この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

宇宙銀行のしくみとは?-預け入れと貸し付け

みなさんこんにちわ。天機です。

 

 

 

きょうは、宇宙銀行について書いてみようと思います。

(約3600字)

 

 

 

宇宙銀行については、以前にもいくつか記事をアップしたことがあります。

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

 

 

今回のお話は、若干、スピリチュアルなおはなしになるかと思います。

 

 

 

世の中では、いいことをしたり、誰かのためになることをしてあげたりしたら、

やがてそれは、自分に良い影響となって還ってくるんだよ、

なんてことがいわれたりします。

 

たとえば、

「情けは人のためならず」とか「陰徳陽報」とかいった言葉は、

そのことをあらわした言葉である、と、一般的には考えられています。

 

 

 

宇宙銀行とか、宇宙預金とかいった言葉は、

そういったしくみを、言い換えた言葉なのです。

 

 

 

この世の中には、目には見えない宇宙銀行というものがあって、

自分が誰かのためになにかいいことをしてあげたりすると、

それは、宇宙預金となって、自分の口座に蓄積されていく。

 

そしてやがては、自分がその宇宙預金を引き出すときになって、

自分がこんどは幸福に恵まれることになる。

 

簡単に言ってしまうと、そういうしくみなのです。

 

 

 

この、宇宙預金とか、宇宙銀行とかいう考え方は、

最近では、インターネット上でも、ちらほら見かけるようになってきています。

 

この考え方を、本にあらわしたひととしては、

小林正観といったひとがいるようです。

 

 

 

この宇宙銀行や、宇宙預金について、

今回も、自分なりに考えてみます。

 

 

 

これまで、宇宙銀行や宇宙預金について、とりあつかっている

サイトや本などを見ていると、

その多くは、

「1人の人間について」とりあつかっているように思うのです。

 

つまり、

宇宙銀行に宇宙預金を預け入れる「自分という1人の人間」、

そして、やがてはその宇宙預金を引き出すことになる「自分という1人の人間」、

といった具合です。

 

視点が、1人の人間の、宇宙預金の出し入れ、

というところにしぼられているんですね。

 

 

 

でも、考えてもみてください。

 

みずほ銀行だの、三菱UFJ銀行だの、三井住友銀行だの、りそな銀行だの、

といった、

実際にお金をやりとりしている、現実の銀行は、

どういったしくみで動いているでしょうか。

 

 

 

それらの銀行は、たった1人の顧客を相手にしているわけでは、ないですよね?

 

たくさんの顧客から預金をあつめて、

それをたくさんの顧客に貸し付けて、基本的には、

それらの間の利ザヤを抜くことで、商売しているはずなのです。

 

 

 

であるならば、宇宙銀行や宇宙預金について考える際にも、

「自分という1人の人間に相対する宇宙銀行」

だけを考えるのではなくて、

「多くの人間のあいだで活動するところの宇宙銀行」

というふうに、

「宇宙銀行システム」

のようなものについて考える必要がある、と思うんですね。

 

 

 

では、その、「宇宙銀行システム」は、

いったい、どのようになっているのでしょうか。

 

 

 

たった1人の人間と、宇宙銀行との関係を考えているだけなら、

ことは非常に簡単で、シンプルです。

 

自分が善行をして、宇宙銀行に宇宙預金を預け入れる。

 

その宇宙預金に利子がつく。

 

やがて、その宇宙預金が自分に払い戻されて、自分に幸福がおとずれる。

 

以上で終わりです。このプロセスで、いちおうの清算となります。

 

世の中の、宇宙預金について書かれた、

インターネット上のサイトとか、本とかも、基本的にはこの、

「自分という1人の人間と、宇宙銀行とのやりとり」

についてしか、書かれてはいません。

 

 

 

でも、自分は、この宇宙銀行というのは、

多数の人間のあいだで運のやりとりをする、いわば、

「広域的宇宙銀行システム」のようなものを構築している可能性がある、

と思うんです。

 

