この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

樹木の分岐構造と、外理と内理。

こんにちわ。天機です。

 

 

きょうは、樹木のかたちを見ていて、天機が思ったことを書いてみようと

思います。

 

目次

 

 

 

 

 科学の特徴と、自分が目指す知恵のかたち

 

天機は、この世界にあらわれているいろんな存在や現象、

たとえば、人間のからだのかたちや、樹木のかたち、

太陽の動きや、水や火の性質、といったものの背後には、

目で見ることのできない、この世界の隠れた原理がひそんでいる

のではないか?

と考えるくせがあります。

 

 

 

自然現象の背後にあるかくれた法則をさぐる?

それって、科学やん?

と思うかもしれませんが、科学とは、ちょっとちがうんです。

 

 

 

科学って、実験や観察をしますし、いまの科学だと、

いろんな知識を勉強しないと、まず、スタート地点にも立てませんよね?

 

それに、科学っていうのは、

だれか1人、圧倒的な知力を持つ「唯一者」みたいなひとをつくらない

学問体系なんですよ。

 

科学年表なんかみたら、わかるかもしれません。

〇〇年には✕✕というひとが△△という発見をした、

みたいなことがずらーっと書いてあって、

だれか1人だけがめちゃくちゃ偉い、ってことには、

科学では、ならないんですね。

 

科学の業績に関して偉い人、っていうのは、

いっぱいいるわけです。

 

 

 

自分の目指すもの、っていうのは、そんな、科学とは、

ちょっとちがうんです。

 

まず、自分は、誰もが知っているような、ごくごくあたりまえのものや、

ごくごくあたりまえのことに、非常に注目します。

 

科学が追い求めるような、

誰も知らないような細かな知識、では、ないんですね。

 

そして、実験や観察を使いません。

自分の頭の、思考だけをたよりに、あゆんでいきます。

 

なんだか、このほうがわくわくするんですね。

 

科学っていうのは、先人の膨大な業績があって、

科学をこころざすものがそれにつけくわえる業績なんて、

ほんのちょびっと、さきにすすめるだけですやん?

 

なんだか、科学における素晴らしさや偉大さ、といったものは、

人間から離れて、人間の外に、客観的に存在していて、

科学をこころざすものは、その体系に使役される走狗、

のような感じがするんですよね。

 

自分の目指すものは、それとはちがいます。

 

自分は、ある特殊な知恵や知識を得た者は、

その人自身が、特殊なパワーを得る、というような、

科学的な知識とはちょっとちがう知恵をもとめています。

 

とある魔術の禁書目録」というアニメでは、

科学と魔術の交錯が描かれていましたが、

自分の目指す知恵、というのは、どちらかというと、

魔術、にかんする知恵のようなものです。

 

とはいうものの、ハリーポッターででてくるような魔術、

でもないんです。

 

自分の目指す知恵、というのは、

商人が商品を媒介するように、教育者から生徒へと、

「伝達」されるものではない、と思っています。

だから、「魔法学校」のようなものは、原理的にありえないんです。

 

自分の目指す知恵は、自分の思考だけをたよりに、

自分自身で見出していくものであって、その知恵は、

学校で学べばだれもが手に入れられるようなもの、ではなくて、

知恵の持ち主を選び、なかには、その知恵にたどりつけないようなひとも

ざらにいる。

そんな知恵です。

 

 

 

理のかたち、って、なんなんだろう?

 

話がそれました。

 

では、樹木のかたちについて、自分が考えたことの説明に入っていきましょう。

 

ですが、その前段階として、「理のかたち」について、

説明する必要があります。

 

 

 

理のかたち、って、なんなんだ?

理に、かたちなんてあるのか?

と思われるかもしれません。

それについて、説明してみましょう。

 

まず、理というのは、どういうものであったか、というと、

「自分とは異なる他者が存在することを認め、尊重する原理」

というのが、理の原理なのでした。

 

つまり、違い、に立脚するのが、理の原理なのです。

 

画用紙が1枚あったとして、その真ん中に、マジックで円を1つ描くとします。

すると、画用紙の中は、円の内側と、円の外側にわかれます。

円の内側にありながら、同時に、円の外側にもある、なんてことはできませんね。

その意味で、円の内側と、円の外側は、

おたがいがおたがいの否定、という関係になっています。

このかたちも、理、なんです。

 

 

 

植物の分類図にあらわれた、樹形図のようなかたち

 

ところで、みなさんは、小学校か中学校にいたときに、理科の授業で、

「植物の分類」について、習ったことはないでしょうか?

