この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

可能性と境界線 1

可能性とはなんだろうか。

われわれは、いろんなところでこの可能性という概念をつかって

物事を考える。

 

明日の降水確率は50%です、というとき、

だいたいそれは、明日雨が降る可能性が50%である、

というような意味でつかわれる。

 

可能性はまた、人間の能力についてもつかわれる。

できる、能力がある、ということだ。

彼は水泳をすることが可能だ、という場合、

彼は泳ぐことができる、ということを意味する。

 

この可能性というものは、飲み物をいれるコーヒーカップ(CUP)のような

器や、絵を描くためのキャンバス(CANVAS)に似ている、とおもう。

 

カップがあれば、そこに飲み物を満たすことができる。

満たさないこともできる。

 

満たすかどうかは自由で、満たすことも満たさないこともできる。

だが、満たそうと思えば、いつでも満たせる。

 

それは、カップとして、ある空間が無の状態で確保されているからだ。

 

もし、このカップの中に最初から鉛かなんかが入っていて充満している

なら、飲み物を入れようとしても入れることができない。

その意味で、このカップは、内部が無の状態で保たれている必要がある。

無の状態で保たれていればこそ、その空間を飲み物でうずめることが

できるのだ。

 

でも、ただ単純に無であればいいかというと、そうでもない。

もし、このカップの中の無の空間というものを実現している、

外側のカップそのものが消え去ってしまえば、

やはり、飲み物を注ぐことはできなくなってしまう。

 

空中に飲み物をポットからそそげば、じゃーと床にこぼれ落ちる

だけだろう。

 

 

おなじようなことは、絵をかくためのキャンバスについてもいえる。

 

ここにキャンバスがあれば、そこに絵をかくことができる。

絵をかかないこともできる。

 

絵をかくかどうかは自由で、かくことも、かかないこともできる。

でも、描こうと思えば、いつでも描ける。

 

それは、キャンバス上の平面が、白紙の状態で確保されているからだ。

 

もし、このキャンバスのうえに最初から水墨画かなんかが描いてあったり、

真っ黒なペンキで塗りつぶされていたりすれば、

自由に絵を描こうとしても、なかなか難しいにちがいない。

 

その意味で、キャンバスは白紙の状態で保たれている必要がある。

白紙の状態であるからこそ、そのうえにあらたに絵をのせることができる

のだ。

何も描かれていないという意味において、キャンバスの上はやはり、

無である必要があるのである。

 

しかし、絵を描くための場であるキャンバスそのものが消え去ってしまえ

ば、やはり、絵を描くことはできない。

空中に絵筆をはしらせてみたところで、絵の具がぽたぽたと床に

飛び散るだけで、絵は描けないにちがいない。

 

さきに、可能性があるということについて、

明日雨が降る可能性がある、とか、彼は水泳をすることが可能だ、

みたいな例をだして話をしてみた。

 

明日雨が降る可能性がある、というのは、可能性の段階である。

これが実際に明日になると、

雨が降ったよ、とか、雷雨だったよ、とか、小降りだったよ、とか、

曇りだったよ、とか、晴れていたよ、とか、実際になにかが発生する。

これが、現実化の段階だ。

 

彼は水泳をすることが可能だ、というのは、可能性の段階である。

これが、

彼は去年は海で泳いだよ、とか、

先月の第3日曜日に彼はプールで泳いだよ、とか、

彼は先週の金曜日はおなかが痛くて泳がなかったよ、とか、

実際の行動になってあらわれる。

これが、実行の段階だ。

 

可能性がある、可能である、能力があるというのを、

英単語のCANであらわし、

現実化する、実行するというのを英単語のDOであらわすとすると、

アルファベットのCのあとにDがくるように、

CANのあとにDOがくる。

CANという可能性があって、それがDOという現実化でみたされる。

CANという能力があって、それがDOという実行でみたされる。

 

もしこれが、CANという可能性、能力すらなかったとしたら、

DOという現実化、実行はきっと発生しないにちがいない。

 

明日雨が降る可能性はありません、というのならば、

雨が降るということは決してない。

彼は水泳をすることが可能ではありません、というのならば、

彼が水泳をするということは決してない。

 