するとどうなるか。

 

 

 

宇宙銀行システムは、

顧客から預かった宇宙預金を、その顧客当人に、満期が来たら弁済するだけでなく、

べつの顧客に、貸し付けることがあるのです。

 

つまり、

あるひとが善行をおこなって、運を貯めたとします。

 

ふつうは、その運は、そのひとが将来、自分の幸福というかたちで

受け取ることになる、と思うでしょうが、

広域的宇宙銀行システムにおいては、その運は、

だれかほかのひとのところへ、ほかのひとの幸福となって、

貸し出されてしまうことがあるのです。

 

 

 

ここで、宇宙預金や運についての、預け入れや貸し出しに関して整理すると、

 

預け入れ→将来自分が受け取れる運はたまるけれども、今現在は苦しいことが起こる。

払い戻し→自分がためた運を、現在の幸福というかたちで受け取る。運は目減りする。

貸し出し→誰かほかのひとがためた運を、自分の現在の幸福というかたちで受け取る。

     運に関して、負債を負うことになる。

 

 

というふうになるわけです。

 

自分がいま現在苦しい思いをしているのならば、

将来、幸福と交換できる運はたまっているのですが、いま現在の幸福はない。

 

自分がいま現在ハッピーであるならば、

いま現在の幸福はあるのですが、将来の幸福に変換できる運は目減りしてゆく。

 

だけでなく、

自分がいま現在、苦しい思いをして運をためていても、その運は、じつは、

だれかほかのひとの現在の幸福として、

すでに変換されてしまっている可能性がある。

 

これが、広域的宇宙銀行システムの意味するところなのです。

 

 

 

ここ日本では、しばしば、「勤倹貯蓄」が美徳とされることがあります。

 

コメディアンの萩本欽一さんは、「ダメなときほど運はたまる」という本を

上梓されていますが、そのなかでは、

運を貯めることの素晴らしさばかりが言及されていますが、

基本的には、貯めた運を使えば自分がハッピーになれる、ということに関しては、

あまり言及がありません。

 

まるで、貯めること=美徳、使うこと=悪徳、ででもあるかのようです。

 

 

 

戦後の日本の高度成長をささえた一つの要因にも、

日本人の、貯蓄を好む国民性があったともいわれています。

 

日本人の貯めたお金が、銀行を通じて企業に貸し出され、

それが設備投資などの費用に回った、というわけですね。

 

 

 

でも、このことにも注意が必要です。

 

 

 

たとえば、日本はアメリカの国債を非常に多く購入しています。

日本は債権を持ち、アメリカは負債を負っているわけです。

 

しかし、日本が購入している米国債は、

償還期限がきても毎回更新されるばかりで、

いっこうに償還される気配はありません。

 

 

 

日本はたしかにアメリカに対して債権を持っているのですが、

その米国債は、日本は、事実上、売却することができなくなっているのです。

 

ということは、どういうことかというと、

日本は米国にお金を貸し付けているのですが、

そのお金は、アメリカに取り上げられたようなもので、

自分の自由にはできない、ということなのです。

 

 

 

広域的宇宙銀行システムについても、

このような観点からの注意と警戒が必要です。

 

 

 

勤倹貯蓄は素晴らしいことだ、苦労することはいいことだ、

という価値観に支配されていると、

宇宙銀行や宇宙預金についても、

いま苦労しているんだから、宇宙預金が貯まって、

将来、きっといいことがあるんだ、と思いがちです。

 

 

 

でも、それはちがうと思います。

 

自分が貯めた宇宙預金は、だれか他の人間の幸福として、

貸し出されてしまっている可能性があるのです。

 

そのことが、世の中においてどういう現象になってあらわれるかというと、

苦労ばっかりしていて全然報われない人がいる一方で、

やたら幸福に恵まれてハッピーな人がいる、

という現象になってあらわれることになるのです。

 

