この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

書く、ということの効用。

こんにちわ。天機です。

 

 

 

きょうは、書く、ということの効用について、書いてみたいと思います。

 

 

 

みなさんは、なにかを書くことは、あるでしょうか。

 

天機は、よくあります。

 

 

 

 

なにかの問題に直面したときとかに、

自分がいま、どういう状況におかれているのか、

それに対して、どういう解決策があるのか、

そういったことを把握するために、

ノートに状況を書き出してみます。

 

 

 

 

そういう時に使うのは、おもに、100円ほどのアナログノートですね。

いまの時代なら、パソコンなどをつかって、

もっと効果的に「書く」ということをやる方も多いと思いますが、

自分は、ハイテクに弱いこともあって、

アナログノートを重宝しています。

 

 

 

 

 

問題を書き出すことで、「見える化」する、というのは、役に立ちます。

人間は、状況をはっきり把握できない状況におかれると、

それだけでストレスを感じてしまうんですね。

 

 

天機がときどき行く、繁華街の交差点には、

横断歩道で待つ待ち時間が表示される信号機があります。

 

 

あと、どれくらいで横断歩道をわたれるのか、

ということが把握できると、それだけで、

待っているときのストレスが、すこし軽減されるように思います。

 

 

 

 

 

書くということや、「見える化」するということの効用は、

ストレスを軽減してくれる、というだけにとどまりません。

 

 

 

古代エジプト、というのは、ナイル川の運んでくる土砂が

肥沃な大地をつくり、おおいに栄えました。

「エジプトはナイルのたまもの」といわれるゆえんです。

 

 

しかし、困ったことに、そのナイル川は、

しばしばエジプトの地に、深刻な洪水被害をもたらすことでも

知られていました。

 

 

そこで、エジプトの人々は、記録をとって調べてみることにしました。

 

すると、シリウスという星が、

ある一定の空の位置にあらわれるような時期になると、

その直後に洪水が発生する、という事実をつきとめることができたのです。

 

 

 

洪水被害の軽減につながる、うえのような事実をなぜつきとめることが

できたのか、といえば、それは、

記録をとったからです。

 

 

個人に対しても、国家や社会に対しても、

問題や災難がふりかかることは、ままあるものですが、

状況を書き出したり、継続的に記録をとったりすることで、

状況を把握したり、状況の背後に隠れている法則性を見出したりして、

それを、個人や、国家、社会の福利へとつなげることができます。

日馬富士の刑事責任追及にかんして。

こんにちわ。天機です。

 

 

 

日馬富士の暴行疑惑のことが、さかんに報道されていますね。

きょうは、このことについて、思ったことを書いていきたいと思います。

 

 

 

まず第一に考えなくてはいけないのは、

日馬富士は、力士であると同時に、この社会に暮らす一般人でもある、

ということです。

 

力士である以上は、相撲協会の監督や規律に服することは当然ですが、

同時に、一般人である以上は、この日本国の法規の規律にも服するものであります。

 

相撲協会には相撲協会独特の「部分社会」があって、

一般の司法権や捜査権の介入をはばんでいる、

などといった事実は、認められていません。

 

そうである以上、傷害にあたるような刑事事件を、

もしかりにひきおこしたのであるならば、

それは、日本国の刑法において犯罪とされるものであって、

法の裁きに服する必要があります。

 

かりにそのような事態となったならば、それはもはや、

相撲協会内部の処分で済まされるようなことでは、ないのです。

 

 

 

日馬富士のひきおこした暴行事件がどのようなものであったのか、

慎重に捜査する必要があります。

 

刑事事件に発展してしまった、ということを問題視するひとがいますが、

おかしいことです。

 

刑事事件に該当するような事案が現に発生しているのに、

それにもかかわらず、

何らかの圧力によって刑事事件化させない、ということがもしあるのならば、

そちらのほうが、よほど問題です。

 

 

 

事を荒立てる、とか、もめごとに発展する、とかいったことを、

極端に嫌うひとたちもいますが、

事を荒立てず、もめごとに発展させないいっぽうで、

理不尽な被害に泣くひとがいるのならば、

その不正義は、看過できないものでしょう。

 

 

 

 

日本相撲協会というのも、ひとつの組織体です。

国であれ、さまざまな団体であれ、組織というものには、いつも、

組織の論理、がはたらきます。

 

それは、いうならば、

組織がひとつの「生命体」として、その生命活動がとどこおりなく

おこなわれるのか、その生命体にとって利益になるのか、

その生命体は「延命」できるのか、といった観点から主張される、

「生の原理」にのっとった論理なのです。

 

