この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

新幹線車内での傷害事件の速報に思う。

こんばんわ。天機です。

(この記事 約600字)

 

 

 

ショッキングなニュースが飛び込んできました。

 

headlines.yahoo.co.jp

 

関東地方を走行中の東海道新幹線のぞみ車内で、男が複数の乗客に切り付け、

負傷者がでているとの速報。

 

 

 

記事では、男は、小田原駅にて緊急停車した際に、

かけつけた警察官によって身柄を確保された、と事もなげに伝えていますが、

これは、けっこう大変だと思います。

 

 

 

というのも、

「男が刃物のようなものを持って乗客に切り付けた」

という時点と、

「警察官が身柄を確保した」

という時点の間には、

 

 

が存在するからです。

 

 

 

常識的に考えてそうでしょう。

 

同じ車両内に警察官がもともと乗り込んでいたならば話は別ですが、

そうでなければ、

男が乗客に切り付けた時点と、警察官が駆けつけて身柄を確保した時点の間には、

間があるはずだからです。

 

 

 

そのあいだ、

いったい、事態はどうなっていたのでしょう…?

 

 

 

暴れる男はそのままに、乗客は逃げ回っていて、

被害はどんどん、拡大するままだったのでしょうか?

 

 

 

あるいは、もしかりに、

警察官が到着するよりもまえに、

乗客によってこの男が制圧されていたのだとしたら、

その乗客たちは、おそらく、

素手で刃物を持った男に立ち向かっていった、

極めて勇気ある、称賛されるべき行動をとったことになります。

 

 

 

この、

男が乗客に傷害を負わせた時点と、警察官が駆けつけて男を確保した時点、

両時点の

「あいだ」

に何が起こっていたのか?

ということについての、詳しい続報が待たれます。

目黒虐待死の事件について思うこと。

こんにちわ。天機です。

(この記事 約1500字)

 

 

 

東京の目黒で、5歳の女の子が、両親から虐待されたあげく、

死んでしまうという事件がありました。

 

女の子のご冥福をお祈りします。

 

 

 

報道で伝えられているところでは、その女の子は、

両親に向けて、

「ゆるして」と紙につづっていたそうです。

 

自分の親に向けて許しを乞わなければならない、

その女の子のおかれた状況を考えると、

悲しくて、泣けてきます。

 

と同時に、両親への怒りがわいてきます。

 

 

 

その女の子は、その母親の連れ子で、

その女の子とその父親には、血のつながりはありませんでした。

 

母親が再婚して、その連れ子がいる場合に、

新しい父親が、自分とは血のつながりがなくて、

たぶん、可愛いと思えないために、虐待して死なせてしまう、

という事件があとを絶たなくて、

やるせない思いでいっぱいになります。

 

 

 

母親が継母である、という場合にも、子供にとっては、

冷たく、つらい環境に置かれることがままあるでしょうが、

父親がその子供と血のつながりがない、という場合には、

容易に、凄惨な暴力につながりやすいような気もするのです。

 

今回の事件でも、

子供を虐待して死なせてしまったことについては、

両親双方に重い責任があるでしょう。

 

が、伝えられているように、

父親が主として暴力をふるい、母親がそれを見て見ぬふりをしていた、

という事情がもしかりにあるのならば、

その両親の責任については、

やや、父親のほうに、虐待死の原因を直接的に構成した、

重い責任があるといっていいような気もします。

 

 

 

どうして、このような事件が起きてしまうのでしょうか。

 

それについて天機が考えるに、

 

「ひとは、どういうものに魅力を感じるのか」

 

ということについての、なかなか難しい問題が、

背景にあるような気もするのです。

 

 

 

たとえば、ぜんぜん関係のない話のように思えるかもしれませんが、

食べ物を食べる時を考えてみてください。

 

食べ物については、

① それがおいしいかどうか。つまり、舌や味覚を満足させる力があるのかどうか

というポイントと、

② 体にとってどうか。健康に対しては、どういう影響をあたえるのか

というポイントがある、と思うんです。

 

脂のしたたるような美味しいステーキというのは、

①の、舌や味覚にとっては、非常に魅力的であって、

ひとは、それを喜ぶものなのですが、

②の、健康という観点からすれば、それを食べ続けていれば、おそらく、

からだには悪影響をおよぼすでしょう。

 

他方で、豆や菜っ葉を煮ただけの精進料理のようなものは、

②の、健康という観点からすれば、非常に好ましい影響をあたえてくれる

はずなのですが、

いかんせん、①の舌や味覚にあたえる影響、という観点でいうならば、

ひとは、あまりそういったものには、食指が動かないのです。

 