 

 

世の中の、幸福に恵まれたひとをみると、ふつうは、

あのひとは努力したから、とか、あのひとは人のためになることをしたから、

とかいった感想をもつことがあると思います。

 

逆に、不運に見舞われているひとをみると、

それはやっぱり本人に原因があるんじゃないか、とか、

ひとを傷つけるようなことをしたからだ、とかいった感想をもつことも

あると思うんです。

 

 

 

でも、もしかしたら、そういった評価は、

現実を正しくとらえては、いないのかもしれない。

 

あるひとが幸福に恵まれているのは、

ほかのひとが貯めた運の貸し出しを受けているからかもしれず、

また、あるひとが不運に見舞われているのは、

自分が貯めた運を、自分で使えずに、

ほかのひとに貸し出されてしまっているからかもしれない。

 

天機は、そう思うのです。

 

 

 

だからこそ大切になってくるのは、

この広域的宇宙銀行システムにおいて、

宇宙預金をすること、預け入れをすることだけが素晴らしいのだ、

と盲目的に信じ込むこと、ではなくて、

自分がためた運が、ほかのひとに意図せずに貸し出されそうになっている場合には、

それをきっぱりと拒絶し、

預け入れをする側から、貸し付けや払い戻しを受ける側へと、

自分の立ち位置を変更することだろうと、思うのです。

 

ソファーで、はかどる。

こんにちわ。天機です。

(約1100字)

 

 

 

最近、ニトリでソファーを買いました。

買ったのは、フィルン2とかいうやつだったと思います。

3万円ほどでした。

 

 

 

これまで自分は、

ソファーというのは、気持ちよさそうだけれど場所をとるなあ、

とか、

お値段も高いよなあ、

とか考えて、買うのに二の足を踏んでいました。

 

自分がふだん、机に向かう時は、学習椅子にすわっています。

が、それはすこしかたいので、

しかたがない、お安い座椅子でも買おうか、なんて、

いつもは思っていました。

 

 

 

ところが最近、なんの気の迷いか、

ソファーを買ってみよう、と思い立ったのです。

 

ひとつには、

ふだん購読しているはてなブログに、ねこのおしごと、

というブログがあるのですが、

そこの猫月さんというかたが、ソファーを買われた、

という記事を書かれたことがあって、

それに触発されました。

 

もうひとつは、

実際にニトリの店舗に行って、座ってみて、

とても気持ちがよかったのと、

お値段もそれほどには高くないな、

と思ったからでした。

 

 

 

実際に家にソファーがとどいて、もう1週間ほど腰かけているのですが、

素晴らしく快適です。

 

ニトリの宣伝になるとあれなので、ニトリのソファーだから素晴らしい、

とは言いませんが、

たぶん、ソファーというものが、一般的に、多かれ少なかれ持っている

快適さなのだろうと思います。

 

 

 

このソファーに座っていると、読書がはかどります。

 

大学受験のときなんかは、浪人したりすると、ふつうは、

予備校にお金を払って通うと思います。

浪人生のコースだと、年間70万円くらいはするでしょうか。

 

 

 

でも、このソファーが届いて思います。

 

自分がもし、浪人時代に戻れるなら、

予備校や通信添削にお金を払うのではなくて、

このソファーを買うのにお金を払って、

このソファーに座って、自分で参考書を読んで勉強したことでしょう。

 

そうすれば、きっと、勉強がすごくはかどったと思います。

それくらい、このソファーは快適です。

 

 

 

ニトリは、とても人気のあるブランドです。

安いものが多いので、品質に疑問をもたれる向きもありますが、

これまで30年間ほど、増収増益をつづけています。

 

もっとも、ソファーに関しても、

ニトリのソファーは腰痛になるとか、中からキクイムシがでてくるとか、

ネットでは、そういった評価を目にします。

 