もういちど、コーヒーカップやキャンバスの例に戻って考えてみよう。

コーヒーカップは、内部に無を確保していたからこそ、

その無を飲み物で充足することができた。

 

しかし、その確保された無、という場そのものがなくなってしまえば、

もはや飲み物をそそぐことはできなくなってしまった。

 

キャンバスは、そのうえに無を確保していたからこそ、

その無をあらたな絵で充足することができた。

 

しかし、その確保された無、という場そのものがなくなってしまえば、

もはや絵を描くことはできなくなってしまった。

 

この2つの例にあげた無というのは、実際の物理的な空間としての無

であったが、可能性という抽象的なものについて考える際には、

その無(VACANCY)というのを、抽象的な無に敷衍して考えることができる

のではないだろうか。

 

雨が降るという可能性の後には、実際に雨が降るという現実化がひかえていて、

水泳ができるという能力の後には、実際に泳ぐという実行がひかえている。

ここでは可能性は、実際の現実化や実行というものによって充足されうるという

意味では無となっている。

 

実際に現実化や実行が行われないかぎり、現実の現象や行為はなんら発生して

いない。その意味では無である。

 

しかし、その無は、無として確保されていなければいけない。

もしかりに、雨が降る可能性そのものがありませんよ、ということになれば、

雨は絶対にふらなくなるし、

泳ぐ能力そのものがありませんよ、ということになれば、絶対に泳げなくなる。

 

つまり、可能性においては、現実化や実行を受け入れる場としての無は内包

されているものの、可能性そのものが無というわけではないのである。

 

無のようにみえて、無とはわずかに異なるもの、

そこに可能性の本質の1つがあるように思える。

 

宇宙は真空を嫌う、という言葉があるが、真空というのは、

容易に他のなにものかによってうずめられやすい性質をもつ。

 

無というものも、それがなにもない、という意味であるのならば、

その無は簡単になんらかの実体によってうずめられてしまうかもしれない。

無に対する、実体による圧縮がおこってしまうのだ。

しかし、可能性における無は、無ではあるものの、その無は確保された無

なのである。

 

外部からその無を圧縮して、実体でもってうずめてしまおうとする動きに

対して、無を無として存立させようとする、

外的抵抗性をもった無なのだ。

なぜ、おっぱいは2つなのか? 2

※ 過去記事は、こちらから↓

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

 

 

 

この世界のはじまりのお母さんというのも、

そのお母さんが生み出した2人の子供というのも、

これがお母さんですよ、これがその子供ですよ、というふうに

具体的なかたちをとってあらわれる実際の存在ではなく、

抽象的な原理をあらわすものだろう、と書いた。

では、その原理とはなんだろう。

 

まずひとつめは、頭髪が守っている頭部である。

頭部はなにをするところだろう。

ここで注意しなければいけないのは、このブログの別の記事でも書いたが、

この世界の秘密は、ひとつには「人間の」からだにあらわれる、

ということだ。

人間以外のさまざまな生き物のからだにもこの世界の秘密が

あらわれる、と解釈すると、間違うことになる。

もちろん、人間以外の生き物のからだについても考えてみることで、

この世界についてのある種の洞察はえられるかもしれない。

が、旧約聖書の創世記にかかれているように、

あくまで人間というのは、ほかの生き物とは異なって特別なのだ。

ここをおさえる必要がある。

だとすれば、頭部というのはもちろんほかの生き物にも存在する

わけだけれど、

ほかの生き物とはちがってとくに人間の頭部だけがおこなうはたらき

とはなんですか、というのが、ここでたてられるべき問い、

ということになる。

 

人間の頭部は、なにをするところだろう。

それは、考えることをおこなう場所だ。

人間は、考えるということができるから、ほかの生き物ではなしえない

ような、文明を築くということも可能にしてきたのだ。

判断する。区別する。道理に従って考える。

理性によって思考する。

そういったことをおこなうのが、人間の頭部だ。

もちろん、人間の頭部には、頭がい骨があり、そのなかに脳みそが

おさまっている。

しかし、ここで守られているのは、そういった具体的な生物学上の

器官ではなく、原理だといった。

とするならば、理性や思考、判断をつかさどる頭部を守っている

頭髪が守っている抽象的な原理とは、

「理」ということになる。

つまり、はじまりの母親の子供のうち、ひとりは「理」という原理を

あらわしている、ということになる。

 

