羅生門という作品は、高校の国語の教科書にかならずといって
いいほど、とりあげられる作品だ。
この作品の「なぞ」について、自分の思うところを書いてみよう。
◇ なぜ、「羅城門」ではなく「羅生門」になったのか。
人間が生きていくためには、かならず、
食べるということをしなければいけない。
ほかのことはしなくてもね。
食べるというのは、自分が生きるために他者の命を
犠牲にするということ。
この、自分が生きるために他者を犠牲にする、というのが、
生の本質。それは、修羅にも通じるもの。
羅生門の全編をつうじて、悪とは何かということが中心テーマになって
いるが、この悪というものも、生の本質と深いかかわりがある。
自分とは異なる他者を認めるというのが
理の本質であるとするならば、
その理に対置されるような、
他者を犠牲にしてでもこの自分は生きるというのが、生の本質。
前者が善であるならば、後者はすなわち、悪。
羅生門に登場する主人公である下人は、この悪の世界、生の世界、
修羅の世界へ足を踏み入れるかどうかで逡巡している。
その舞台となった羅生門という門は、いわば、そんな生の世界への関門。
ゆえに、羅城門ではなく、羅生門。
◇ 丹が塗ってあって赤い羅生門を、なぜ物語の舞台にしたのか。
夜の暗闇があって、朝、太陽がのぼると白い光が満ちあふれ、
夕方には赤い夕焼けに染まる。
黒→白→赤の順番で、推移する。
人が生まれてくるときは、ふつう、まず髪の毛があらわれ、
つぎに頭があらわれ、最後に胴体があらわれる。
これは、この世界のはじまりにおいて、
矛盾→理→生の順番で世界が誕生したという、その原理を、
具体的な現象で現在もなお、なぞっているからだ。
「生」をあらわす色は、赤。
よって、羅生門の色は、赤。
◇ なぜ、下人の「右」の頬には、「赤い」にきびがあったのか。
右は理の原理、左は生の原理を、それぞれあらわす。
英語でも、右はRIGHT、理はREASONで、ともにRではじまるが、
左はLEFT、生はLIFEで、ともにLではじまる。
古代ローマ以来、西欧では左を邪悪とみなす伝統があるが、それは、
左が生の原理、すなわち、悪に通じるからである。
右という理をあらわす領域である下人の右の頬にできた、
赤という生をあらわす色をおびたにきびは、
下人の中において、当然と思っていた理のなかに、生による反乱が
起ころうとしている、その萌芽が生まれていることをしめす。
実際、下人は逡巡ののち、理をかなぐり捨て、
生という悪の道にはいる決心をする。
付け加えると、下人は、にきびを気にしてそれを手でいじくっている間は、
老婆に対して不法行為をはたらいていない。
そして、最後の段になって、老婆に不法行為をはたらく直前に、
にきびから手をはなしている。
にきびを気にしていじくっている、というのは、どういうことかというと、
そこにあらわれているにきびのようなものは、
「異物」であると、下人が考えているということだ。
つまり、にきびのようなものは、本来、存在すべきでないのに、
それにもかかわらず、「異常なことに」そこに存在しているので、
下人は、それが気になるのである。
つまり、このときの下人というのは、なにもない右の頬、
というものがあらわす
「理」というものが正しいものなのであって、
そこにあらわれた、にきびという「生」をあらわすものは、
「異常」なものであって、とりのぞかねばならない、と思っているのである。
ところが、最後の段になって下人は、そのにきびから手をはなすやいなや、
老婆に対して不法行為にでる。
つまり、そのときにいたって、下人は、
右の頬という「理」の領域において「生」がその萌芽をみせたとしても、
それは「異常」なことではない、と考えたのである。
つまり、この段になって、下人は、
「理」の領域において「生」が「反乱」を起こしていてそれをなんとかせねば
ならない、という逡巡から解き放たれて、
「理」のなかにも「生」は存在しうるという事実を受け入れ、
自分の中における煩悶に、1つの決着をみたのだ。
◇ 老婆はなぜ、髪の毛を抜いていたのか。
老婆が悪いことをしていた、ということを描写するだけなら、
死体から金品を盗んでいた、などでもよかったはず。
なぜ、髪の毛を抜くという特異な状況を設定したのかといえば、
人間の髪の毛は、矛盾という原理をあらわすものだからだ。
さきほど、黒→白→赤という順番で推移すると書いたが、
赤はしばしばこの世界で、黒へと変化する。
赤い夕焼けの後には、黒い夜空がひろがる。
赤い炭火は、燃え尽きれば黒い炭になる。
赤い血潮は、空気中で凝固すれば、くろっぽいかたまりになる。
赤い肉は、腐ったり、うんこになったりすれば、やはり、
黒いかたまりになる。
太古の昔からつづく赤は、しばしば、黒へと変化する。
これは、赤という生の原理は、矛盾という原理へと変化することを示す。
この老婆は、
自分のためであれば他者を犠牲にするという原理を、生の原理を、
悪の原理を、選択した者の、なれの果ての姿なのだ。
この世界のはじまりにおいて、矛盾という母がいた。
