この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

幼児教育無償化の効果について。

こんにちわ。天機です。

 

ちまたでは、幼児教育の無償化、ということが言われたりしていますね。

ひとつには、少子高齢化に対する対策としての意味合いもあるようです。

 

 

 

しかし、自分は、その効果については、疑問に思うところがあります。

 

少子化、というのは、子供が生まれない、ということなのでしょうが、

その原因は、

 

① すでに結婚している夫婦が子供をつくろうとしない

からなのか、

② 結婚しようとする人が減ってきているから、

  それで、カップルも減り、夫婦も減り、子供も減っている

のか、どちらなんでしょうね?

 

 

 

①が原因であれば、幼児教育を無償化する、というのは、たしかに、

こどもをつくろうとするうえでの、おおきなインセンティブになるでしょう。

 

しかし、②がけっこう大きな原因になっているのならば、

幼児教育無償化といった政策と並行して、

いかにして、結婚件数を増やすか、といったことにむけての、

政策が検討される必要があるのではないでしょうか。

 

そして、そこで大切になってくるのが、

男性にとっても、女性にとっても、双方ともにとって、

結婚が素晴らしく、魅力的なものになるような、

「公平」の視点だと思います。

理の原理と、マイナスの排除。

こんにちわ。天機です。

きょうもまた、この世界の不思議、に関して、

記事を書いていこうと思います。

 

さて、このブログではしばしば、

理の原理と生の原理について書いています。

 

理の原理の対極には生の原理があって、

理の原理と生の原理は、たがいに正反対のような関係になります。

 

 

 

ここで、ふと思いつくのが、生と死の関係です。

ふつう、生と死は、たがいに正反対のようなもの、と考えられています。

 

 

 

であるならば、

理の原理と生の原理、つまり、理と生は、たがいに正反対の関係にあり、

死と生もまた、たがいに正反対の関係にあるので、

理と死は、ともに生の反対に位置する、という意味で、

共通性をもつことになります。

 

 

 

ここで、生と死について、考えてみましょう。

 

生きていれば、楽しいこともうれしいこともあれば、

つらいことも苦しいこともあります。

つまり、プラスのことも、マイナスのことも、

両方とも「ある」のが、生、なのです。

 

いっぽう、死はどうでしょうか。

死んでしまえば、楽しいこともうれしいこともないかわりに、

つらいことも苦しいこともありません。

つまり、プラスのことも、マイナスのことも、

両方とも「ない」のが、死なのです。

 

よく、ドラマとかで、病室の場面が映されることがありますよね。

いまにも死にそうなひとが、ベッドによこたわっていて、

そのひとの心臓?鼓動?かなにかの波形が、

よこにある機器にグラフ状になってあらわされています。

 

命のあるうちは、ぴっぴっぴっ、という音とともに、

緑色の線が、上にいったり、下にいったりと、

波の形をえがいています。

でも、ついに臨終のときをむかえると、

ぴーーーー、という音がして、

波の形が一直線になる、

そんな演出を見たりしますよね。

 

あの波形を見ていて思うのは、

生と死を、よくあらわした形だなあ、ということです。

 

生きているときは、波形が、上にいったり下にいったりしますよね。

つまり、楽しいことも苦しいこともある、っていう、

生の性質によく対応したかたちだと思うんです。

 

死んでしまうと、波形が一直線になりますよね。

つまり、楽しいことも苦しいことも、なにもない、っていう、

死の性質によく対応したかたちだと思います。

 

 

 

さきに、死と理は共通性をもつ、ということを書きました。

だから、

プラスのことも、マイナスのことも、両方とも「ない」という、

死のもつ性質は、理もまた、これをもつことになります。

 

 

整理しましょう。

 

プラスのことも、マイナスのことも、両方ともあるよ、

というのが、生の原理のもつ性質です。

 

それに対して、

プラスのことも、マイナスのことも、両方ともないよ、

というのが、理の原理のもつ性質なのです。

 

 

 

ここで、人間の願い、について考えてみましょう。

 

