この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

生の原理と、人間の口と、生殖器。

こんばんわ。天機です。

 

最近は、この世界の不思議、にかんして記事を書いています。

近々、

人間の体には1つしかない器官と、2つある器官があるけれど、

どうしてそういう違いがでてくるんだろうね?

ということにかんして、

統一的な観点からの解釈(独自説)を展開しようと思っています。

きょうも、その前ふりです。

 

 

 

さて、人間の体は、おおきく2つにわけると、

頭部と胴体部にわかれます。

 

頭部の下のほうについているのが、

食べ物を食べるときに使う、口です。

 

胴体部の下のほうについているのが、

セックスをするときに使う、生殖器です。

 

 

口と生殖器

 

一見すると、とくに共通項はないようにも思えるこの2つの器官なのですが、

自分はここに、

「両方とも、生の原理にかかわるものである」

という、共通項があるのではないか、と考えました。

以下に、自分の考えた道筋を、順を追って説明していきます。

 

 

まず、口です。

 

口は、人間が食べ物を食べるときにつかう器官です。

飲み物を飲むときにも使います。

つまり、飲食物を摂取するときに使う器官なのですね。

 

たしかに、口は、他人と会話したり、歌を歌ったりするときにも使います。

が、たとえ他人と会話ができなくなったり、歌を歌えなくなったり

したとしても、

それでただちに死ぬわけではありません。

とするならば、口というのはやはり、

飲食物の摂取というのが、その大きな役割としてある、ということになるでしょう。

 

飲食物を摂取するのはなぜか、といえば、

自分が生きるためです。

われわれ人間はみな、他の生き物を口から摂取して、

自分の栄養分に変換していかなければ、命をたもつことができません。

口というのは、そこから食べ物をとりいれることで、

自分が生まれてから自分が死ぬまでという期間、

自分1人の命脈をたもつための器官なのです。

 

簡単にいえば、口というのは、

自分が生まれてから死ぬまで、自分1個という人間が生きるために

必要な器官、ということであり、その意味で、

口は「生の原理」にかかわっている、といえます。

 

 

 

ではつぎに、生殖器はどうでしょうか。

 

生殖器というのは、セックスをするためにあります。

なんのためにセックスをするのか、といえば、それは、

性的なたのしみを得るためにすることもあるかもしれませんが、

基本的には、次代に自分自身の子孫を残すためです。

 

ほかの多くの生き物と同様、人間もまた、

セックスをして自分自身の子孫を残すということをしなければ、

自分1個が一生を終えて死んでしまえば、それでなにもかも終わりです。

自分の骨は地中である程度の期間、存続するかもしれませんが、

自分が生きていた、ということの痕跡をとどめるようなものは、基本的に、

この地上からは消え去ってしまいます。

 

セックスをし、自分自身の子孫を残すことは、

そういった事態の回避の可能性をひらくものです。

人間であれば、お父さんの精子と、お母さんの卵子から、

つぎの子供は誕生します。

精子の中にはお父さんの遺伝子が、卵子の中にはお母さんの遺伝子が、

それぞれはいっています。

その結合によって生まれた子供の中には、言ってみれば、

お父さんの血も、お母さんの血も、流れていることになるでしょう。

 

つまり、普通ならば、自分1個という人間が死んでしまえば、

そこでなにもかも終わりのはずなのですが、

セックスをし、子供をつくることで、

自分自身が「姿かたちを変えて生き続ける」ことが可能になるのです。

 

生殖器というのは、したがって、

自分自身が姿かたちをかえて「生き続ける」こととかかわりがある器官、

ということになります。

よって生殖器は、「生の原理」とかかわりがある、といえます。

 

 

 

整理しましょう。

 

人間の体は、頭部と胴体部にわかれ、

頭部には口が、胴体部には生殖器が、それぞれあります。

口は、自分自身が一生の間生きるのに必要な器官であり、

生殖器は、自分自身が死んだ後も姿かたちを変えて生き続けるのに

必要な器官、ということになります。

 

その意味で、口と生殖器は、いずれも、

「生の原理」とかかわります。

知恵と年齢。

こんにちわ。天機です。

 

きょうは、知恵と年齢について、考えてみようと思います。

 

世の中には、若いうちにはじめたほうがいい、とか、

若い人のほうがすぐれている、若い人のほうが強い、

といわれている「分野」があります。

 

たとえば、サッカーでも、野球でも、

基本的に、肉体を使うスポーツの分野では、

若いうちにピークをむかえ、年齢がいくとともに衰えがくるのが普通です。

だいたい、30代後半から40代にもなると、

以前のようなパフォーマンスを維持することは、むずかしくなるでしょう。

 