その母が、はじめてとなる自分の子供を出産する。男の子だ。
その生まれたばかりの男の子と、その男の子を産んだ母が、まじわる。
すると、2番目の子供がうまれる。女の子だ。
最初に生まれた男の子が、理。
2番目に生まれた女の子が、生。
その2番目に生まれた女の子、生は、変化して、はじまりの母、
つまり矛盾へと、姿をかえる。
女性はこの誕生の物語のなかで、2人あらわれる。
黒の女性と、赤の女性だ。
黒の女性は矛盾という原理をあらわし、年老いている。
赤の女性は生という原理をあらわし、若い。
悪という原理、生という原理を選択したものは、やがて、
みずからが矛盾という原理、苦しみの原理へと変化することを
知ることになる。
悪という原理、生という原理が変化したなれの果てが、矛盾という原理
、苦しみという原理であることを示すためにも、この場面は、
老婆でなくてはならなかったし、髪の毛でなくてはならなかったのだ。
そして、この老婆の姿は、悪の道、生の道をえらんだ下人のその後の
運命でもある。
だから、物語の後半、下人が盗みを終えたあとに、
こういう表現があるよね。
あとにはただ黒洞洞たる闇があるだけだった、って。
黒という色がどんな原理を意味する色かは、
重ねていうまでもないだろう。
まとめると、こういうことである。
太古の昔からつづく、この世界における「赤」は、
しばしば、「黒」へと変化する。
そしてこの世界の原理においては、
「赤」は、自己の生存のためならば他者を犠牲にしてもかまわない、
という「生」の原理をあらわし、
「黒」は「矛盾」という原理をあらわす。
この世界は、矛盾→理→生という順番で生成したが、
具体的な現象でいうと、
人間の髪の毛(矛盾)→人間の頭(理)→人間の胴体(生殖器)(生)
であり、また、
夜の闇の黒(矛盾)→昼の光の白(理)→夕焼けの赤(生)
であり、さらには、
はじまりの母(年老いた女性)(矛盾)
→その母がはじめて産んだ第一子となる男の子(理)
→その母と男の子の交わりで生まれた第二子となる女の子(若い女性)(生)
なのである。
つまり、老婆も、髪の毛も、双方ともに、
「矛盾」という原理をあらわしていて、
ここにおいて、この老婆の登場によって、
「理」をとるのか、「生」をとるのか、
という二項対立の軸で進んできたこの物語の中で、さらに、
下人はこの、あらたな「矛盾」という原理に対してどのように対峙するのか、
という新展開をみせることになるのだ。
◇ 下人はなぜ、老婆の行動を善悪いずれのものとも決定しがたかった
のか。
老婆のあらわす原理は、「矛盾」であるから。
善であるとも、悪であるともいえないのだ。
◇ 下人が老婆のまえにふりかざした「白い」太刀の効果は。
白は、理という原理をあらわす色である。
このとき下人は、老婆から金品を奪い取るためではなく、
なにが正しくてなにが間違っているのかという理の観点から、
老婆に対峙しようとしているのだ。
◇ 善悪いずれのものとも決定しがたかった老婆の行為を、
下人はなぜ、悪と断定したのか。
下人の心がそのとき、理の心であったからだ。
矛盾はただそのままあれば、矛盾のままである。
しかし、矛盾は理の光に照らされると、滅ぼされなければ
ならないものとなる。
暗闇でマッチをすると光が生まれ、そこにあった闇は
殺される。
イザナギが灯を照らした瞬間、ただの醜い死体にしかすぎなく
なってしまった。
数学で使う背理法というのは、矛盾が生じれば、
それはありえないことだ、とする。
理というのは、矛盾を認めることができない。
はじめて生まれた男の子が、この世界のはじまりの母を
傷つけたようにね。
発酵してできるお酒の良さがわかるのは、その子がもっと
成長してからだ。
◇ 羅生門は、なぜ場面設定が夕暮れ時なのか。
この世界の生成の順番は、
矛盾→理→生で、人間の体でいえば、
髪の毛→頭→胴体(生殖器)。
時間でいえば、
夜の闇→日中の光→夕暮れ時の夕焼けで、
色でいえば、
黒→白→赤。
下人が悪の道、生の道を選択し、その後、苦しみをむかえることに
なる、という状況だから、
生をあらわす夕方から、矛盾や苦しみをあらわす夜にかけての
時間帯がえらばれた。
◇ なぜ芥川龍之介の羅生門は、高校国語の定番になっているのか。
その理由は定かではないが、この羅生門という作品は、
ふつうの作品ではないことはたしかだ。
この作品はふつうの人間では見抜けないような、
この世界の隠れた原理についてとりあつかっている。
高校の国語の先生などは、この作品のテーマは人間の
エゴイズムだ、なんていうかもしれないが、
まあ、それが、普通の平凡な理解の限界でもある。
が、この作品は、そんなレベルでとどまるものではない。
そこに描かれた世界というのは、
ふつうの人間が知ると狂ってしまうこともありうる
異常な世界だ。
そのような世界を見る「目」をもった人間が、
ここ日本においても、その他の国においても、
そう頻繁に誕生するものではないことは、たしかだろう。
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