この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

下手な考え休むに似たり。

みなさん天機です٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

今回は、下手な考え休むに似たり、というテーマで

記事を書いてみたいと思います。

 

 

 

 

天機は将棋をするので、将棋には関心があります。

 

 

平成を代表するスター棋士である羽生善治さんと、

令和を代表するスター棋士である藤井聡太さん。

 

 

その二人の有名棋士が対戦する好カードとなった

王将戦が先日おこなわれまして、

天機もワクワクしながら見守っていました( ´艸`)

 

 

王将戦の1回の対局で、持ち時間は

それぞれ8時間らしいです。

 

 

勝負どころでは1時間以上も長考して、

読みを入れることもあるらしいのですね((((;゚Д゚))))

 

 

プロ棋士だからこそ、

常人では考えもつかないようなところまで、

深い読みがなされているんだろうと思います。

 

 

さて、今回のブログ記事のタイトルは、

下手な考え休むに似たり

なんですけど、じつはこれは、

囲碁や将棋の用語なんですね٩( ๑╹ ꇴ╹)۶

 

 

訓練をかさねてきて、すごく深いところまで読めるプロ棋士とか、

高段者だからこそ、

対局中に長考することも意味のあることなのですが、

凡人とか、将棋がそんなに強くないひとが長考したところで、

まるで休んでいるかのようで、意味のないことだ。

 

 

この、下手な考え休むに似たり、という言葉は、

そのように、

将棋の下手なひとが長考してしまうことを馬鹿にして

表現したものであり、

まあ、簡単にいうと、考えてないでさっさと指せよ、

って言ってるんですね( ´ ▽ ` )ノ

 

 

で、これは囲碁とか将棋で言われる言葉なんですけど、

じつはこの、

考えてばかりいても意味のないことがある、

っていうのは、囲碁とか将棋とかだけじゃなくて、

いろんな場面でも妥当することのように思えるんですよね。

 

 

天機は学生時代、ずいぶんと下手な勉強方法をとっていました。

 

 

その1つが、通信添削のZ会を使った勉強だったのですね。

 

 

思うように成績が上がらず窮していた天機は、高校時代に、

Z会でもやってみようかな、と思って

打開策をそこに求めたんです。

 

 

ところが、Z会の問題って今も昔もそうだろうと思うんですが、

すごく難しいんですよ( ノД`)

 

 

天機はそのとき、問題を解くための基礎知識が

もともと不足していたんですね。

 

 

なのに、Z会の難しい問題を解こうとするので、

ぜんぜん解けなくて、

難しい問題を前にしてうんうんと苦しみながら

考え続ける、ってことをやってしまったんです。

 

 

でも、そんなことをしたところで、

解けるわけはありませんよね。

 

 

問題を解くための知識がないのですから。

 

 

結局、そのときの天機に必要だったのは、

難しい問題を自分の頭で考えて解く訓練、ではなくて、

やさしいテキストを使って基礎知識を頭に

入れることだったんですね。

 

 

つまり、簡単に言ってしまうと、

「考える」よりも、「知っている」ということのほうが

はるかに大切なことだったんですね(;´∀`)

 

 

天機はこのことをなかなか理解することができずに、

知識をさっさと入れることをおろそかにし、

高校時代、浪人時代、大学時代、国家試験受験時代と、

いちいち自分の頭で考えたために、

勉強は遅々としてすすまず、

ぜんぜん成果がでませんでした( ノД`)

 

 

この、知らないことによって不利益をこうむる、というのは、

勉強以外の分野でも

幼少のころから天機にはついてまわりました。

 

 

みんながビックリマンシールを集めているときに

天機は集めていなかったので

その話題には入れず、

家にはテレビゲームがなかったので

友達の家に行ってスーパーマリオをやらせてもらっても

いつも1-1でマリオが死んで、

なかなかやらせてもらえませんでした。

 

 

北斗の拳とかドラゴンボールなどの有名どころの

漫画を知らなかったので、

小中高と、その話題がでてくるたびに

お愛想笑いをするはめになったんですね。

 

