いまでもあるのかどうか知らないが、かつて高校数学には、
命題と論理という単元があった。
その単元には、ある命題が真なのか、それとも偽なのかを判別させるもの
があって、
ある命題が偽であることの証明に使われたのが、
反例をあげる、という手法だった。
〇〇は✕✕である、という命題は、もしかりに、
すべての〇〇は例外なく、かならず✕✕である、という意味で言われるならば、
少なくとも1つの〇〇は✕✕ではない、という反例が提示された瞬間に、
その命題は偽である、という刻印が押されることになる。
道理とは、その意味で、たいへん厳しいものなのである。
小さいことなんかこだわらなくてもいいでしょ、なんていう言いぐさは、
道理と論理の前には、ことごとく駆逐されるのだ。
カラスは黒い、という命題はどうだろう。
もしかりに、この命題が、
どんなカラスであろうとも、カラスであれば例外なく黒い、
という意味で言われるならば、
1匹の白いカラスが登場した段階で、ただちに破綻することになる。
その場合は、
たいていのカラスは黒い、とか、一般的にはカラスは黒い、とは言えても、
カラスであればすべて黒い、という意味で、カラスは黒い、
ということを言うのは、もはや許されないことになる。
たった1匹の白いカラスの存在が、命題の帰趨を決定する力をもつ。
これにかぎったことではない。
理のあらわれるところ、どういうわけか、たった1つのなにか、
ほんのわずかななにか、が、とても大きな力となってあらわれることが、
よくあるのだ。
たった1匹のカラスなんて無視していいんだよ、
そんなやつほっとけよ、
やっぱりカラスは黒いんだよ、それでいいじゃん、
なんて言うやつは、理に対する叛徒にほかならない。
見守り隊の隊員をつとめていた男が、少女殺害の件で逮捕された。
この事件をみて、どう思うだろうか。
あの男は特殊な例外なんだよ、無視していいんだよ、
見守り隊というのはやっぱり信用していいんだよ、
と、あなたなら考えるだろうか。
自分は、それは違うと思う。
たった1人の例外があらわれた瞬間、
見守り隊というのは例外なく全員が信用できる存在だ、
という命題は、見事に破綻してしまったのだ。
現時点でせいぜい言えることは、
見守り隊というのは一般的には信用できるかもしれないね、
例外もあるけどね、
程度のことでしかない。
みんな、そのことにうすうす気づいているからこそ、
あんなにも地域が動揺しているのではないだろうか。
そろいの黄緑色の服をきて、児童を見守る見守り隊。
いかにも怪しげな外見で怪しげな挙動の成人男性を「仮想敵」とみなし、
「声掛け事案」などという度を越えた通報システムまで構築した、
地域の防犯パトロールとやら。
なんのことはない、
怪しいのは、地域の防犯パトロールや見守り隊の「外」にいるやつでは、
なかったのだ。
見守り隊や地域の防犯パトロールとはいっても、
全幅の信頼をおくことは、できない。
アニオタが犯罪をおかせば、ああ、アニオタって危ないやつらなんだ、
という。
ロリコンが犯罪をおかせば、ああ、ロリコンって危ないやつらなんだ、
という。
であるならば、見守り隊が犯罪をおかしたときだけ、
特異な事例だから見守り隊を否定してはいけない、
というのは、許されないことだろう。
見守り隊が犯罪をおかしたときに、特殊なケース、というひとこと
で片づけるのなら、なぜ、
アニオタやロリコンが犯罪をおかしたときは、
特殊なケースと考えず、アニオタ全体やロリコン全体に敷衍
して考えるのか。理に合わないではないか。
整合性というのは、とても大切なことだ。