この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

挫折しにくく、効果的な、学習計画の立て方。

こんにちわ。天機です。

 

 

 

きょうは、挫折しにくく、効果的な、学習計画の立て方について、

自分の思うところを書いてみようと思います。

(この記事の字数 約800字)

 

 

 

天機は学生時代、学習計画の立て方が下手でした。

 

あるときは、よし、1日10時間勉強してやるぞ、なんて意気込んで始めるものの、

3日ほどで挫折して、

その後は1か月ほど短時間勉強の日が続いてしまう、

なんてことがよくありました。

 

 

 

ここで、最近思いついたのが、

勉強計画の策定にあたって、期待値に類似した考え方を導入してみてはどうか、

ということです。

 

 

 

たとえば、宝くじを考えてみましょう。

 

1億円当たる、といわれれば、おっ、すごいなあ、と思うかもしれませんが、

通常、そういった高額の当選金額になるものは、

当選確率が非常に低いです。

 

他方で、当選確率が10%もある、といえば、

宝くじの当選確率としては高いほうですが、

そういった高い当選確率になるようなものは、

当選金額が数百円とか、低いことがおおいです。

 

なので、宝くじに対して投資しようとして、判断をおこなうときには、

(当選確率)✕(当選金額)

という、期待値で考えていくことが必要になるのですね。

 

 

 

この考え方を、勉強計画の策定に応用してみましょう。

 

1日10時間という勉強時間は、継続できれば、おおきな成果が得られるでしょうが、

通常、そのような長時間の勉強を自分に課すと、

挫折する可能性が高くなります。

 

他方で、1日30分というような短時間の勉強を自分に課すと、

長期にわたって継続できる可能性が高くなりますが、

いかんせん、1日の勉強時間が少なすぎるので、

数か月経過したのちに、あまり成果が上がっていない、

ということにもなりかねません。

 

なので、

(1日の勉強時間)✕(それを継続できる実現可能性)

という期待値で考えて、

この期待値が最大になるように目標勉強時間を微調整していけば、

えられる成果は最大になるのではないでしょうか。

 

 

 

今回は、そんなことを考えました。

意味のない苦行は、やめたほうがいい。

こんにちわ。天機です。

(この記事の字数 約1300字)

 

 

 

みなさんは、意味のない苦行のようなことをした経験はあるでしょうか?

 

天機はあります。

 

 

 

子供のころ、よく大人たちは、

 

頑張って努力するんだ、若いうちの苦労は買ってでもするんだ、

そうすれば成功できるから、

 

なんてことを言っていたかもしれません。

 

 

 

また、日本では、中学生の部活でも、

1年生のうちは球ひろいをさせられたりするなど、

なにかと根性論が重視されるところがあると思います。

 

 

 

そこに流れている考え方というのは、

苦労したり、頑張ったりすることで、本人の根性と精神をきたえれば、

それがやがて、将来成功することにつながる、

というものだろうと思います。

 

 

 

天機は、その考え方には、たしかに一理あるとは思います。

若いうちに自己訓練を習慣づけておくことは、

有用な面もあるとは思うのです。

 

 

 

しかしながら、そこで大切になってくるのは、

自分の現在おこなっている苦労や鍛錬というのが、

ほんとうになにかの達成につながっているのか、

自分はどこに向かおうとしているのか、といったことを、

つねにチェックしておくことだと思うんです。

 

 

 

天機は、「意味もなく」苦労することそれ自体を自分に課し、

それを達成しようとする妙な子供でした。

 

 

 

たとえば、小さいころ、ある飲食店で、

普通のざるそばを頼んだはずなのに、すごい大盛りのざるそばが

でてきたことがありました。

 

天機は、よし、これを食べきってやるぞ、と、なぜだか思って、

非常に苦しい思いをしながら完食しました。

 

 

 

また、こんなこともありました。

 

天機は大学時代、東京に暮らしていたのですが、

どういうわけか、あるとき、

東京23区の全ての区を自転車で通過してやるぞ、という誓いをたて、

実際に実行したことがありました。

 

