この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

皇太子ご一家と、秋篠宮家。

こんにちわ。天機です。

(約1400字)

 

 

 

天機はあまり、テレビをみることがなくて、

お昼のワイドショーとかもまったく見ないのですが、

見る人は見ますよね。

 

 

 

お昼のワイドショーとかでは、

芸能ネタをやったり、ときには、

皇室に関する話題を取り扱ったりすることもあるかと思います。

 

 

 

きょうは、皇室に関する、

天機の下世話な論評になります。

 

 

 

皇室には、皇太子ご一家と、秋篠宮家があります。

 

天機は、時代の大きな流れ、時代の変化、

といったものをつかみたいと、いつも思っているのですが、

この、皇室における2つのご家庭をみていると、

やはり、時代の変化というものがあるように思えるのです。

 

 

 

2003年ごろから、今年、2018年ごろにいたるまでの、

おおよそ15年間、

世の中的にも、ある種の特徴をもった1つの時代がありました。

 

 

 

そして、この、2003年ごろから2018年ごろに

至るまでの15年間というのは、

ごくごくおおざっぱに言って、

 

「皇太子ご一家下げ、秋篠宮家上げ」

 

という時代だったように思うのです。

 

この時代には、皇太子ご一家があまり運気がよくなくて、

秋篠宮家は運気がよかったような印象をうけるのですね。

 

 

 

2003年ごろを境として、皇太子ご一家では、

雅子様が、適応障害という病気にかかられて、

一般に姿を見せられることがなくなりました。

 

そのために、皇太子ご一家が、ある種のバッシングにさらされることも、

あったわけなのです。

 

 

 

同時期の秋篠宮家は、比較的幸運でした。

 

2006年には、秋篠宮家に、待望の男系男児となる悠仁様が誕生し、

国民の祝福を受けることにもなりました。

 

 

 

以上のことから、総じて言えば、

2003年ごろから2018年ごろにかけてのおおよそ15年間は、

 

「皇太子ご一家下げ、秋篠宮家上げ」

 

という流れだったように思います。

 

 

 

ところが、この流れは、

2018年前後になって、変化を見せ始めます。

 

 

 

2016年、天皇陛下が、突然の生前退位の宣言をなさいました。

 

このことによって、

皇太子さまは、近いうちに、確実に次期天皇になられることが確定し、

皇太子さま、雅子様は、つぎの天皇皇后両陛下になられることになり、

他方で、

秋篠宮家がそのようになる目は消えました。

 

このことと、だいたい時を同じくするようにして、

雅子様の病状が急速にご快復に向かわれるようになり、

メディアへの対応など、

公の場に雅子様がお見えになることが増えてきたのです。

 

 

 

他方で、秋篠宮家においては、

眞子様の婚姻問題が突然浮上することとなり、

婚姻だから慶事であろうと、ふつうは思われるところなのですが、

お相手の人柄なども関連して、

国民の間に祝福のムードが広がっているかというと、

かならずしも、そうとは言えない状況にもなっています。

 

 

 

これらの事柄を総合すると、

2018年前後になってきて、時代は、

 

「皇太子ご一家上げ、秋篠宮家下げ」

 

の方向に、すこしシフトしてきたかな、というように、天機は思うのです。

 

 

 

上で述べたようなことが真実なのかどうかは、全然わかりませんけれども、

なんとなく、

皇太子ご一家の運勢と、秋篠宮家の運勢は、

たがいにシーソーのような関係になっているような気がするのです。

 

 

 

そして、

2003年ごろから2018年ごろまでの時代には、

そのシーソーはある方向に傾いていましたが、

2018年ごろの最近になって、

そのシーソーが、傾きをすこし変えてきたかな、というように思うのです。

牛と人間の友情が成立しないとしたら。

こんにちわ。天機です。

(約1700字)

 

 

 

きょうは、動物と人間の友情について、考えてみたいと思います。

 

 

 

はてなブログを読んでいると、ブロガーさんの中には、

生き物を飼っていらっしゃるかたも、ちらほら見かけます。

 

代表的な生き物で言えば、犬さんとか、猫さんとかでしょうか。

 

飼い主さんたちは、精一杯の愛情をそそいで、

それらの犬さんや猫さんとの友情を築いているように思います。

 

 

 

犬さんや猫さんは、通常、「愛玩動物」とされています。

人間が、ペットとして飼育することが、

一般的に想定されているような生き物だ、ということだろうと思います。

 

 

 

ところが、

牛さんや豚さん、鶏さんは、

一般的には、愛玩動物であるとの評価を受けてはいないように思います。

 

牛さんや豚さん、鶏さんは、

一般的には、食用動物であるとの評価を受けているように思うのです。

 

 

 

この、

犬さんや猫さんに対する人間の評価や取扱いと、

牛さんや豚さん、鶏さんに対する人間の評価や取扱いに、

このような相違が生まれてくる原因は、

いったい、なんなのでしょうか?

