この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

火球の増加。

こんにちわ。天機です。

 

 

 

きょうは、火球について書こうと思います。

 

 

 

火球が増加しているのではないか、ということについては、以前も、

このブログで記事にしたことがあります。

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

 

 

つい先日も、日本の広い範囲で火球が目撃されたことが、

ニュースになっていました。

 

 

 

報道をみていると、国立天文台とかの専門家が、

「あれは火球です」と言ったり、

火球は1か月に数個の割合で目撃されている、

と報じられたりしていますね。

 

 

 

そういった報道をみていると、

なーんだ、火球なんて、めずらしいことじゃないんだ、

なんて、思うかもしれません。

 

 

 

でも、ほんとうにそうでしょうか?

 

天機は、もう40年近く生きてきた、おっちゃんです。

ですが、天機が子供のころ、つまり、いまから数十年前ですが、

そのころに、

「火球」なんて単語を報道で耳にした記憶は、

あまりないんですよね。

 

火球がさかんに飛来する、というのも、

それが頻繁に報道にのぼる、というのも、いずれも、

ここ最近の現象、もっというならば、

ここ数年で急激に増加した現象である、

といっていいのではないでしょうか。

 

 

 

 

「火球 増加」といったキーワードで検索すると、

そのことが明らかになるかもしれません。

 

いくつかのサイトがヒットしますが、そのなかには、

近年、火球が急激に増加していることを、

データによって示しているものがあります。

 

 

 

 

また、火球は英語でfireball、増加するは英語でincrease、といいます。

 

日本語で、「火球 増加」と検索しても、

ヒットするサイトはかぎられているかもしれません。

 

が、「fireball  increase」で検索すれば、

海外でも、火球の増加について発信している人が、

それなりにいることがわかります。

 

自分も、英語力はたいしたことがないのですが、

それなりに、なんとなく読める、海外のサイトもありますね。

 

また、Youtubeの検索窓に、

「fireball  increase」と打ち込んでみると、

いろんな動画がヒットします。

 

そして、そういった動画をみていると、

火球についての動画のほとんどが、

2010年以降のものであることがわかります。

 

つまり、だいたい2010年ごろをさかいにして、

火球が急激に増加していることの、ひとつの例証になるわけなのですね。

 

 

 

 

火球なんて昔からある、めずらしくもない、

というのは、間違った判断だと思います。

 

火球、という現象自体は、科学の世界では、

昔から認められていた現象かもしれません。

しかし、それが日常の報道にしばしば登場する、というのは、

以前には、なかったことです。

 

また、雨がふったよ、というのは、

わざわざそれだけをとりあげて報道されることはありません。

雨が降ることはふつうのことで、べつにめずらしくもないからです。

雲が流れたよ、とか、雷が鳴ったよ、とかも、同様です。

 

わざわざある現象をとりあげて、そのことをとくに報道するというのは、

その現象が通常ではなくて、めずらしいからです。

火球がとくにめずらしくもなく、普通の現象であるのならば、

とくにそれをとりあげて報道する必要もないと思うのですが、

実際には、火球が目撃された、というニュースは、

それだけをとりあげて報道されています。

つまりは、めずらしい、ということです。

 

 

 

 

この世界には、通常と、異常があります。

通常と異常、この2つのものが合わさって、

はじめてこの世界はできあがっています。

 

普通に生活していると、通常しか、目に入ってはきません。

なので、通常というのが、この世界のすべてをおおいつくしているように

思えてくるのも、無理のないことです。

 

しかし、この世界の周縁部には、あまり認識されることはありませんが、

異常、がひかえています。

 

 

 

 

すべては常識の延長線上にあるんだ、おかしなことは、なにもおこらない、

と考えるのは、

間違った考え方であろう、と、自分は思うのです。

 

異常が存在する可能性をきちんと認めること。

映画やフィクションの世界だけではなくて、

現実のこの世界にも、異常、が浸食してくることは、ありうる、ということを

認めること。

 

それこそが、大切なことなのではないでしょうか。

好きか、嫌いか? その2

こんにちわ。天機です。

 

 

 

