この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

現代社会の問題と、必要性と公平性。

みなさんこんにちわ。天機です。

(約 2400字)

 

 

 

きょうは、現代社会の問題と、必要性と公平性、

という点について、すこし考えてみたいと思います。

 

 

 

現代社会においては、日々、マスコミなどでも報道されているように、

さまざまな問題があります。

 

 

 

なかには、問題が深刻化したり、

当事者の対立が泥沼におちいったりして、

解決が容易ではないようなものも、あるわけですね。

 

 

 

天機が、そういったニュースに接していて、

そういった問題がなかなかに深刻化、複雑化するのはなぜか?

と考えてみたのですが、

もしかしたら、それは、

 

 

 

必要性の問題ばかりを声高に主張するのに、

公平性の観点が欠けているからではないか?

 

 

 

と思ったのですね。

 

 

 

たとえば、最近のニュースから拾ってみましょうか。

 

 

 

スーパーの食品売り場とかでは、牛乳とかが売られている

わけなんですが、

お客さんが、新しい消費期限のものから商品を手に取る傾向がある

ために、

消費期限の迫った商品が売れ残ることになって、

それが結果として、食品ロスの問題につながっている、

と、こういうわけです。

 

なるほど、もっともなことだなあ、と思うかもしれませんね。

 

 

 

また、あるいはこうです。

 

 

 

自然災害とかが起こった時に、

(去年も西日本の豪雨災害とか、ありましたよね)

家屋の復旧作業とかにボランティアが必要だ、

でも、そのボランティアが不足していて、我々は困っている、

と、こういうふうに言うわけです。

 

これもまた、なるほど、もっともなことだなあ、と思うかもしれません。

 

 

 

さらにあるいはこうです。

 

 

 

相続における遺産分割に関して、

たとえば、旦那さんが亡くなった時に、

奥さんが、それまでの住宅を出て行かなければならないような

ことになったら、奥さんが困るから、

「配偶者居住権」という制度を特別に設けて、

奥さんを保護しよう、

とまあ、こういうふうに言うわけです。

 

これもまた、なるほど、もっともなことだなあ、

と思うかもしれませんね。

 

 

 

でも、ちょっと待ってください。

 

 

 

これら3つの事例では、いずれも、

利害関係のある

 

 

 

相手方

 

 

 

がいますよね?

 

 

 

たとえば、スーパーの食品ロスの問題であれば、

できるだけ新鮮な食品を購入したい、

とくに値引きされているわけでもなければ、

「古い」商品を買うことを強要されたくはない、

消費者という「相手方」がいます。

 

 

 

ボランティア不足の問題であれば、

自分で交通費や宿泊費の負担までして、

けっこうな重労働に従事することになる、

ボランティアさんという「相手方」がいます。

 

 

 

さらには、遺産分割の問題であれば、

亡くなった旦那さんの奥さんに、

特別に「配偶者居住権」という権利を認めることによって、

民法で2分の1と定められているはずの、

遺産分割における取り分が、

事実上目減りしてしまうことになる、

他の相続人という「相手方」がいるわけです。

 

 

 

ところが、最近のニュースの報道の仕方とかをみていると、

「食品ロスの問題がある、これは問題だ、解決の必要がある」

「ボランティアが不足している、これは問題だ、解決の必要がある」

「亡くなった旦那さんの奥さんが困っている、これは問題だ、

 解決の必要がある」

というふうに、全部、そこで思考が止まっちゃってるんですよね。

 

 

 

現実には、

食品ロスの問題で事実上、商売をしていくうえで困っているのは、

食品スーパーの側なのですが、

そこには、できるだけ新鮮なほうの食品を手に入れたい消費者、

という、「利害の相反する相手方」がいるわけです。

 

 

 

ボランティア不足の問題で困っているのは、

被災地の自治体や被災地住民なのですが、そこには、

交通費や宿泊費を負担し、さらには重労働まで負担する

ことになるのなら、なかなかやる気が起きないなあ、

という、これまたやはり、

「利害の相反する相手方」がいるわけです。

 

 

 

遺産分割の問題であれば、

それまでの住宅に住めなくなって困るのは、

旦那さんをなくした奥さんなのですが、そこにもやはり、

自分の側の遺産の取り分が実質的に目減りしてしまうことになる

他の相続人という、

「利害の相反する相手方」がいるわけです。

 

 

 

であるならば、問題をきちんと解決するにあたっては、

「自分はこんな問題で困っている、この問題を解決する必要がある」

と主張する一方当事者の意見だけを聴くのではなくて、

その人とは利害が相反する関係にある、

他方当事者のことも考慮にいれたうえで、

その両当事者の利害や主張の、

「あいだをとるような」、そんな公平な解決策が求められている

のではないでしょうか。

 

 

 

天機が思うに、最近は、世の中のあちらでもこちらでも、

「こんな問題があって困っている、これを解決してほしい!」

と、

 

一方当事者が「必要性」を主張しただけで

 

はいはいそうですか、と、

あたかもその当事者の利益や主張を実現することだけが

当然の正義ででもあるかのように、

一種の「思考停止」をしてしまっているような例が、

数多くあるように思うのですね。

 

 

 

天機は、この世の中には、

自分の利益を主張する一方当事者がいるのなら、

たぶん、そこにはかならず、

その当事者とは利害を異にする他方当事者が存在するような

気がするのです。

 

 

 

そして、問題をきちんと解決し、

泥沼化させたり深刻化させたりしないためには、

一方当事者の意見だけを一方的にとりあげて、

そのひとの利益や主張を実現しようとするのではなくて、

互いに対立関係にある両当事者の存在をみとめたうえで、

その「中間」にあるような、

そんな解決策を模索すること、

すごく単純に言ってしまえば、この世界は、

一方当事者だけが場に存在するような、そんな

 

 

 

 

 

 

ではなくて、

対立する両当事者が、ともに折り合い、すごすことを目指すような

 

 

 

 

 

 

こそが、その基調となるキーナンバーになっているのだ、ということ、

そういうふうなことを認めて問題の解決をはかっていくこと、

それこそが、たいせつなことなのだろうと思います。