いっぽうで、なにが正しくて、なにが正しくないのか、といったことや、

不正義があったならば、それは糺されなければならない、

といったことは、

「理の原理」から主張されるものです。

 

そして、生の原理と、理の原理は、

しばしば、相対立するものになりえます。

 

生の原理にのっとった「組織の論理」は、

組織にとって、ある個人の権利をみとめることが、かりに都合が悪ければ、

たとえそれが、理の原理に反し、正義に反するようなことであっても、

組織の「生命体」としての団結と利益を優先し、

そこに属する構成員である一個人の正当な権利を蹂躙してはばからない

ことがあります。

 

自分は、生の原理、理の原理は、ともにそれなりに意味のあるものだと

考えていますが、

生の原理がつねに理の原理に優越する、といった考え方や、

生の原理のためであるならば理の原理は亡き者にされてもしかたがない、

といった考え方は、

これを採用することができません。

 

なにが正しくてなにが正しくないのか。

正義の価値とはなにか。

 

そういったことを、今回の日馬富士の暴行疑惑の解明に関しても、

もういちど確認する必要があるように思えます。

 

 

 

たいせつなことは、法が、公平公正に、正しく適用されることです。

 

日馬富士が、やってもいないことで処罰を受けるのは、

不当なことでしょう。

 

また、かりに暴行をおこなったとしても、

実際におこなった行為以上に処罰されるとすれば、やはりそれは、

不当なことでしょう。

 

しかしいっぽうで、

暴行や傷害をおこなったにもかかわらず、処罰されないとすれば、

不当なことでしょう。

 

そして、実際に行った暴行や傷害に対して、

過小な処罰がなされるとすれば、

やはり、不当なことでしょう。

 

 

 

かつて、ハンムラビ法典には、

「目には目を」という、同害報復の原則が規定されていました。

 

目をつぶしたら、自分も目をつぶされる。

そんなの残酷だ、という声が聞こえてきそうですが、

ハンムラビ法典の眼目は、

「報復」にあるのではなく、その報復が「同害」であることにあるのです。

 

目をつぶしたら、自分も目をつぶされるけれど、

ついでに鼻をつぶされたり、口をつぶされたりは、しないわけです。

 

他方で、目をつぶしたのにもかかわらず、

つぶした者が、頭を小突かれるだけですむ、

というようなことも、ないわけなのですね。

 

 

 

なにが公平で公正なのか、といったことは、

よくよく考えてみる必要があります。

好きか、嫌いか? その1

こんにちわ。天機です。

 

 

 

きょうは、「好きか、嫌いか?」について、考えてみたいと思います。

 

 

 

日常生活でも、ネットの世界でも、たまに、

「そういうこと言ってると、モテないよ?」

という発言を、見たり聞いたりすることがあります。

 

ぼくは、この発言に、辟易しています。

 

 

 

 

 

モテる、ということについて、考えてみましょう。

 

男性が女性にモテる、あるいは、女性が男性にモテる、というのは、

おもに、恋愛の場面において、

異性から好感情をもたれる、つまり、好き、って思ってもらう、

ということだろうと思います。

 

 

 

「そういうこと言ってると、モテないよ?」という発言を頻繁にする

ひとというのは、

その人自身が意識しているのか、意識していないのかはわかりませんが、

「この世界では、ひとに、好き、と思ってもらうことこそが大切なんだ。

 好きか、嫌いか、という、人間の心の中の、感情をつかさどる部分こそが、

 至高の原理なんだ」

という思想と前提に立っている、そんな気がするんです。

 

 

 

 

ところで、この、好きか、嫌いか、という点を重視する、というのは、こと、

恋愛の場面だけで、あらわれてくる原理ではないのです。

 

 

 

 

恋愛というのは、相手のことを好きになる、あるいは、相手に好きになってもらう、

ということで成り立つものです。

ここでは、好きか嫌いか、ということが、非常に需要な意味をもちます。

 

 

 

 

でも、ほかにも、たとえば、経済活動や商業の場面でも、

この、好きか嫌いか、という原理は、重要視されるんですね。

 

企業やお店は、製品やサービスをつくって、ひとびとに提供します。

企業やお店の経済活動がうまくいくかどうかは、ひとえに、

その製品やサービスを、ひとびとが気に入ってくれるかどうかということに、

おおきく依存します。

 

なので、経済活動や商業の場面でも、好きか嫌いか、という原理が、

非常におおきな意味をもつことになります。

 

 

 

 

ほかには、どうでしょうか。

 

政治の場面なんかでも、そうですね。

 

現代の世の中というのは、たった1人の国王や皇帝が、ひとびとを治めている、

そんな世の中ではないですよね。

 

現代は、基本的に、世界の多くの国で、民主主義が採用されています。

ここ日本でも、そうです。

 