そういった評価を目にすると、たしかに、多少は心配になります。

もしそうなったら、5年保証で言ってみるか、

おとなしく捨てることになるでしょう。

 

いつまで快適に座れるかはわかりませんが、

いまのところは、快適です。

 

 

 

たまたまニトリのソファーを自分が買ったというだけであって、

メーカーは、別にどこでもいいと思います。

 

ソファーというのは、読書がはかどる可能性をもっています。

3万円出してよかったと思いました。

 

 

陰徳に陽報が返ってくるのは、いつなのか。

こんにちわ。天機です。

11日ぶりの更新になります。

(約2900字)

 

 

 

さて、今回は、「陰徳と陽報」について、

自分の考えたことを書いてみたいと思います。

 

 

 

情けは人のためならず、という言葉を聞いたりすることがあります。

 

ひとに親切にしてあげたり、なにか、人のためになることをやってあげたりすると、

それがまわりまわって、結局は自分に、良い影響となって返ってくる、

といった意味で使われることばですね。

 

 

 

このことを、仏教かなにかでは、

「陰徳陽報」といった言葉であらわすそうです。

 

「陰徳」というのが、

人に知られないで、陰ながら他人のために良いことをしてあげること、

「陽報」というのが、

その、自分がかつてしてあげた良いことが、

まわりまわって、自分に良い影響となって返ってくる、ということです。

 

 

 

また、こんなことが言われたりもします。

 

コメディアンの欽ちゃんが、その著書の中で言っていたことなのですが、

つらいことや、いやなことがある時というのは、

言わば、「運を貯めている」ときなのだ、と。

 

そして、その貯めておいた運を、将来、自分が使う時に、

ハッピーなことがおこるのだ、と。

 

だいたい、そんなことを言っていたような気がします。

 

 

 

自分が考えるに、人間や、世の中のことに関しては、

対(つい)や、セットで考えることができるものがあると思うんですよね。

 

うえの、陰徳陽報という例に関していうならば、

 

① 誰かほかの人のためになるような、良いことをやってあげたり、

  あるいは、自分がつらい目やいやな目に遭って、運を貯めている

 

ということと、

 

② そのことがまわりまわって、自分に良い影響となって返ってくる、

  あるいは、貯めておいた運を、今度は自分が使う番がまわってきて、  

  それでハッピーがやってくる

 

ということがあって、

①と②は、たがいにセットになっている。対になっている。

 

そして、はじめにあった①に対して、②が発生することで、

それで、一応の「清算」となる。

 

世の中のしくみというのは、1つには、そんなふうになっているのではないかな、

と、天機は考えたのですね。

 

 

 

では、その清算が発生する「時期」は、いったい、どうなっているのだろう。

陰徳があったとして、それに、陽報が返ってくるのは、

いったい、いつのことになるのだろう。

 

天機は、そんな、「時期」や「スパン」のことが、気になりました。

 

 

 

それで、これまでのいろいろな事例を見ていく中で、

天機なりに考えてみたのですが、

この「時期」については、大きく分けて、

2通りのタイプがあるように思うのです。

 

 

 

1つ目のタイプは、

 

Ⅰ 陰徳に対する陽報が、「世代を超えて」実現されるもの。

  たとえば、あるひとが陰徳を為したときに、それに対する陽報が、

  そのひとの来世で返ってきたり、あるいは、

  そのひとの子孫が、その陽報の果実にあずかったりする、というタイプ。

 

 

 

そして、2つ目のタイプは、

 

Ⅱ 陰徳に対する陽報が、同一人物における、その一生涯のうちで実現されるもの。

  たとえば、前半生において陰徳を為したひとが、

  後半生において、自分がかつて為した陰徳に対する、陽報の果実を受ける、

  というタイプ。

 

このような、2つのタイプがあるように、天機は思ったのですね。

 

 

 

Ⅰのタイプについて考えてみましょう。

 

 

 

このタイプは、たとえば、仏教でいうならば、

浄土真宗などの、来世での極楽往生を願う思想と親和的です。

 