 

 

男女のまじわりについても、おなじような構図があると思うんです。

 

すごくワイルドで、どきどきさせてくれるような刺激的な恋愛を提供してくれる

男性というのは、

平凡で暖かな家庭生活を継続的につづけていく、という性質には、

若干、欠けている可能性があるかもしれません。

 

他方で、

地味でありながらも、優しくて、家庭において良きパパになってくれるだろうなあ、

と思えるような男性というのは、

恋愛市場においては、いまひとつ頼りなくて、あまり魅力的には映らない

かもしれないのです。

 

 

 

今回の、目黒虐待死の事件でも、その父親の風貌を写真などからみていると、

おそらく、

恋愛においてはそれなりに魅力的だったかもしれないけれど、

家庭的な性質には、欠けていたような気がするのです。

 

これは、バランスの問題もあるのかもしれませんが、

あまりにも家庭的な性質を欠いている場合には、やはり、

その家庭生活には、暗い影が差すような気がします。

この世界はどのようにしてできたのかーその2

こんばんわ。天機です。

(この記事 約1400字)

 

 

 

さて、前回の記事のつづきです。

※ 繰り返しになりますが、このシリーズの記事は、このブログの作者である

天機の空想であって、現代科学により得られた理論や知見との親和性はありません。

 

前回は、この世界のはじまりには「無」というものがあって、

その無が、だんだんに広がっていき、その過程で、

無ととてもよく似ているけれどすこしだけ違う「寸」というのも広がっていき、

それが極限まで達したときに、

寸は、もともと無がいた場所に還ってきて、

そこで無と寸は重なり、交わり、「矛盾」がうまれる、という話をしました。

 

 

 

が、前回、その記事を書いた後に、

いろいろとブックマークコメントをいただいたなかで、

自分の考えに、やっぱり、すこしおかしいところ、

わかりにくいところ、無理のあるところがあるんじゃないか?

という気がしてきました。

 

とくに、寸が広がっていって、もともとの無と重なるというけれど、

もともとのところも寸の一部なんじゃないか、という意見があって、

なるほど、それももっともだ、と思ったのですね。

 

 

 

そこで天機は、前に書いた記事を一部撤回し、

新説をかかげようと思います。

 

それは、以下のようになります。

 

 

 

この世界のはじまりには、「無」がありました。

 

この無が、どういう「化学反応」をおこしたのか、

無とよく似ているけれど、無とは少しだけ違う、

「寸」を「産みました」。

 

うまれた寸は、世界の彼方へと、ぱーっと広がっていきました。

今回は、ひろがっていくのは、「寸」だけです。

「無」は、原初の場所にとどまっています。

 

それで、やっぱり、極限まで遠くまで行った「寸」は、

原初の場所に還ってきます。

 

それで、原初の場所にもともといた「無」と、

はるかかなたから還ってきた「寸」がまじわります。

 

そして、まじわったときに、どういう「化学反応」をおこしたのかは、

天機はよくわかりませんが、

そこで、「矛盾」が生まれました。

 

 

 

今回のイメージは、つぎのような感じです。

 

陸上競技場の、400メートルトラックのあるところを、イメージしてみて

ください。

 

スタート地点のところに、「無」がいます。

 

そこから、いきおいよく、「寸」がスタートを切って飛び出していきます。

 

その「寸」は、400メートルトラックを、ぐるーっと1周、

走ってまわってくるんですね。

 

そうやって走ってまわってきた「寸」が、スタート地点まで戻ってきて、

スタート地点でじーっとしてた「無」と交わりあい、

あらたにできたのが「矛盾」、という感じです。

 

 

 

まず、「無」があって、それが「寸」を産み、

その「寸」と「無」がまじわって「矛盾」がうまれる。

 

順番的には、無→寸→矛盾、という感じです。

 

この無→寸→矛盾、という生成の順番が、

この世界のもっともはじめの部分の生成の順番だと、天機は勝手に思っている

のですが、

どうしてそんなふうに天機は考えるのかな?

と興味を持たれたかたは、

以下の記事もよろしければ参考にしてみてください。

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

以上、「~ました」と、断定調で書いてきましたが、

これは、天機がこの世界のはじまりについて、

こういうふうなしくみで生成したんじゃないかなあ?

と思った「仮説」にすぎません。

天機自身、これが正しいのだ、という立場では、書いていないのです。

 

この世界のはじまりについては、

100人いれば、100通りの空想があっていい、と思います。

天機の空想も、その1つです。