この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

終末医療の推進をーただ生きていればいいのだろうか。

京都市が配布した終末医療の指示書に関して、

人工呼吸器などをつかって生きるという選択肢が奪われてはならず、

生きている命にこそ価値がある、とする弁護士などが反対の声明を出した、

とヤフーニュース。

 

自分は、この弁護士たちの考えには、賛成できない。

ただ生きていればよいのではなく、善く生きることが大切だ、

と言ったのは昔の哲学者だったと思うが、

物理的にただ生命活動が存在する、ということには、さほどの価値はなく、

どのように生きているのか、という、その生命(いのち)の質こそが、

問われるべき大切なことだと思う。

誤解しないでほしいのは、社会のために役立たない存在になったら、

その生命は無用だ、などと言っているのではない、ということだ。

いのちの質に関しても、社会のために役立っているかどうか、という

観点を、唯一の判断基準としてはならないことは、もちろんのことである。

その意味で、社会の役にも立たない人間を税金を使って延命するのは

費用の点でも無駄だから、といった考えは、

自分の考えとはちがう。

 

ただ生きるのではなく、よく生きるということ、

そのいのちの質を問うということは、

自分自身がどのように生きていくのかという、

自己決定の視点がとても大切なものになってくる。

他人からみて意味のないような生命、人生にたとえ見えたとしても、

自分にとって意味のある生命、人生であると感じられるならば、

その生命、人生は、生きるに値するということだ。

ひるがえっていえば、自分自身が、そのような生命、人生のかたちであれば、

もはやそれは生きていても意味がない、と感じるのであれば、

その生命、人生は、生きるに値しないということだ。

 

他人が、人工呼吸器を使って延命するなんて無駄だから、

あなたの意思とは関係なく治療は終了しますよ、なんていうのなら、

それは、とても恐ろしい世界だ。

自分が人工呼吸器によって生きる生命、人生に価値を見出すのなら、

その生きるという権利は、絶対に侵されてはいけない。

 

ただ、反対に、人工呼吸器を使ってただ生命を長らえさせているだけの

ような生命、人生には、もはや生きる価値がない、と本人が考えるのならば、

そのような本人の意思、自己決定もまた、

同様に尊重に値する、ということなのだ。

生きているいのちにこそ価値がある、という考えは、

ひとつの考えであって、

その考えを受け入れるひとも、そうでないひともいる。

その価値判断は、絶対的なものではない。

人工呼吸器をつかって生きたい、という判断は、

他者から侵害されてはならないものだが、

人工呼吸器をつかうのならもはや生きたくはない、という判断もまた、

同様に尊重されるべきだ。

京都市が、終末医療に関する考え方や指示書のたぐいを一方的に策定し、

押し付けるのならば、問題が非常に多いといわなければならないが、

ひとつの考え方として提示するにとどめ、

それを採用するのかどうかは個人の自主的判断にゆだねられるのならば、

問題提起という観点からも、自分は、

認められてよいものではないか、とも思う。

フランス大統領選挙ーEUは安堵できない。

フランス大統領選挙は開票の結果、マクロン候補とルペン候補が

決選投票にすすむことになった。

世論調査によると、決選投票ではマクロン候補が圧勝する可能性がたかく、

親EUであるマクロン候補が大統領になることで、

EUは安定化に向かうとの観測がある。

 

本当にそうだろうか。

今回の選挙では、各候補の得票率が、

マクロン候補 24%

ルペン候補 22%

フィヨン候補 19%

メランション候補 19%

となっている。

このうち、ルペン候補とメランション候補は、

反EUであるか、EUに懐疑的だ。

得票率をみると、フランス国民のおよそ半数は、

EUに懐疑的な候補に票を投じたことがわかる。

たとえ、親EUである候補がフランス大統領になったところで、

フランス国民のあいだにくすぶる反EUの声を完全に消し去ることは、

むずかしいのではないだろうか。

 

そして、今回の選挙結果は、またしても僅差であった。

またしても、というのは、ここ最近、世界のさまざまな選挙で、

僅差での決着が顕著に増加しているからだ。

英国のEU離脱をめぐる国民投票も、

トランプ氏を選出したアメリカ大統領選挙も、

僅差での決着だった。

今回のフランス大統領選挙も、

4候補がほぼ横一線にならんだ。

電子はなぜ、陽子と中性子のまわりをまわっているのか。

この世界に存在するものはすべて、原子からなると言われている。

原子は、中心に陽子と中性子があって、

そのまわりをぐるぐると、電子がまわっているそうな。

なんで、そんな構造になっているんだろう。

そんなことを考えた。

 

世界のはじまりに、矛盾というはじまりの女性がいた。

その女性において矛盾が形成されたとき、

その世界にはもはや存在することのできなくなった理が、

外部世界へと放出される。

これが、はじまりの女性である矛盾による、

第一子となる息子、理の出産である。

放出された理は、遠くへ遠くへと旅立っていく。

そして、それが究極的に遠くなったとき、

はじまりの母のもとへと帰ってくる。

はるかかなたから帰ってきた理は、

原初の母へとつっこんでいく。

つまり、母へむかって落ちていく。

 

地球のまわりを月が回っているのは、

地球の重力に引かれて、月が「落ち続けている」からだそうな。

はじまりの母へ向かって落下していった理は、

ちょうどそのように、

はじまりの母のまわりを周回運動するようになる。

つまり、はじまりの母と、はるかかなたから帰ってきた理の、

2人の「重なり」は、

母のまわりを周回運動する理、というかたちをとる。

ここにおいて、はじめて「存在」がうまれる。

だから存在はすべて、

陽子と中性子のまわりを電子が周回するという形態をとる。

このことから、

自然界における電子には、理と相通じる性質があることがわかる

(たぶん、精子にも)。