 

反面、自分の頭でなんでも1人で考えていたために、

このブログにときどき書いている天機理論のような、

へんな思想を生み出せるようにはなりました(;´∀`)

 

 

でもこの世の中、なんだかんだ言っても、

自分の頭でいちから考えるよりも、

ただ知っていることでずいぶんと目的達成までのプロセスを

ショートカットできることって、多いと思うんですよね。

 

 

昔の中国のえらい人である孔子さんなんかは、

自分で考えてばかりでも、知識を学んでばかりでも

どっちもダメだから

自分で考えるのと学ぶのと、両方ともやりなさい、

なんてことをおっしゃっていました。

 

 

世の中で、

自分は考えてばっかりであんまり物事が進んでいかないなあ、

と思う人は、

考えるのを少しやすんで、

知識を仕入れることをしてみるといいのではないでしょうか。

 

 

反対に、

あんまり考えないで人の知識を学んでばっかりで

ここまでやってきた、という人は、

少し自分の頭で考えてみるのもいいでしょう。

 

 

今回は、そんなお話でした。

 

 

以上、天機でした( ´ ▽ ` )ノ

矛盾は最強?

みなさん天機です٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

今回は、矛盾、のお話をしてみようと思います。

 

 

みなさんは、中学の国語の教科書で、

矛盾

という故事成語についての漢文を学習したことは

ないでしょうか?

 

 

どんなお話だったのか、すこし振り返ってみましょう。

 

 

楚人(そひと)に盾(たて)と矛(ほこ)とをひさぐ者あり、

という文章から始まる、有名な物語です٩( ๑╹ ꇴ╹)۶

 

 

むかしむかし。

 

 

楚の国の人で、

盾と矛とを売っているひとがいました。

 

 

そのひとは、自分の売っている盾をほめて、

「この盾はとても頑丈なので、

 どんな矛でもこの盾を突き通すことなんて

 できやしないよ」

と言いました。

 

 

そのいっぽうで、そのひとは、

自分の売っている矛をほめて、

「この矛はめっちゃ鋭いから、

 どんな盾だって突き通しちゃうよ」

なんてことも言ったんですね。

 

 

すると、その商人の言うことを聞いていた

見物人の1人が、

「じゃあ、お前さん、

 お前さんのその矛で、お前さんのその盾を突いてみたら、

 いったいどうなるんだね?」

と言ったんですね。

 

 

するとその商人は、ぐうの音もでなかったそうです( ´艸`)

 

 

これが、矛盾、という言葉が生まれるもとになった

古代中国の故事らしいのですね。

 

 

 

 

たしかに、

どんな盾でも突き通してしまう矛と、

どんな矛でも突き通せない盾は、

同時には成立することができません。

 

 

となるとやっぱり、

この商人はインチキだった、ということになりそうですよね

(;´∀`)

 

 

でもここで、

なんでこれがインチキだ、矛盾だ、ということになったのか、

そこのところをもう少し詳しく見てみましょう。

 

 

この話がインチキだな、となってしまったのは、

その矛でその盾を突いてみる、

という仮定を見物人がおいたからなんですね。

 

 

このとき、

その矛でもってその盾を全力で突き、

その盾でもってその矛の攻撃を全力で防ごうとするならば、

ふつうは、

その矛をもつ人間と、その盾をもつ人間は

別人である必要があります。

 

 

1人の人間が、

自分の右手に矛をもって、自分の左手に盾をもって、

ちょんちょん、と突いてみたところで、

本当に全力で突いたらどうなるのか、ってことは

よくわかりませんよね。

 

 

そもそも、矛ってけっこう長いものでしょうから、

自分の右手に持った矛で

自分の左手に持った盾を突くというのは、

原理的に不可能かもしれません。

 

 

ということは、

見物人のおいた仮定である、

その矛でもってその盾を突いてみる、ということを

実現するためには、やっぱり基本的には

矛をもつ人間と、盾をもつ人間は

別人である必要があることになります。

 

 

つまり、

このお話で矛盾というものがあらわれたのは、

矛を持つ人間と盾を持つ人間が別人である、

ということが、その原因の1つになっているんですね。

 

 

で、自分は考えたのですが、

もし、この商人の売っている矛と盾に注意書きがあって、

 

この矛と盾は同一人が所有するものとする

 

とか書かれてあったら、

いったい、どうなるんでしょう。。。。?