きょうは、好きか、嫌いか、についての考察記事の、

つづきを書いていこうと思います。

 

 

 

 

 

恋愛。商業。民主主義のもとでの政治。芸能界。

 

 

 

こういった世界においては、好きか、嫌いか、という原理が、

非常に大きな力をもっている、という話を、前回しました。

 

では、この世界には、そういった、好きか、嫌いか、によって決定される

ような、そんな世界しか存在しないのでしょうか。

 

 

 

 

 

じつは、そういうわけではありません。

 

この世界においては、好きか、嫌いかには、

あまり関係がないような世界も、たしかに存在しているのです。

 

そのような世界を、見ていきましょう。

 

 

 

 

まず、そのような世界の代表格にあげられるもののひとつとして、

「法」

が関係する世界があります。

 

 

 

 

法という言葉をきいて、どういったことを思い浮かべますか?

 

たとえば、人と人とが取引をするときには民法などが、

会社と会社が商取引をするときには商法などが、

国家の基本を定める際には憲法などが、

犯罪を犯した者を裁くには刑法や刑事訴訟法などが、

それぞれ必要になりますね。

 

法、という言葉をきいて、ぼくたちが一般にイメージするものといえば、

だいたい、うえのようなものであろう、と思います。

 

つまり、人間がつくり、人間の社会で使用されている、

各種の法規ですね。

 

 

 

 

しかし、あまり思考にはのぼらないかもしれませんが、この世界には、

人間が作った法以外に、

「自然界がつくった法」があります。

 

たとえば、

水は100度で沸騰するよ、とか、

化学変化の前後で質量の総和は変化しないよ、とかいった、

たとえば、科学的な法則が、それにあたります。

 

うえにのべたようなのは、いわゆる、近代科学によって発見された科学法則

ですが、もしかしたら、この世界には、

森羅万象をつらぬくような法(ダルマ)があって、

それも、自然界がつくった法、に含めていいのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

人間がつくって、人間の社会で使用されている、法規。

自然界が作った、科学法則やダルマのような、法。

 

こういったものが、法、という言葉で観念されるものであろうか、

と思います。

 

 

 

 

 

 

では、こういった、法、が関係する世界では、

いったい、どのようなことが起こるのでしょうか。

 

 

 

 

まず第一に、法が関係する世界では、

「好きか、嫌いか、という原理が、はたらきにくくなり」ます。

具体的に、見ていきましょう。

 

 

 

わたしたちは、日々、生活するうえで、

いろんな法規にまもられて生活しています。

 

そして、自分と、だれか他者のあいだに、法的紛争が発生したならば、

裁判所で、裁判をして決着をつけてもらうことがありますよね。

 

 

 

このとき、裁判所、そして、裁判官は、

いったい、どのようにして、その判断を組み立てるのでしょうか。

 

 

 

 

「争っている一方当事者のうち、Aさんはとても美人だなあ。

 よし、Aさんの全面勝訴だ!」

なんて、やるでしょうか。

 

 

 

 

あるいは、

「窃盗罪で訴追されている、Bさんは、どうもキモい顔つきだなあ。

 よし、こいつは死刑だ!」

なんて、やるでしょうか。

 

 

 

 

やりませんよね。というか、できませんよね。

 

もちろん、裁判官も人の子ですから、内心の好き嫌いが、

判決を書く上で、微妙な影響をおよぼすことが、ないとは言い切れません。

 

が、そのことを、判決に表立って書くことは、認められていませんよね。

 

 

 

まず第一に、判決というのは、

法規や判例にのっとって書く必要があります。

 

そしてつぎに、その判決文は、論理的に整合性のとれたものでなくては

なりません。

 

「Aさんが好きだからAさんの勝ち」などと、判決文に書くわけには、

いかないのですね。

 

読んだ人が、たしかにそうだ、と、納得することを目指す方向で、

判決文というのは、作成されなければいけないのです。

 

 

 

裁判には、このような縛りがあります。

そして、その縛りというのは、

「好きか、嫌いか」という原理がはたらきにくくなる方向で作用して

いる、といえます。

 

 

 

 

 

 

では、自然界の作った法は、どうでしょうか。

 

じつは、ここでも、

「好きか、嫌いか」という原理が、はたらきにくくなっているのです。

 

科学法則を例に、見てみましょう。

 

 

 

 

 

 

水は100度で沸騰しますよね。

当然のことです。

 

いま、ここに、太郎君という人物がいるとします。

太郎君は、カップヌードルを食べようとしていました。

 

ただ、太郎君は、非常におなかがすいていました。

ぺこぺこで、いまにも気絶しそうでした。

 

そこで太郎君は、お湯にむかって言いました。

「ねえ!今回だけは、80度で沸騰してよ!