 

 

 

天機が思うに、それには、

人間の食生活の歴史が関係しているのではないだろうか、と思うのです。

 

 

 

人間の歴史が、文書によって記録されるようになってから、

かれこれ、数千年がたちます。

 

人類、と言う種が誕生してからだと、

アウストラロピテクスでしたっけ?

100万年くらいはたっているかもしれません。

 

 

 

人間も、その他の多くの生き物とおなじように、

生きていくためには、他の生き物を食べなければいけません。

 

 

 

人類は、おそらく、

その古くからの歴史において、

どんな生き物なら食べられて、どんな生き物なら食べられないか、

また、

どんな生き物なら食べて(人間にとって)美味しくて、

どんな生き物なら食べて(人間にとって)美味しくはないのか、

いろいろと試行錯誤や実験をするなかで、

学習していったんだと思うのです。

 

 

 

そして、幸か不幸か、

犬さんや猫さんは、人間にとっては、食べてもあまり美味しくはなく、

他方で、

牛さんや豚さん、鶏さんは、食べると、

比較的美味しいぞ、ということが、

人間にとって、だんだんとわかってきたのです。

 

 

 

それゆえに、

犬さんや猫さんは、食用とされることからは、

だいたいにおいてはまぬかれ、

他方で、牛さんや豚さん、鶏さんは、

多くは人間の食用となるように、運命づけられてしまったのです。

 

 

 

つまり、ごくごく簡単に言うと、

牛さんや豚さん、鶏さんの「不幸」を決定づけたのはなにか?

というと、それは、

 

自分自身の肉体が人間にとっては美味であったということ

 

に、ほかなりません。

 

 

 

だれかを友人として所有したいという願いと、

だれかを、なにものかを、食べてしまいたいという願いは、

相いれない願いです。

 

 

 

友人としてだれかを所有したいという願いは、

その友人は、自分とは異なる他者として生存し続ける、

ということが前提になっています。

 

 

 

他方で、だれかを、なにものかを、食べてしまいたいという願いは、

そのだれかやなにものかの生存を、

この世からは消し去ってしまうということが前提になっているのです。

 

 

 

もしかしたら、牛さんとの友情をはぐくむことも、

あるいは可能かもしれません。

 

この広い地球上には、

食肉として出荷することを前提とはせずに、

純粋に牛さんとの友情をはぐくむために、

牛さんを飼育しているひとだって、それはいるでしょう。

 

 

 

でも、牛さんにとっては不幸なことに、牛さんは、

人間にとっては非常に美味である、という、肉体を、

自己の一部として持っています。

 

そのために、人間の側としては、

牛さんとの友情をぶちこわしにしてでも牛さんの肉体を味わいたい、

という誘惑にたえずとらわれることにもなり、

他方で、牛さんの側としては、

いまはたとえ人間の側との友情が成立していたとしても、

いつ、人間の側の食欲が表面にあらわれてきて、

自己の生存がおびやかされるかわからないという、

慢性的な恐慌状態におちいることにもなるわけです。

 

 

 

牛さんの肉体が非常に美味である、ということが、

牛さんと人間との間で純粋な友情が成立するうえでの、

おおきなネックになっているのです。

心と重力。

こんにちわ。天機です。

(約2700字)

 

 

 

きょうは、この世界の不思議、にかんするお話です。

 

天機は、よく荒唐無稽な妄想をするのですが、

きょうの記事も、そんな感じのおはなしですね。

 

 

 

さて、この世には、「重力」というものがあります。

 

万有引力の法則を発見したのは、ニュートンでしたっけ。

この世の中の、ありとあらゆるものは、みな、引力をもっている、

とかいうことだったと思います。

 

 

 

ですから、

太陽は地球に引力をおよぼし、そのために地球は、

太陽の周りを周回運動しています。

 

地球は月に引力をおよぼし、そのために月は、

地球の周りを周回運動しています。

 

地球の持つ重力は、地球の上に乗っかっているありとあらゆるものに影響して、

それゆえに、みんな、地球にくっついているし、

人間はみな、体重というものを持っているし、

高いところから物を落とせば下に落ちていく、というわけです。

 

 

 

ここで、万有引力、というからには、

田中さんも、佐藤さんも、渡辺さんも、みな、

それなりに引力を持っているはずなのですが、

実際には、

田中さんが佐藤さんの引力に引っ張られてぴゅーっと飛んでいくとか、

佐藤さんが渡辺さんの引力にとらえられて身動きできない、

なんてことは、起こっていないわけです。

 

 

 

というのも、自分の理解では、

地球の持つ圧倒的な強さ、大きさの重力に比べて、

佐藤さんや田中さんのもつ引力なんて、

あまりにも小さすぎるので、実際は、

無視してよいようなものだからなんですね。

 

 

 

自分は、この物理的な重力を、

人間の心と関連付けて考えてみました。

 

 

 

いまここで、かりに、佐藤さんという人が、

「自分はバナナがとても好きなんだ。バナナは美味しいし、健康にもいいよ。

 みんな、バナナを食べようよ!」

というような見解を持っていたとしましょう。

 

 

 

