この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

「本当にそうなのか?」と考える人々の増加。

こんにちわ。天機です。

(この記事 約1300字)

 

 

 

最近は、世の中のさまざまな面で、急速に変化しているなあ、

という印象を受けることも多いです。

 

 

 

たとえば、その1つが、冠婚葬祭における変化です。

 

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以前ならば、結婚したならば、

結婚式や披露宴をおこなうことは、ごくあたりまえのことでした。

 

また、近親者が亡くなったときには、当然、

葬儀や告別式をおこなって、お墓をたてたり、

戒名をつけてもらったりするものだったのです。

 

 

 

ところが、いま、そういったかつての「常識」が、

つぎつぎと揺らいできています。

 

結婚する人がだんだんと減ってきている、といった報道がされていますが、

結婚しても、結婚式や披露宴をおこなわない

「ナシ婚」を選択するひとびとが増えています。

 

また、近親者がなくなっても、従来のような葬儀、告別式をおこなわず、

ごくごく親しいひとだけですませる家族葬や、あるいは、

火葬だけをおこなう火葬式を選択する人がふえていて、

他方で、お墓を継承しない「墓じまい」を選択するひとも、ふえているのです。

 

 

 

どうして、このような現象がおきているのでしょうか。

 

 

 

ひとつには、ひとびとの意識が変化してきて、

よりドライな意識になり、儀礼というものに縛られなくなってきた、

ということもあるでしょう。

 

また、ひとつには、

ひとびとの可処分所得がだんだんと少なくなってきたために、

切りつめられるところはできるだけ、切りつめるようになり、

本当に必要だと思えるところにしか、

お金を出さなくなってきた、ということも、あるかもしれません。

 

 

 

ただ、天機は、それに加えて、

 

「ひとびとが、本当にそうなのか?と、たえず問いかける姿勢、

 常識を疑いながら、いちから自分の頭で考えようとする姿勢、

 そういった姿勢が、近年、急速に強まってきているのではないか?」

 

というふうにも考えています。

 

 

 

結婚したら立派な結婚式をする、人が亡くなったら立派な葬式をする、

というのは、

いわば、「あたりまえ」のことであって、

その正当性や合理性が、いちから、いちいち問い直されるようなことは、

これまでなかったわけです。

 

 

 

ところがいま、ひとびとは、

それが本当に必要なことなのかどうか、いちから考えようとしています。

 

それは単に、

ドライになったから、とか、

シビアになったから、とか、

ケチになったから、とか、

そういったことばかりではないように、天機には思えるのです。

 

なんというか、もっとこう、

 

「〇〇ということは、これまで当然の常識とされてきたけれど、

 それが本当にそうなのかどうか、

 合理性があるのかどうか、

 いちから自分自身のふるいにかけてみるぞ」

 

というような、そういう意思や姿勢を感じるのですね。

 

 

 

そして、この、

「これまでの常識とされてきたことについて、

 もう一度、その正当性や合理性を、自分でいちから問い直そう」

という姿勢は、

冠婚葬祭にとどまらず、

世の中のあらゆる面で、急速に広がりを見せつつある現象になっています。

 

 

 

これまでの常識が通用しなくなってきた、

といわれるようなことも、最近は多くなっているのかもしれませんが、

その背景の1つには、

ひとびとの意識の、そのような変化があるのかもしれません。