また、おなじく東京に在住していたとき、

自転車で山梨県まで行ってやる、という誓いをたて、

1日がかりで高尾山のあたりから相模原市のあたりへと抜け、

さらには山梨県境まで行って帰ってくる、といったことをしました。

 

 

 

天機は別段、大食い選手権に出ようと思っていたわけでもなく、

サイクリングを趣味としていたわけでもありません。

 

むかしの天機は、突如として、

自分になにか苦行のようなものを課すことを思い付き、

それを実行する妙な子供だった、というだけのことです。

 

 

 

これがなにか役に立ったか、というと、正直にいって、

全然役に立ってはいないと思います。

 

勝手に大盛りででてきたざるそばなんか、残してやればよかっただけです。

そうすれば、自分がしんどい思いをする必要はなかったのです。

 

長時間をかけて自転車であちこちを走破するのも、

別に自分がそれを趣味にはしていないのなら、

マンガを読むとか、資格試験の勉強をするとかしていたほうが、

個人的には時間を有効に使えたのではないか、と思います。

 

 

 

なにか自分がしんどいことを自分に課そうとしているときには、

はたして、それは本当に意味のあることなのか、

何を目的にしてそれをやろうとしているのか、

といったことのチェックは欠かせないなあ、と、

若いころの自分をふりかえって、自戒とともに思います。

個人的な満足感を高めるような生き方。

こんにちわ。天機です。

 

 

 

きょうは、人間の生き方について、書いてみようと思います。

(この記事の字数 約1000字)

 

 

 

天機も、もう40歳になるなかで、

これまでの人生とか、生き方について考えるときがあります。

 

 

 

子供のころの天機というのは、どういうわけか、

「大物になってやるぞ」とか、

「偉人になってやるぞ」とかいった、

妙なことを考える子供でした。

 

 

 

ひとつには、本に影響されやすい、ということも、あったのかもしれません。

 

小学校には図書室があって、そこには、マンガ偉人伝みたいな本がならんでいて、

天機はよく読んでいました。

 

また、親や、親戚の伯父さんとかも、

偉人伝をプレゼントしてくることが多かったのです。

 

それを読んで、どういうわけか、

自分も名を残すような人物にならなければ、などと、

妙なことを考えていました。

 

 

 

有名高校から有名大学に進学するなかで、

ひとかどの人物にならなければ、

立派な人物にならなければ、といった考え方は、

さらに強まっていきました。

 

 

 

そして現在、40歳になった自分というのは、

立派な人物からは、ほど遠い人物になっています。

 

 

 

思うのですが、

世の中がまだ発展していなくて、みながまだ貧しかったような時代には、

偉人という存在も必要で、偉人が刻苦勉励することで

世の中を引っ張っていく必要もあったのでしょうが、

こんなに世の中も発展して、

けっこうそれなりに豊かなひとも増えてきた現代という時代においては、

特定の誰かだけが偉人になって世の中に対して多大な貢献をする、

なんてことは、

もはや、必要ではなくなってきてるんじゃないですかね?

 

 

 

世の中には、

たとえば偉人になって、みなから称賛され、人類に多大な貢献をするひともいれば、

たとえば犯罪者になって、みなから後ろ指をさされ、

ひとびとにおおきな迷惑をかけるひともいます。

 

そして、そういった、極端なひとびとのあいだには、

非常に多くの「ふつうのひとびと」が存在するものだと思うんです。

 

 

 

とりあえず、この現代という世の中において、

人生を生きていく上においては、

ひとに迷惑をかけないという最低ラインを確保したうえで、あとは、

「ふつうのひとびと」として生きられれば、

それでいいのではないか、という気もしてくるんですよね。

 

名を残そう、とか、立派な人物になろう、とかいった、

「枷(かせ)」から自分を自由にしてやると、

ずいぶん生きるのが気楽になるような気がします。