民主主義の世の中で、政治権力を握っているひと、たとえば、

首相や、大統領や、大臣や、国会議員といったひとたちは、みな、

選挙でえらばれたひとたちなんですね。

 

政治というのは、自分の思い描く政策を実行に移していく、というプロセス

でもあるわけなんですが、

民主主義の社会では、その大前提として、

有権者に選挙で、自分を選んでもらう必要があります。

 

そして、有権者にえらんでもらおうと思ったら、なによりもまず、

有権者に気に入ってもらうことが大切です。

有権者に、好き、って思ってもらう、ということですね。

 

どんなに立派な政策をかかげたとしても、

有権者の、好き、っていう気持ちを勝ち取れない候補者は、

民主主義の選挙では、落選します。

 

他方で、政策なんかあんまりわかっていないような候補者であっても、

たとえば、かっこいいとか、美人だとか、おもしろいとか、

そういうところを有権者に気に入ってもらえれば、

当選することがあります。

 

だから、有権者に気に入ってもらえるかどうか、ということが、

選挙の結果をおおきく左右する、民主主義での政治の世界においても、

好きか嫌いか、という原理は、はばをきかせることになります。

 

 

 

 

ほかには、どうでしょうか。

 

芸能界なんかも、典型的にそうですよね。

芸能界には、いろんな才能をもったひとたちが集まってきますが、

その芸能界で成功しようと思ったら、

人に好かれる、ということが、非常に重要になってきます。

 

かわいいとか、美人とか、かっこいいとか、イケメンとか、

おもしろいとか、しぶいとか、

いろんな人が芸能界にはいますが、

簡単に言えば、人間的な魅力があるから、

芸能界でやっていけてるんです。

 

そして、その、芸能界における人間的な魅力、というのは、

ぱっとみてわかるものでなければいけません。

 

あのひとは寡黙で暗い感じがするけれども、

深く長く付き合ってみると、だんだん良さがわかってくるんだよ、

などといわれるひとは、たぶん、芸能界向きではないと思います。

 

芸能界に生きる人々の、基本的な主戦場は、テレビです。

視聴者は、テレビに映っている姿や言動からしか、

そのひとを判断するすべはありません。

 

ですから、芸能界でうまくやっていこうと思ったら、

ぱっとみてわかる「人間的な魅力」というのが、テレビの画面をとおして

発散されているということ、

そして、それをみた視聴者が、その芸能人のことを気に入ってくれる、

好きになってくれる、ということが、とても大切になってくるのです。

 

なので、芸能界という世界においても、やはり、

好きか嫌いか、という原理は、非常に重要な意味をもってきます。

 

 

 

 

恋愛の世界。商業の世界。民主主義での政治の世界。芸能界。

 

いまみてきたような、これらの世界というのは、みな、

好きか嫌いか、という原理が、非常に重要になってくる世界なんです。

 

その意味で、これらの世界は、共通性をもちます。

おたがいに、親和的なんです。

 

なので、たとえば、

芸能界では、ドラマでもバラエティでも、恋愛をよくネタにしますよね。

また、選挙があれば、特番を組んで、お祭り騒ぎをします。

企業はコマーシャルをさかんにうつでしょう。

 

政治家は、経済が最優先課題だ、なんて、よくいいますよね。

有権者にどうとらえられるかは、政治家にとって重要な関心事であって、

メディアにたいして、慎重に対応します。メディア戦略です。

 

企業はさかんに、恋愛を勧めますよね。

ひとびとが恋愛にいそしんでくれることで、そこに、

お金儲けのチャンスがうまれるからです。

 

 

 

 

こういった、恋愛の世界、商業の世界、民主主義での政治の世界、芸能界、

などが、現代の社会でおおきな地位を占めているのをみると、

あたかも、世界はそれだけなんだ、それだけが世界なんだ、

という気持ちになってしまいますよね。

 

そうすると、どうなるかといえば、

好きか嫌いか、という原理こそが、その原理だけが、

この世界を支配する「唯一の」原理だ、などと思うようになるわけです。

 

すると、そこからさらにどうなるかといえば、

モテるかどうかということこそが、もっとも大切で唯一の原理だ、

という認識になり、ひいては、ことあるごとに、

「そういうことを言っているとモテないよ?」

などと、他人に言ってしまう人間になるわけなんですね。

 

 

 

 

では、つぎに、

はたして、この「好きか嫌いか」という原理が、

ほんとうにこの世界を支配する唯一の原理なのかどうか、

ということについて、考察していきたいと思います。

 

 

 

※ 好きか、嫌いか? という記事のシリーズについては、こちらから↓

 

reasongomainstream.hatenablog.com