この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

この世界はどのようにしてできたのかーその1

こんにちわ。天機です。

(この記事 約1800字)

 

 

 

今回から、数回にわたって、不定期に、

この世界はどのようにして生成してきたのか?

ということについて、

自分が考えたことを書いていこうと思います。

 

なんといっても、このブログの主眼は、

「この世界の不思議」について、

独自の視点から独自説を開陳することなのです。

 

あまり、このようなトピックに関心のない方は、

こういったシリーズの記事については、流し読みするか、

無視してください。

 

また、いつものことですが、

この世界の不思議、について自分が書く独自説というのは、

科学的な正確性は全然ありませんし、

論理性があるかどうかも、あやしいものです。

 

言ってみれば、論文、という性質をもつ文章というよりは、

随筆、という性質をもつ文章に分類されると思います。

 

書き手が理屈っぽい性格を持っているために、

文章も理屈っぽいですが、

だからといって、論理性が担保されているわけでもないのです。

 

では、はじめていきます。

 

 

 

この世界のはじまりには、まず、

「無」があった、

と天機は考えています。

 

この無が、最初にぽつんとあったのか、それとも、

最初からそれなりの領域をしめる無があったのか。

 

それはわかりませんが、ともかく、無がありました。

 

 

 

その無が、どんどんと、周辺へむかって、かぎりなく広がっていきました。

 

なんといったらいいでしょうか。

 

昔、子供のころに、シャボン玉で遊んだことがあるひとも多いだろうと思いますが、

1つには、

そのシャボン玉が、空気を吹き込むとどんどんふくらんでいくような感じ、

でしょうか。

 

あるいは、

池の水に、ぽちゃん、と石を1つ投げ込むと、

そこから水面を、同心円状に波紋が広がっていく感じ、

でしょうか。

 

あるいは単純に、この宇宙空間が、どこまでも膨張していくような感じ、

でしょうか。

 

ともかくも、そのように、無が、

どんどんと周囲に向かってひろがっていったのです。

 

 

 

円がひろがっていくときには、円がだんだんと大きくなっていくときには、

外側の円周がだんだんと、広く、大きくなっていくものかと思います。

 

円には、その外側に円周があるように、

周辺に向かってひろがっていった無にも、

その最前線と言いますか、フロンティアといいますか、

外との境界線のようなものがあったと思うんですね。

 

 

 

そして天機は、その無のもつ、最前線、最周縁部、最外周、

になっているところは、

「無と、とてもよく似ているけれど、すこしだけ違う、なにか」

だったのだろうと、思っています。

 

天機は数学が苦手なのですが、あえて、数字のようなもので表現すると、

無というのは、0。

そして、無ととてもよく似ているけれど、すこしだけ違うなにか、は、

0.00000000000…1。

 

そんな感じでしょうか。

 

 

 

この、無ととてもよく似ているけれど、すこしだけ違うなにか、

に、あえて名前をつけて、

これを「寸」と呼ぶことにしましょう。

 

するとどうなるでしょうか。

 

 

 

ここに画用紙が1枚あって、そこに、コンパスで円を1つ描いたところを、

頭の中でイメージしてみてください。

 

その円の内部が、無、です。

そして、その円の円周にあたる線が、寸、なのです。

 

 

 

無が、どんどんとその領域を広げていくと、

寸もまた、どんどん遠くへ、遠くへと、広がっていきます。

 

では、その行き着くところは、どういったものになるでしょうか?

 

 

 

天機は思いました。

 

この地球も、同じ方向へ、同じ方向と移動し続ければ、

やがては、もといた場所に還ってくるかもしれません。

 

また、児童文学作品の「青い鳥」では、

しあわせの青い鳥というのは、結局、

自分がもともといた場所にいたのです。

 

 

 

どこまでも遠くへ。

はるかかなたまで、遠くへ。

 

そうやって、遠くをめざしていた「寸」というのは、

それが極限にまで達した時に、

もともとの場所に還ってくるのではないでしょうか。

 

 

 

では、もともとの場所に還ってきた「寸」はどうなるのか。

 

もともとの場所には、「無」がいます。

そこに、はるかかなたからやってきた「寸」がたどりつきます。

 

 

 

天機は、このように考えました。

 

もともとの場所にいた「無」と、はるかかなたから還ってきた「寸」は、

同一の「場」を、あたかも重なり合うかのように占めた結果、

そこで、「交わり」が発生するのではないか?と。

 

 

 

その「交わり」によって、あらたに生まれることになるのが、

「矛盾」です。

「本当にそうなのか?」と考える人々の増加。

こんにちわ。天機です。

(この記事 約1300字)

 

 

 

最近は、世の中のさまざまな面で、急速に変化しているなあ、

という印象を受けることも多いです。

 

 

 

たとえば、その1つが、冠婚葬祭における変化です。

 

https://1.bp.blogspot.com/-VZIdwcg3uDc/UYG5Puv2nII/AAAAAAAARBY/OrlpUdDGAfI/s600/wedding_couple.png

 

以前ならば、結婚したならば、

結婚式や披露宴をおこなうことは、ごくあたりまえのことでした。

 

