この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

水と火。

ここに、1本のろうそくがあって、火がついているとする。

ろうそくにともった火なんかは、

大きさとしてはとても小さなものだ。

でも、もしそこに赤ちゃんが近づいたら、

お母さんはあわてて止めようとするだろう。

火には、やけどその他の危険がある。

そして、火に特徴的なのは、火は、

自らが危ない存在だ、甘く見てはいけないよ、

ということを、

どんなに小さな火であっても、外界に対してはっきりと

しめしている、ということなのだ。

 

対して、水はどうだろう。

ここに、おちょこ1杯の水があったとする。

大きさとしては、ろうそくの火よりは、大きいかもしれない。

そこに赤ちゃんが近づいたら、どうだろう。

お母さんははたして、さっきのろうそくの火のときと

同じような危機感をもって、赤ちゃんを制止するだろうか。

 

もちろん、制止はするかもしれない。

しかし、赤ちゃんに迫った危険は、火ほどではない、

というような認識が、どこかにあるのではないだろうか。

 

と、このように述べてくると、あたかも、

火は危険だけれど、水はそれほど危険でもない、

ということが言えそうな気もするよね。

でも、果たしてそうだろうか。

 

火も、水も、大きくなれば、

人とその生活に、とてつもない災禍をもたらす危険性をもつようになる。

火は大きくなれば、大火となって街をのみこむ。

江戸の町は、しばしば大火に見舞われたことで知られる。

 

しかし、大火よりももっとおおきな規模で害をもたらすのは、

水害だ。

東日本大震災のニュース映像を見たことのあるひとならば、

迫りくる津波がどれほどの損害をまちにあたえたか、

記憶にあたらしいところだろう。

津波にかぎったことではない。

人類は、古代エジプトの昔から、河川の氾濫にはなやまされてきた。

大雨や嵐の害も大きい。

そういったもろもろの水害が発生すれば、

火災などとは比べ物にならないほどの被害を広範囲にもたらす。

 

では、そんな危険性をもつ水は、

自分が危険だということを、外界に対してはっきりとしめすだろうか。

 

これが、しめさないのである。

水は、平素は、あたかも楽しい友達であるかのようにふるまう。

コップ1杯の冷たい水は、夏場の喉の渇きをいやしてくれる。

お風呂につかれば芯からあったまるし、

プールや海で泳ぐのは、とても楽しいひとときだ。

ああ、水っていいよね、楽しいよね。

そう、思っていたら、水は時としてひとに牙をむき、

溺れさせたり、街を破壊したりする。

水のやっかいなところは、自分が危険だということを、

ふだんの小さな水の時は、まず、さとらせないところなのだ。

 

いつもニコニコ笑っていて、ああ、女の子って可愛いな、

なんて思っていたら、

心の中では、とてもおそろしいたくらみをめぐらしていたりする。

水というのは、

たくらみを秘めた女性の心に似ている。

連続する現金強奪事件。情報はどこから漏れたのか。

昨日、福岡で3億円以上の現金が強奪される事件があったばかりだが、

今日も、銀座で数千万円が強奪される事件があったと報道されている。

 

ふつうのひとは、道を歩いているそのひとが、

多額の現金を持っているかどうかなんて、知りようがない。

だが今回、被害にあった男性は、多額の現金を持ち歩いているところを、

ドンぴしゃで狙われた。

 

多額の現金を動かすことのある会社の動向が、まえまえからマークされていたのか。

現金を引き出す、と連絡した、銀行の通信回線が盗聴されていたのか。

真相はさだかではないが、

情報がどこから漏れたのかということを徹底的にあきらかにしないと、

今後も類似の事件が続発するのを防げないような気がする。

数と、言葉。

数も、言葉も、この世界の真実をつかもうとして

人間がうみだしたものだ。

しかし、その真実のつかみ方には、違いがある。

 

