上梓されていますが、そのなかでは、

運を貯めることの素晴らしさばかりが言及されていますが、

基本的には、貯めた運を使えば自分がハッピーになれる、ということに関しては、

あまり言及がありません。

 

まるで、貯めること=美徳、使うこと=悪徳、ででもあるかのようです。

 

 

 

戦後の日本の高度成長をささえた一つの要因にも、

日本人の、貯蓄を好む国民性があったともいわれています。

 

日本人の貯めたお金が、銀行を通じて企業に貸し出され、

それが設備投資などの費用に回った、というわけですね。

 

 

 

でも、このことにも注意が必要です。

 

 

 

たとえば、日本はアメリカの国債を非常に多く購入しています。

日本は債権を持ち、アメリカは負債を負っているわけです。

 

しかし、日本が購入している米国債は、

償還期限がきても毎回更新されるばかりで、

いっこうに償還される気配はありません。

 

 

 

日本はたしかにアメリカに対して債権を持っているのですが、

その米国債は、日本は、事実上、売却することができなくなっているのです。

 

ということは、どういうことかというと、

日本は米国にお金を貸し付けているのですが、

そのお金は、アメリカに取り上げられたようなもので、

自分の自由にはできない、ということなのです。

 

 

 

広域的宇宙銀行システムについても、

このような観点からの注意と警戒が必要です。

 

 

 

勤倹貯蓄は素晴らしいことだ、苦労することはいいことだ、

という価値観に支配されていると、

宇宙銀行や宇宙預金についても、

いま苦労しているんだから、宇宙預金が貯まって、

将来、きっといいことがあるんだ、と思いがちです。

 

 

 

でも、それはちがうと思います。

 

自分が貯めた宇宙預金は、だれか他の人間の幸福として、

貸し出されてしまっている可能性があるのです。

 

そのことが、世の中においてどういう現象になってあらわれるかというと、

苦労ばっかりしていて全然報われない人がいる一方で、

やたら幸福に恵まれてハッピーな人がいる、

という現象になってあらわれることになるのです。

 

 

 

世の中の、幸福に恵まれたひとをみると、ふつうは、

あのひとは努力したから、とか、あのひとは人のためになることをしたから、

とかいった感想をもつことがあると思います。

 

逆に、不運に見舞われているひとをみると、

それはやっぱり本人に原因があるんじゃないか、とか、

ひとを傷つけるようなことをしたからだ、とかいった感想をもつことも

あると思うんです。

 

 

 

でも、もしかしたら、そういった評価は、

現実を正しくとらえては、いないのかもしれない。

 

あるひとが幸福に恵まれているのは、

ほかのひとが貯めた運の貸し出しを受けているからかもしれず、

また、あるひとが不運に見舞われているのは、

自分が貯めた運を、自分で使えずに、

ほかのひとに貸し出されてしまっているからかもしれない。

 

天機は、そう思うのです。

 

 

 

だからこそ大切になってくるのは、

この広域的宇宙銀行システムにおいて、

宇宙預金をすること、預け入れをすることだけが素晴らしいのだ、

と盲目的に信じ込むこと、ではなくて、

自分がためた運が、ほかのひとに意図せずに貸し出されそうになっている場合には、

それをきっぱりと拒絶し、

預け入れをする側から、貸し付けや払い戻しを受ける側へと、

自分の立ち位置を変更することだろうと、思うのです。