学問の分野でいえば、

数学や物理学といった分野では、

のちに有名になるようなすぐれた才能というのは、基本的に、

わかいうちにすでにその才能が顕れていることが多いです。

 

頭脳ゲームでいえば、日本の将棋という分野においても、

のちにタイトルを争うような名棋士というのは、たいてい、

幼いころから非常に強いものです。

 

 

 

こういった例をみてくると、ああ、才能というのは、

若いうちに発揮されていればこそ、才能ある人なんだな、

と思うかもしれませんね。

 

 

でも、自分は、必ずしもそうではないのではないか、と思っています。

 

上に挙げたような、プロスポーツの世界、数学や物理学の世界、

将棋の世界、というのは、

広い広いこの世界の中の、ひとつの「分野」にすぎないのです。

 

プロスポーツの世界、数学や物理学の世界、将棋の世界、

そういったもの「だけが」この世界のすべてを代表しているわけでは、

ないんですね。

 

 

 

ぼくは、東洋思想、東洋哲学が好きなんですが、

東洋には、「仙人」がでてくることがありますよね。

 

仙人は、白い衣をまとって、杖かなにかを持ち、

白くて長いひげをたくわえたりして、頭がすごく長かったりして、

雲に乗っていたり、深山幽谷に暮らしていたりしますよね。

 

あの仙人が、あのような風貌でえがかれるのは、おそらく、

「年齢が非常に高い」からなんだと思います。

実際、仙人って、何百歳だったりすることも、ありますよね。

 

そして、仙人の仙人たるゆえんは、その、

人並み外れた、森羅万象の背後にかくれた原理に通じるような、

尋常ならざる「知恵」にあります。

そして、その仙人は、年齢が非常に高い姿でえがかれています。

 

 

 

つまり、です。

数学や物理学、将棋といった、頭脳を使う分野においては、

そのすぐれた才能は、若いうちにあらわれます。

 

しかし、この世界には、そういった知恵や知識、頭脳活動とは、

「別の種類、別の系統の」知恵や知識、頭脳活動があって、

そっちは、非常に長い時間をかけて、

才能があらわれてくるんじゃないですかね?

 

 

たとえば、こんなことを考えたりするんです。

 

ここに、半径1メートルの球があったとします。

その球の、左のはじから右のはじまで移動しようとすれば、

すぐにてっぺんまで至って、そのあとまたすぐに下降することになるでしょう。

 

でも、この球が、地球くらいの大きさがあったとしたら、どうでしょう。

てっぺんに至るだけでも、相当長い時間がかかるでしょうし、また、

容易には下降もしないでしょう。

 

 

 

この世界の知恵には、その扱う対象の「大きさ」によって、

異なる種類の「知恵」があるんじゃないかな?

 

ふと、そんなことを考えたりしました。

理の数と、生の数。

こんばんわ。天機です。

 

僕の名前である天機というのは、紫微斗数という占いのなかの、

天機星、という星の名前からとっています。

天機星という星は、森羅万象の背後に隠れた天の機密に興味をもち、

分析力がとてもすぐれているそうです。

 

紫微斗数、という占いは、封神演義、という、中国の古典文学作品

とリンクしているところがあります。

それによると、天機星があらわしている人物というのは、

太公望だそうです。

 

自分は、自分の紫微斗数の命盤で、

身主が天機星で、身宮には天機星がはいっています。

天機星と自分は、とても縁がふかいのです。

 

大学に入ったころから、自分は、精神世界のことに、

非常に強い関心をいだくようになりました。

いろんな占いにのめりこんだり、

ユング心理学封神演義老子といった本を読むようになったのも、

このころです。

 

そして、その関心は、現在に至るまで続いています。

このブログのテーマのひとつも、そういった、

この世界の隠れた真理に関するものなのです。

きょうは、そういったお話の1つです。

 

 

 

よく、この世界の真実は1つだ、なんてことが言われたりしますよね。

名探偵のコナン君なんかは、いつも、真実は1つ、なんておっしゃっています。

 

でも、自分は、この世界には、

相対立する2つの原理がながれている、と思っているんです。

 

東洋哲学には、易経の考え方がありますが、そこでは、

万物とその現象を、陰と陽、という2つの原理から考えています。

 

西洋文化の重要な礎石の1つには、キリスト教がありますが、

そのもとになった聖書には、その創世記において、

知恵の樹と生命の樹というのがでてきます。

 

自分は思いました。

 

この世界には、理という原理と、生という原理の、

2つの原理が存在するのではないか、と。

 

では、その理の原理、生の原理を象徴するような、数がもしあるとすれば、

それは、どのようなものになるでしょうか。

 

 

まず、理の原理から考えてみましょう。

 