数は、数字は、世界で基本的に共通だ。

そして、おそらく数式や演算の規則、数学の公式も同様であろう。

3+3=6、3✕3=9、といった数や数式は、おそらく、

世界のどこであってもこのようになるだろう。

その意味で、数における真実とは、

具体的な数や数式という、かたちのあるものとなっている。

真実ってなに?と聞かれれば、

これこそが真実なんだよ、と言って、数や数式といった

具体的なかたちあるものを指し示すことができる、ということだ。

 

対して、言葉はどうか。

言葉は、こんにちは、というあいさつひとつとっても、

こんにちは、ニーハオ、ヘロー、アンニョンハセヨ、といったように、

さまざまな表現がある。

世界中で、さまざまなちがった言葉が、いろんなことを表現するのに

使われている。

そして、言葉に関しては、

英語の表現だけが真実をあらわしていて、日本語の表現は真実を

あらわしていない、とか、

中国語の表現だけが真実をあらわしていて、韓国語の表現は真実を

あらわしていない、とか、

そういったことは、ないわけである。

世界中にあるさまざまな言葉の中には、どの言葉の中にも、

「真実のかけら」がふくまれている。

だが、真実そのものを総体的にしめしているような、

唯一の言葉、などというものはない。

そこが、数や数式とちがうところだ。

さまざまな違った言葉が、真実をとらえようとしている。

ある言葉はある角度から、べつの言葉はべつのちがった角度から、

といったように。

しかし、真実そのものは、そういったさまざまな実際の言葉からは

はなれて、その言葉群のいわば「あいだ」に、

かたちのないものとして存在しているのだ。

 

数における真実は、数という具体的なかたちをとった真実である。

言葉における真実は、個々の具体的な言葉からははなれた、

かたちのない真実である。

 

最近では、するひとも少なくなったかもしれないが、

昔の日本には、お月見をする習慣があったようだ。

月の光は、美しくきれいだ。

みな、その月を見上げて、自分の視界にいれて、

ああ、きれいだね、という。

 

が、その月の光は、太陽の光を反射したものだ。

月自身が光っているわけではない。

月は、太陽の光を、「間接的に」つたえているだけなのだ。

 

じゃあ、太陽の光については、どうだろう。

みな、太陽を見上げて、ああ、太陽の光だ、きれいだね、

とやるだろうか。

 

たぶん、やらないだろう。

というのも、太陽の光はまぶしすぎて、直視することがむずかしいからだ。

とても、きれいだね、なんて言っているような、余裕はもてない。

太陽の光は、人間の日常生活にも、さまざまな生き物が生きていくうえでも、

不可欠な、大切な役割を果たしている。

昼間であれば、地上には日の光があふれている。

みな、その光を、当然のものと思って生活している。

だれも、光は太陽のおかげだ、なんて思いながら、

太陽を見上げたりはしない。

 

月の光は、美しく見える。

それは目で、観察するのに適する。

太陽の光は、べつに美しくは見えない。

それは目で、観察するのはむずかしい。

 

自分は、こんなふうに思った。

真実には、2種類あるんじゃないか。

かたちのない真実と、かたちのある真実が。

そして、かたちのない真実は、感覚器官をつうじた観察がむずかしい。

かたちのある真実は、感覚器官をつうじた観察に適するが、

それは真実そのものではなくて、

かたちのない真実を反射したものにすぎない。

そんなふうに、ふと思った。

 

最後に、もう一度、数と言葉の話にもどると、

数というのは、世界で共通だ。

アラビア数字の3を書けば、たぶん、世界のほとんどの地域で

それが3だとわかってもらえるだろう。

その意味で、数というのは、ひとびとのあいだに壁をつくらない

原理と関係している。

それに対して、言葉というのはたいてい、民族によってことなる。

その国の言葉をまったく知らないで、外部者がある国を旅するのは、

たぶん、けっこうしんどいことになるだろう。

その意味で、言葉というのは、ひとびとのあいだに壁をつくる

原理と関係している。

注意したいのは、数は壁をつくらないからいい、

言葉は壁をつくるからよくない、ということには、

かならずしもならない、ということだ。

壁には壁の役割がある。