 

植物を分類して、それを系統図のようにまとめたものも、

もしかしたら、見たことがあるかもしれません。

 

たとえば、種子植物の分類図、について、考えてみましょう。

 

まず、植物、というのが、

種子をつくるかどうか、という点で、2つに分岐します。

種子をつくる、というのが、種子植物、といわれる植物になります。

 

「種子をつくる」というのと、「種子をつくらない」というのは、

おたがいがおたがいの否定になっています。

 

さらに、種子植物は、

胚珠がむきだしになっているかどうかで、やはり、2つに分岐します。

 

胚珠がむきだしになっていないものが被子植物

むきだしになっているものが裸子植物、ということになります。

 

「胚珠がむきだしになっている」というのと、

「胚珠がむきだしにはなっていない」というのは、

やはり、おたがいがおたがいの否定になっていますね。

 

その下のほうへと、さらに見ていくと、

双子葉類と単子葉類の分岐であったり、離弁花と合弁花の分岐であったり、

というのがありますが、

その、各々の分岐ポイントにおいては、やはり、

分岐する2つのもの、というのは、おたがいがおたがいの否定になっている

ことがわかります。

 

 

 

 樹形図のようなかたちと、理の関係

 

おたがいがおたがいの否定、という関係になっていて、

その両者は異なるものとなり、異なるものどうしがともに併存する関係、

というのが、理の原理をあらわすものでした。

 

そして、おたがいがおたがいの否定になるような関係は、

「分岐」というものにもあらわれるわけなんですが、

この「分岐」をつぎつぎにかさねていくと、

上の図でみたような、「樹状分岐構造」を、やがては形成していくことになります。

 

樹状分岐構造、というふうに、むずかしい言葉で言ってみましたが、

これは、自分のまったくの造語です。

樹木の枝が、つぎつぎと枝分かれしていくように、

上の、種子植物の系統図も、上から下へと見ていくと、

つぎつぎに、枝分かれして、分岐していっていますね。

 

これらのことをあわせて考えてみると、

「樹状分岐構造」というのは、「理」があらわれた、

ひとつのかたちなのではないだろうか?

ということに思い至ります。

 

理には、理のかたち、というのがあって、

その、理のかたち、の1つが、樹状分岐構造なのではないだろうか?

そんなふうに、天機は考えました。

 

 

 

 樹木のかたちにひそむ、理

 

では、この自然界の、具体的な存在や現象を思い浮かべてみたときに、

この「樹状分岐構造」を形成しているようなものは、

たとえば、なにかあるだろうか?

つぎつぎと枝分かれしていくような、そんな形をしているものって、

なにか、あるだろうか?

 

 

 

そう考えたときに、天機が思いついたのは、

「樹木のかたち」なんですね。

 

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ある程度の高さをもった樹木であれば、

樹の幹から枝がつぎつぎと分岐して、大空へとひろがっていく様子が

見て取れます。

 

とすると、「樹木」というのは、「理」に関係するなにかなんじゃないか?

そんなふうに、天機は考えたんですね。

 

 

ただ、天機はその後、あることに気がつきました。

 

樹木というのは、地面よりも上の部分では、

枝が天空に向かって分岐しているけれども、

地面より下の部分でも、やはり、

「根」というのが、地中深くにむかって分岐しているよな。

これは、いったい…?

と思ったんですね。

 

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樹木の「枝」と「根」、そして、2種類の「理」

 

そこで、天機は、つぎのようなことを思いつきました。

 

理、理、というけれど、

この世界においては、理には、1種類の理だけがあるのではなくて、

ちょうど、

樹木が天空においては枝を分岐させ、地中においては根を分岐させるように、

いわば、

「外理」と「内理」とでもいえるような、

2種類の理が存在するんではなかろうか、と。

 

 

 

さらに、そこから、樹木の「枝」と「根」の性質を考えて、

つぎのようなことを考えました。

 

 

樹木の枝葉というのは、日当たりのよい方向へとのびる性質があります。

日当たりの、日、というのは、太陽のこと、つまりは、火のかたまりです。

 

それにたいして、根っこの役割というのは、

水分を獲得してくることです。

 

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とするならば。

 

さきにのべたような、「外理」と「内理」とでもよべるような、

2種類の「理」については、

そのうちの一方の理は、「火に象徴されるような原理」を追求する理である

のにたいして、

もう一方の理は、「水に象徴されるような原理」を追求する理なのではないだろうか。

 

そんなことを考えたんですね。

 

 

 

きょうは、そんなお話でした。