数学では、背理法、という証明方法があります。

高校数学で、でてきます。

 

背理法をもちいて証明する、有名な高校数学の問題に、

「ルート2が無理数であることを証明せよ」というものがあります。

 

この問題を解くにあたっては、まず、

「ルート2は無理数ではなく、有理数だ」という、

仮定をおくことからスタートします。

 

有理数ならば、それは、既約分数のかたちであらわすことができます。

そこで、ルート2を、M分のN(MとNは、互いに素)という

既約分数であらわします。

 

それをもとに論をすすめていくと、やがて、おかしなことがあらわれます。

そこで、このようなおかしなことがあらわれたのは、

最初の仮定が間違っていたからだ、ということになり、

めでたく、ルート2は無理数である、ということが証明されるわけです。

 

 

この、背理法という証明方法の根幹にあるのは、

「理」のもつ性質です。

 

ルート2は無理数である、ということと、ルート2は無理数ではない、ということは、

お互いがお互いの否定になっています。

 

こういった、互いに否定関係にある2つのものは、

同時に成立することができません。

 

同時に成立すれば、それは、矛盾です。

そして、その矛盾を認めない、というのが、理の立場なのです。

矛盾を認める、というのは、理に背くこと、つまり、「背理」だと

いうわけです。

 

 

ここに1枚の画用紙を用意するとします。

 

その画用紙の真ん中に、マジックで、1つの円を描きます。

すると、画用紙のなかは、円の内側と、円の外側の2つに分かれるはずです。

 

円の内側に在って、同時に、円の外側にも在る、ということは、不可能です。

それが不可能である、とするのが、理の立場です。

 

 

こうしてみてくると、理のあるところには、

自己と、その自己の否定である他者とが、

同時に成立したり、まじりあったりすることなく、

たがいに自己と他者のまま、分かれて存在することが、明らかになろうかと

思います。

 

この、自己は自己のまま、他者は他者のまま、たがいの間にある

境界線をおかすことなく、

それぞれがそれぞれ存在することを認め、尊重する、

というのが、理の立場なのです。

 

したがって、理をあらわす数字は、2です。

自己が1つ、それの否定であり、自己に対置される存在である他者が1つ、

あわせて2つ、ということです。

 

 

 

では、生をあらわす数は、どのようなものでしょうか。

 

この世界には、いろんなものが生きています。

人間である僕たちも生きていれば、牛も馬も、豚も羊も、

鳥も魚も生きています。

 

生きているものは、いろんな活動をします。

人間だったら、歌ったり、絵をかいたり、働いたり、いろいろします。

動物も、走ったり、寝そべったり、いろいろです。

 

でも、これらの活動には、別にしなくても生きていくことには支障のない

活動があるいっぽうで、

生きていくためには、絶対に避けては通ることのできない活動があります。

 

 

 

生きていくためには、絶対に避けては通ることのできない活動、それは、

食べることです。

この世界に生きているいろんな生き物は、基本的には、

他者を食べて自分の栄養分としなければ、生きていくことができません。

 

自分と、他の生き物のあいだには、境界線があります。

その境界線をおかすことなく尊重するのが、理の立場でした。

 

生の立場は、それとは、ずいぶん異なりますね。

その境界線を無きものにして、自分と他の生き物の間にある境界をなくし、

他の生き物をとりこんで、1つになろう、というのですから。

 

生の本質のひとつは、食べること、つまりは、

自己への同化作用にあるといえます。

 

そして、この同化作用というのは、1つには、

自分と他の生き物のあいだにある区別をなくして、

「1つ」になろう、というものです。

 

そして、さらにいえば、この同化作用の行き着く果ては何か、といえば、

自己の周囲に他者として存在するものをすべて自己に同化していくことによって、

この世界にもはや自己ただ1人のみしか存在しない、

という世界をつくりあげることに他ならないのです。究極的には。

 

したがって、生の原理というものは、その本質は、

端的に言えば、食べるということに象徴される、

自己への同化作用なのですが、その同化作用というのは、

その機序においても、その究極の目的においても、

「1つ」を志向したものである、といえるのです。

 

したがって、生をあらわす数字は、1です。

 

 

 

 

理をあらわす数字、生をあらわす数字、それぞれが、

2と1である、というお話をしてきました。

 

だからなんやねん、というつっこみが飛んできそうですが、

じつは、この説明は、前ふりにすぎないのです。

 

この説明をもとにして、はじめて、

人間の体には1つある器官と2つある器官があるけれど、

どうして、そのような違いが生じているのかな?

ということに関する、独自説の展開へとつながっていくのです。

 

 

 

その独自説については、こちら

 

reasongomainstream.hatenablog.com