また、近親者が亡くなったときには、当然、

葬儀や告別式をおこなって、お墓をたてたり、

戒名をつけてもらったりするものだったのです。

 

 

 

ところが、いま、そういったかつての「常識」が、

つぎつぎと揺らいできています。

 

結婚する人がだんだんと減ってきている、といった報道がされていますが、

結婚しても、結婚式や披露宴をおこなわない

「ナシ婚」を選択するひとびとが増えています。

 

また、近親者がなくなっても、従来のような葬儀、告別式をおこなわず、

ごくごく親しいひとだけですませる家族葬や、あるいは、

火葬だけをおこなう火葬式を選択する人がふえていて、

他方で、お墓を継承しない「墓じまい」を選択するひとも、ふえているのです。

 

 

 

どうして、このような現象がおきているのでしょうか。

 

 

 

ひとつには、ひとびとの意識が変化してきて、

よりドライな意識になり、儀礼というものに縛られなくなってきた、

ということもあるでしょう。

 

また、ひとつには、

ひとびとの可処分所得がだんだんと少なくなってきたために、

切りつめられるところはできるだけ、切りつめるようになり、

本当に必要だと思えるところにしか、

お金を出さなくなってきた、ということも、あるかもしれません。

 

 

 

ただ、天機は、それに加えて、

 

「ひとびとが、本当にそうなのか?と、たえず問いかける姿勢、

 常識を疑いながら、いちから自分の頭で考えようとする姿勢、

 そういった姿勢が、近年、急速に強まってきているのではないか?」

 

というふうにも考えています。

 

 

 

結婚したら立派な結婚式をする、人が亡くなったら立派な葬式をする、

というのは、

いわば、「あたりまえ」のことであって、

その正当性や合理性が、いちから、いちいち問い直されるようなことは、

これまでなかったわけです。

 

 

 

ところがいま、ひとびとは、

それが本当に必要なことなのかどうか、いちから考えようとしています。

 

それは単に、

ドライになったから、とか、

シビアになったから、とか、

ケチになったから、とか、

そういったことばかりではないように、天機には思えるのです。

 

なんというか、もっとこう、

 

「〇〇ということは、これまで当然の常識とされてきたけれど、

 それが本当にそうなのかどうか、

 合理性があるのかどうか、

 いちから自分自身のふるいにかけてみるぞ」

 

というような、そういう意思や姿勢を感じるのですね。

 

 

 

そして、この、

「これまでの常識とされてきたことについて、

 もう一度、その正当性や合理性を、自分でいちから問い直そう」

という姿勢は、

冠婚葬祭にとどまらず、

世の中のあらゆる面で、急速に広がりを見せつつある現象になっています。

 

 

 

これまでの常識が通用しなくなってきた、

といわれるようなことも、最近は多くなっているのかもしれませんが、

その背景の1つには、

ひとびとの意識の、そのような変化があるのかもしれません。

砂漠の魅力。

こんばんわ!天機です。

(この記事 約800字)

 

 

 

天機は最近、砂漠にはまっています。

 

グーグル画像で砂漠の画像を見たり、Youtubeで砂漠の映像を見たり、

パソコンのデスクトップ画像も、最近、砂漠にしました。

 

https://publicdomainq.net/images/201609/01s/publicdomainq-0000174qdm.jpg

 

なんでしょうかね。砂漠の何がいいんでしょうか。

 

 

 

まず、ひとついえるのは、

「頭を使わなくていい画像」

なんですよね、砂漠って。

 

砂漠というのは、どこまでも砂の大地がひろがっている絵なので、

すごいシンプルです。

 

これが、ごちゃごちゃとしたジャングルだったり、

複雑な建築物だったりすると、

視界から入ったその画像を、脳が情報処理するのに、

けっこう疲れると思うんですよね。

 

砂漠は、そうではない。

すごい、シンプル。

だから、脳が疲れない。

ぼーっと、眺めていられるのです。

 

 

 

第二に、絵的にも美しい。

 

砂漠って、その砂の大地が波打っている様子は、まるで、

チョコレートのジェラートのようにも見えます。

 

とても、おいしそう。

 

昼間の光景も美しいですが、

満月に照らされた夜の砂漠とかも、きっと、美しいんだろうなあ。

 

 

 

第三に、ひとを拒絶するかのような、その荒涼感。

 

西洋美術とかなんか、そうなんですけど、

基本的に絵画の題材というのは、

「豊かさ」がテーマになっていることが、多いと思うんですよね。

たとえば、テーブルの上に盛られた果物とか。

 

砂漠は、そうではない。

 

人間の文明が、死に絶えたかのような世界です。

 

その荒涼感に、ひどくあこがれます。

 

同じような理由から、廃墟の画像とか、夜の工場とか、

下水道とか、

そういった画像も好きですね。

 

なので、砂漠の画像のなかに、

水とか、水辺とか、緑とか、オアシスとか、緑地とか、

そういった、

みずみずしい生命を感じさせるものは、不要です。

 

 

 

どこまでも広がっている、荒涼とした砂漠。

 

その画像を、ぼけーっと眺めるのが、好きです。