 

 

なんの変哲もない、矛と盾。

 

 

商人は、なんとかしてその矛と盾をだまして

売り払ってやろうとしている。

 

 

見物人は見物人で、知恵はまわるんだけど、

その矛と盾はなんの変哲もない普通の矛と盾だと

頭から思い込んでいるので、

商人をぎゃふんと言い負かして悦にいっている。

 

 

誰もその矛と盾の、

ほんとうの価値なんか、知りもしない。

 

 

でも、その矛と盾は、

はるかなはるかな昔から、ずっと待っていた。

 

 

自分の真の価値、本当のおそろしさが

わかる人間があらわれることを。

 

 

そしてある日。

 

 

1人の男が、

その矛と盾とを両方とも、買っていった。

 

 

男は右手に、

どんな盾でもつらぬいてしまう矛をたずさえた。

 

 

そして男は左手に、

どんな矛でもつらぬけない盾をかまえた。

 

 

その瞬間、この地上に、

誰にも倒されることのない

最強の存在が誕生した。。。!

 

 

と、このような物語を天機は考えてみたのですが、

いかがでしょうか(;´∀`)

 

 

どんな矛でもつらぬけない盾と、

どんな盾をもつらぬいてしまう矛。

 

 

その2つが別人の所有になることで、

矛盾というのが立ち現れてきます。

 

 

もし、その別人の所有になっ矛と盾が

お互いに衝突することにでもなれば、

存在を許されない2つの矛と盾は、

対消滅してしまうこともあるかもしれませんね。

 

 

ちょうど、数学の背理法で矛盾が生じたときには、

それはありえない

とされてしまうように。

 

 

でも、もしかりにその矛と盾が

同一人の所有になるようなことがあれば、

その2つを2つながら所有した者は

この世界で最強の力を手に入れることになります。

 

 

人間は矛盾というものが嫌いですし、

理をつかって矛盾を論駁したりすることに

喜びをおぼえることもあります。

 

 

けれど、

理によって消滅させられてしまう矛盾も、

あえて消滅させずに矛盾のままとりいれてみれば、

もしかしたら

自分にとんでもない力を授けてくれるかもしれませんね。

 

 

今回は、そんなお話でした。

 

 

以上、天機でした( ´ ▽ ` )ノ

宗教離れの世界のなかで。

みなさん天機です٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

今回は、宗教離れ、というテーマで

すこし書いてみたいと思います。

 

 

以前、こんな記事を読んだことがありました。

 

 

dot.asahi.com

 

 

内容を簡単に説明しますと、

日本人というのは仏教をいちおうは信じている国民だ、

なんて言われることがあるけれど、

基本的には、心底なにかの宗教に没頭しているひとというのは

少ない。

 

結婚式はキリスト教式であげ、クリスマスにはケーキを食べて、

初詣には神社へ行き、お盆にはお坊さんに来てもらう、

といったように、

いろんな宗教にたいして比較的寛容で、

西洋人がキリスト教だけを信じているように

どれかの宗教を心底信じ切っているわけでもない。

 

なので、日本人は何の気なしに

「自分は無宗教です」なんてことを言ってしまうことが

あるのだけれど、

欧米の人を相手にそういうことを言うと、

思わぬ反発や驚き、怒りを招いてしまうことがあるから

要注意だ。

 

 

とまあ、だいたいこんなことが書いてあるんですね。

 

 

自分はこの記事を読んだときに、

なるほど、そんなことがあるのか、

欧米人に対して自分は無宗教だ、と言ってしまうのは

危険なんだな、と思ったのと、

もう1つは、

なんでその欧米の考え方だけが正しいかのように

書いてあるんだろう?