人間の願い、というのは、おおきくわけて、

2つになる、と思います。

 

1つは、「プラスがほしい」ということ。

たとえば、お金が欲しいとか、地位が欲しいとか、

素晴らしい伴侶が欲しいとかが、これにあたりますね。

 

もう1つは、「マイナスはいらない」ということ。

たとえば、病気や怪我をしたくないとか、

争っている相手から離れたいとかが、これにあたります。

 

 

 

では、これら2つの、

「プラスが欲しい」と「マイナスはいらない」という、

人間の願いを、それぞれかなえてくれるのは、

理の原理と生の原理の、どちらになるでしょうか。

 

 

 

生の原理は、「プラスも、マイナスも、両方とも、ある」でした。

この原理の中には、「プラスがある」がふくまれているので、

「プラスが欲しい」という人間の願いをかなえてくれるのは、

生の原理である、ということがわかります。

 

いっぽうで、理の原理は、

「プラスも、マイナスも、両方とも、ない」でした。

この原理の中には、「マイナスがない」がふくまれているので、

「マイナスはいらない」という人間の願いをかなえてくれるのは、

理の原理である、ということがわかりますね。

 

 

 

以上、見てきたことから明らかになるのは、

理の原理は、マイナスの排除と結びついている、ということです。

JRで賞味期限切れのパンを配布。

ヤフーのニュースを見ていたら、

JR東海で、台風のために停車していた車内で配られたパンが、

じつは賞味期限切れだった、という指摘が乗客からあった、

というニュースがありました。

 

5年保存の乾パンで、賞味期限が2か月切れていたそうです。

 

 

自分だったらどうするかな、と考えてみましたが、

たぶん、自分だったら、食べないと思います。

 

 

世の中には、いろんな人がいます。

意見もさまざまです。

 

自分は、このブログで、

理の原理と生の原理について書くことがありますが、

自分が信奉し、尊重するのは、

理の原理のほうです。

 

そして、理の原理というのは、

違いを違いとして存続させることに重きをおき、

生の原理のように、

1つの意見が他の意見を強圧的に飲み込んでしまうようなことを、

否定する立場でもあります。

 

 

JRの話にもどすと、JRの車内にいたひとのなかには、

賞味期限が多少切れていたとしても自分はかまわない、

というひともいれば、

賞味期限が切れているのなら自分は食べない、

というひともいたでしょう。

 

このうち、どちらかの意見が正しくて、

どちらかの意見が間違っている、ということには、

ならないと思うんです。

 

大切なのは、選択の自由、があることです。

 

もしかりに、JRが、

「このパンは賞味期限が2か月切れています。

 それでも欲しい方は、いらっしゃいますか?」

と問いかけていたならば、

乗客の側でも、自分が欲しいのか、それとも欲しくないのか、という、

自分の考えに沿って、態度を明らかにすることができたはずです。

 

 

消費期限と賞味期限はちがう、賞味期限なら、

多少切れていても大丈夫、という意見もあるでしょう。

 

であるならば、その肝心の消費期限のほうは、

併記されていたのでしょうか。

 

賞味期限は美味しく食べられる期間、

消費期限は食べてもまずい事態にならない期間、とするならば、

消費期限の記載のほうが、よほど重要なことでしょう。

その記載は、あったのでしょうか。

 

 

JRの職員は、たしかに、親切心でパンを配布してくれたのかもしれません。

 

しかし、親切心をもちながら毒まんじゅうを配布してくれたら、

はたして、その毒まんじゅうを配布してくれた相手に、

感謝の気持ちをもてるでしょうか。

 

賞味期限の切れた乾パンは、毒まんじゅうではありません。

しかし、賞味期限の切れた食べ物を、

プラスのものと評価するか、マイナスのものと評価するかは、

ひとによって違うものであり、かつ、個人の自由です。

 

たいせつなことは、

ある意見をもつひとと、それとは異なる意見をもつひと、

その両者が、両者ながら併存できることだと考えます。