 俺はカップヌードルがすぐに食べたいんだよ!」

 

 

 

 

それを聞いたお湯は、どうなるでしょう。

しかたないなあ、今回ばかりは80度で沸騰してやるか、

って、なるでしょうか。

 

 

 

 

ならないですよね。

 

水が100度で沸騰する、という科学法則は、

80度で沸騰してほしい、という太郎君の「好み」によって、

変更が加えられたりはしません。

 

 

 

 

いま、太郎君の例を出しましたが、ここに、100万人の人間が集まって、

おれも80度で沸騰してほしい、

わたしも80度で沸騰してほしい、と口々に言いだしたとします。

 

けれど、

水が100度で沸騰する、という科学法則に、

変更をくわえることは、できないでしょう。

 

というか、100万人どころか、

全地球上の人口が約70億人だとして、

そのうち40億人が、つまり、多数派が、

80度で水が沸騰してほしい、と希望しても、

水が100度で沸騰する、という科学法則に変更をくわえることは、

おそらく、できないでしょう。

 

 

 

 

つまり、自然界の作った法である、科学法則のような法に関係する世界でも、

好きか、嫌いか、という原理は、はたらきにくくなっているのです。

 

 

 

好きか、嫌いか、という原理が、はたらきにくくなる。

これが、法、の関係する世界の、特徴の第一です。

 

このほかに、法の関係する世界には、

「強制通用力のあらわれ」「理性的思考とのかかわり」といった

特徴がみられるのですが、、、、、

 

 

 

想像していた以上に、記事が長くなりそうなので、

つづきはまた、第三弾以降の記事として、アップしていきます。

 

 

 

※ 好きか、嫌いか? という記事のシリーズについては、こちらから↓

 

reasongomainstream.hatenablog.com

好きか、嫌いか、についての、waffleさんの記事。

こんにちわ。天機です。

 

 

 

すこしまえに、好きか、嫌いか、という原理についての、

第一弾のブログ記事を書きました。

 

そして、ふだんから購読させていただいている、waffleさんというかたの

ブログ記事のなかで、

同じテーマで、ちがった視点から、興味深い分析をされている記事を

拝見しました。

 

それがこちら↓

 

www.waffledreamblog.com

 

 

 

 

自分は、好きか、嫌いか、ということを、文字通り、

他人から好かれるかどうか、ということと解釈し、

モテるかどうかということは、こと、男女間の恋愛においてだけ、

問題になるものと考えていました。

 

 

 

しかし、waffleさんの記事では、

好きか、嫌いか、ということは、

コミュニケーション全般の基礎にある、ということ、そして、

モテる能力をもったひとというのは、

この、コミュニケーションの能力に優れている、ということなのではないか、

という考察がなされていました。

 

 

 

なるほど、と思いましたね。

すこし、自分の視野がひろがったような気もします。

 

 

 

自分は、好きか、嫌いか、という原理そのものが、

あまり好きではなくて、

というのも、

あまりモテたことがなかったからなのですが、

そうすると、ひねくれて、

好きか嫌いか、なんていう原理そのものが

この世から消えてなくなってくれればいいのに、

なんて考えてしまうんですよね。

 

その線で、好きか、嫌いか、についての、第二弾となる自分のブログ記事を

執筆するつもりではいるんですが、

好きか、嫌いか、という原理を、ただ否定的にとらえるのではなく、

積極的に、肯定的に生かしていくことで、

自分自身にとっても明るい世界がひらけてくるんじゃないか?

 

そんなことを、この記事からは教えていただいたような気がしますね。