現世においては、ひたすらに功徳を積んで、

その報いは、自分の来世で受け取ろう、というものですね。

 

 

 

また、陰徳と陽報とが、「世代を超えて」実現されるⅠのタイプには、

陽報を自分の子孫が受け取る、という類型が、たしかに存在します。

 

 

 

たとえば、自己啓発本のロングセラー「道は開ける」をあらわした、

アメリカの著名な作家であるデールカーネギーは、

その両親が敬虔なキリスト教徒で、生前、貧しい人をとても助けた

ひとでした。

 

男子ゴルフ界のスーパースターだった、タイガーウッズは、

たしか、お父さんかお母さんが、熱心な仏教徒でした。

 

報徳仕法」で有名な二宮金次郎は、家は貧しかったのですが、

その両親は生前、貧しい人をよく助けていました。

 

「最後の相場師」といわれて、住友金属鉱山の相場では200億円の

巨利を得たとされる是川銀蔵は、

まずしい漁村の出身でしたが、

その両親は生前、やはり貧しい人たちをとても助けていたのです。

 

 

 

つまり、両親が、貧しい人たちをとても助ける、といった「徳」を積んでいて、

その「徳」が、その両親の存命中には消費しきれずに残った場合、

その恩恵は、その子孫にまで持ち越されることになって、

その結果、その子孫が成功したり、有名になったりすることがある、

というように思うんですよね。

 

 

 

では次に、Ⅱのタイプについて考えてみましょう。

 

 

 

このタイプは、仏教でいうならば、

観音経などの、現世利益を願う信仰と親和的です。

 

観音に帰依することによって、

自分が現在生きているこの現世の中で、その報いを受け取りたい、

というものですね。

 

 

 

また、陰徳と陽報が、同一人物における、

たとえば、前半生と後半生のあいだでバランスされるとする

Ⅱのタイプを体現した人物として思いつくのは、

徳川家康です。

 

 

 

家康は、若いころは人質に取られたり、

また、長じてからも、秀吉のもとで忍従を強いられたりと、

前半生は不運と苦労の連続でした。

 

また、そのなかで、「あの律義者の家康が」と言われるほど、

他人に対しては義理を欠かないで、信頼を集めていったといいます。

 

 

 

ところが家康は、後半生において豹変します。

律儀だった前半生とはうってかわって狡猾になり、

悪謀のかぎりを尽くして豊臣家を追い詰めて、

やがては覇権をにぎるのです。

 

 

 

この家康の生き方をみていると、

前半生においてひたすら忍従の生活をおくるなかで、しっかりと運を蓄積し、

後半生において、それまで貯めこんだ膨大な運を、

一挙に使って成功したのかな、

なんて気が、天機はするんですね。

 

 

 

陰徳と陽報が、世代を超えて清算されるⅠのタイプと、

同一人物の一生涯のなかで清算されるⅡのタイプ。

 

 

 

「家」や「家系」といったものが、だんだんと隆盛に向かうことを目指すのなら、

Ⅰのタイプを目標にしたほうがよさそうです。

 

 

 

が、天機なんかは、

自分が前半生に蓄積した運は、自分自身が後半生においてその果実を味わいたい、

と考える人間なので、

どちらかというと、Ⅱのタイプにあこがれますね。

 

 

 

そして、前半生において、苦労をし、嫌な目にも遭い、

運を蓄積してきたひとが、

後半生において、それまで蓄積した運の果実を味わいたいのなら、

後半生にさしかかるときに、家康のように、

生き方を激変させる必要があると思うのです。

 

つまり、

「これからは、運を貯める生き方をするのではなく、

 貯めた運を使う生き方をするのだ」

ということを、

この世界に対して、明確に意思表示する必要があると、天機は思うのですね。

 

そのあたりのことは、こちらの記事でも書きました↓

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

きょうは、このへんで。