 

欧米人が宗教を信じるのは勝手だけれど

世界にはいろんな考え方をもつ人間がいるのであって、

あまり宗教とかに関心をもたない地域もあるだろう。

 

なのに宗教をもっているべきだ、という

欧米の考え方にほかの地域のひとは合わせないといけないの?

 

それってちょっと傲慢なんじゃないかな、

なんてことを考えたりもしたんですよ(;´∀`)

 

 

ところが最近になって、

事情が根本的に変わる事態が起きてきました。

 

 

下の記事をみてください。

 

 

jbpress.ismedia.jp

 

 

この記事によると、

いまから50年ほど前の1972年ごろには

米国ではキリスト教を信じているひとが90%くらい

いたんですが、

2020年の調査では、その割合は

60%ほどまで低下していた、というんですね。

 

 

そして注目したいのは、

そのキリスト教離れと軌を一にするように、

米国では、自分を無宗教である、と考えるひとの

割合が急増していて、

現在なんと30%ほどの米国人が無宗教らしいんですよ。

 

 

すごく興味深いですよね。

 

 

2つほど、記事を引用してみましたが、

最初の記事では、

無宗教なんていうのは日本の特異な現象であって

海外でそんなこと言ったら笑われるぞ、

なんて書いてあるんです。

 

 

ところが、2つ目の記事を読むと、

実際には海外でもどんどん無宗教の人間が増えているために、

海外のひとは宗教を信じているのだ、

という、最初の記事が前提としていたことが

ガラガラと崩壊してしまっている

ことがわかるんですよね(;´∀`)

 

 

最初の記事を読んでもらえるとわかるのですが、

最初の記事では、

宗教には価値がある、ということを疑いもせずに

論述がすすんでいくんですね。

 

 

 

 

日本人は無宗教だというが、海外では通用しないんだ、

日本人だって初詣行ったり、お盆にお墓に行ったりするだろう、

それだって十分に神道や仏教の範疇だ、

だから自分は仏教徒だと言っておけ、そうすりゃ問題ない、

と、こんな感じの主張を並べるんですよ。

 

 

この最初の記事の主張には、

自分は非常に違和感をおぼえました。

 

 

自分個人のことでいうと、

初詣は家族が行くからついて自分も行きますが、

べつに行かないなら行かなくてもいいかな、

と思っています。

 

数年前から、初詣に行っても

お賽銭は5円しか入れないようになりましたし、

お守りを買うこともなくなりました。

 

 

お墓はありますが、お盆には行きません。

 

暑い時期に行くと、お墓周辺を蜂が飛んでいるので、

基本的には暑くない時期に行きます。

 

行くとしても年に1回ですし、

いずれは墓じまいする可能性もあります。

 

 

これは自分個人のお話なんですが、世界に目を転じてみると、

米国だけじゃなくて、全世界的に

宗教離れというのが加速しているようなんです。

 

 

最初の記事の方は、もしかしたら

そういった状況に危機感をおぼえたので

宗教の価値をいまいちど問い直そうとされたのかもしれません。

 

 

けれど自分は、

既成の宗教にはかならず価値がある、

という考えには、どうも賛成できないんですよね。

 

 

宗教を信じているひとは、

もちろんその宗教を大切なものだと思って信仰しています。

 

その信仰は大切にされるべきでしょう。

 

 

でもいっぽうで、この世界には

べつに宗教や信仰といったものを持たなくても

自分は生きていくんだ、というひともいます。

 

その考え方もまた、大切にされるべきだと

自分は思うんですね。

 

 

なのでこれからの世界では、

宗教を信じるひとと、宗教や信仰を特段持たないひと、

その双方の生き方がどちらも尊重されるような、

そんな世の中になっていけばいいなあ、

なんて、そんなふうに思っています。

 

 

以上、天機でした( ´ ▽ ` )ノ