この佐藤さんが、さて、

他の多くの人に、自分と同じようにバナナを好きになってもらい、

バナナを食べる気になってもらうためには、どうしたらいいでしょうか。

 

 

 

ふつうは、たとえば、

いろんな人に話しかけて、バナナの素晴らしさを伝えるとか、

インターネット上でサイトを立ち上げて、バナナをアピールするとか、

ブログやツイッターでバナナをアピールするとか、

バナナの素晴らしさについて新聞に意見広告をだすとか、

はたまた、政治家になって、

国民がバナナの消費をふやすように政策をかえていくとか、

まあ、そういったあたりのことでしょうかね。

 

 

 

佐藤さんはみんなにバナナを食べてほしいのですが、

それを実現するためには、

上に挙げたような手段を、通常はとらなくてはいけないのです。

 

 

 

それはどうしてかというと、ふつうは、

佐藤さんが、自分はバナナが好きだ、バナナの良さよ、世界に広まれ!

と心の中でいくら念じたところで、

それだけでは、ほかのみんなの心は、

バナナを食べよう、っていうふうには、ならないからなんですね。

 

 

 

そんなの当たり前やん!なに、当然のこと言ってんだよ!

なんて、お叱りの言葉を受けそうです。

 

 

 

たしかに、これは当たり前のことです。

誰かが心の中でなにかを思い、なにかを願ったとしても、

通常は、そのことだけでは、

他者の気持ちに影響をあたえることは、できません。

 

他者の気持ちをかえていくためには、

自分の意見を表明し、その表明された意見にふれた他者が、

自分の意見をかえていく、というプロセスをふまなければいけないのです。

 

 

 

ですが、ここで天機は、ふと、重力のことを考えてみました。

 

太陽や地球といった、とてつもない重力をもつものは、

その重力で、他の物体に影響をあたえることができます。

 

ところが、個々の人間のような存在は、重力をもっているとはいっても、

その重力があまりにも小さすぎるため、

ほかの物体をひきつけたりする現象は、通常は、認識されないのです。

 

 

 

人間の心も、通常は認識されないけれど、じつは、

重力のようなものを、秘めているのではないだろうか。

 

個々の人間の心がもつ重力は、認識できないほど小さいので、

通常は、

だれかがなにかを思ったり、なにかを願ったりするだけでは、

ほかのひとの心に「直接」影響することはない。

 

 

 

でもここに、かりに、

すごい強力な心の重力を、何らかの理由で持つにいたった、

特殊な人間がもしいたとしたら、

たとえば、

そのひとが「バナナは素晴らしいなあ。バナナが好きだ。みんな、

バナナを食べよう」と、

 

心の中で思っただけで

 

他の多くの人が、どういうわけか、

だんだんとバナナが好きになりだす、といったような、

超常現象が起きることがあるのではないだろうか。

 

 

 

天機は、そんなことを考えていました。

 

 

 

中国の古典に、「老子」という作品があります。

 

老子第49章には、

「聖人無常心、以百姓心為心。」

とあります。

 

 

 

この文章を、書き下し文にすると、

「聖人には常の心なく、百姓(ひゃくせい)の心をもって心となす」

となります。

 

 

 

一般的には、この老子の文章は、

「聖人というものには、一定不変の決まりきった心というものがなく、

 常に民衆の気持ちに寄り添っているのだ」

と解釈されることが多いです。

 

 

 

でも、天機は変わり者です。

 

変わり者の天機は、この老子の文章について、以下のように解釈しました。

 

 

 

「聖人は、われわれが一般的に考えるような、

 通常の意味での普通の心というものを持たない。

 聖人がなにかを思い、なにかを願ったなら、

 それがそのまま直接、ひとびとの心に影響して、

 そのひとびとの心を変えさせる。

 聖人とは、そういう超能力、特殊能力をもった存在である」

 

というように解釈したのです。

 

 

 

老子において、「聖人」とは、

出自が高貴であるひと、というわけではありません。

 

人格的に優れていて、とても優しいひと、というわけでもありません。

 

書物を多く読んでいて、知識をたくさん貯めこんでいるという意味において

賢いひと、というわけでもないのです。

 

 

 

老子における、「聖人」の資格は明確です。

 

この世界の森羅万象の背後に流れていて、

通常人の認識では到底知りえないような、隠れた原理について洞察しているために、

脳みそが通常人とは異なるようになった存在、

それが老子でいうところの、「聖人」です。

 

単に優しいとか、普通人の理解がおよぶくらいの賢さがある、というだけでは、

「聖人」とするには、足りません。

 

聖人か聖人でないか、のちがいは、ただ1つ、脳みその違いなのです。

 

 

 

天機が思うに、

そのように脳みそが通常人のそれと異なるにいたった聖人は、

その心が「重力」をもつにいたったのではないでしょうか。

 

それゆえ、

老子がわざわざ第49章でおそらくはのべているように、

聖人の心は、民衆の心に、直接的な影響力をもつようになったのではないか。

 

 

 

天機は、そのようにも思います。