では、陰部を守っている陰毛は、いったい、どのような原理を守って

いるのだろう。

ここに存在するだろう、もう1人の子供は、いったいなにをあらわして

いるのだろう。

 

ものごとを考え、判断する際には、細かいところをなおざりにせず、

注意深く、慎重に、ねちねちと考え抜いていく必要がある。

陰毛というのは、おちんちんと、おまんこのまわりに生える。

でも注意したいのは、この陰毛というのは、生まれた時から生えて

いるわけではない、ということだ。

陰毛が生えるのは、思春期からなのである。

思春期になると、男子は精通があって射精をはじめるようになり、

女子は初潮があって月経がはじまるようになる。

が、おちんちんとおまんこそれ自体は、うまれたときから存在する。

おちんちんはおしっこをする際に使用し、おまんこの近くにも尿道

があって、やはりおしっこがでてくる。

しかし、幼児期においては、陰毛はいまだ生えていない。

とするならば、陰毛はまず第一に、泌尿器に象徴されるような、

泌尿作用、排せつ作用という原理を守っているわけではない、

ということである。

陰毛は、思春期の開始とともにはえてくる。

思春期の開始とともに顕在化してくる原理とはなんだろう。

 

それは、生殖作用だ。

男子の射精も、女子の生理も、みな、次代に子孫をのこしていく

ためにおこなわれるものだ。

陰毛は、この生殖作用が顕在化してくるまでは決してはえてはこず、

生殖作用が顕在化してくるとともにはえてくる。

とするならば、陰毛が守ろうとする原理は、おそらく、

生殖作用に関係がありそうだ、ということがわかる。

 

ここで、この原理をさらに突き詰めて抽象化するために、

生殖作用とはなんぞや、ということを考えてみる。

人間は、生まれてから死ぬまで、他の生き物を食べて生きていく。

これは、1人の人間が生まれてから死ぬまでの、

1つのサイクル、プロセスだ。

このプロセスは、なにもしなければ、その1人の人間が死亡した

時点で終わりをつげる。

ところが、生殖作用をおこない、子孫を残すという選択をすることで、

その人間が死亡したあとも、そのプロセス、サイクルを終了させずに、

別のかたちで次につなげていくことができる。

1人の人間が自分の一生をいきていくためには、食べるための口が

あればよく、生殖器官はかならずしも必要ではない。

現に男性であれば、食べないで生きていくことは不可能だが、

射精を我慢しながら生きていくことは、かならずしも不可能ではないだろう。

口がなければ生きてはいけないが、性器を切断したとしても、

古代中国の宦官のように生きていく例は存在するのだ。

 

しかし、自分が死んでしまったとしても、

「なおもべつのかたちで生き続けたい」という願いをもったとき、

生殖器官と生殖作用が必要になる。

食べるというのは、自分1人が自分の一生を生きるためであり、

生殖作用をおこなうというのは、自分が死んでしまったとしても、

そのあともなお生命のプロセスを絶やさない、生き続ける、

ということのためである。

ということはつまり、生殖作用は、より長いスパンでの、

「生きる」ということにかかわる。

であるならば、陰毛が守っている抽象的な原理とは、

「生」ということになる。

つまり、はじまりの母親の子供のうち、もう1人は

「生」という原理をあらわしている、ということになる。

 

はじまりの母親がいったい、どのような原理をあらわしているのか、

ということについては、まだここでは言及しなかったが、

その2人の子供は、「理」と「生」という原理をそれぞれあらわしている、

と考えてきた。

こう考えてきたのも、人間の体に注目したからで、

おっぱいが2つある→子供が2人いる→実際の人間の子供は

2人とはかぎらない→その子供は実際の子供ではない→

抽象的なこの世界の原理に関わる→頭部と陰部には集中して

毛が生えている→そこにこの世界の2人の子供が存在するから

守られている→その2人の子供とは?→頭部と陰部のそれぞれの

はたらきから抽象的に帰納して考える→理と生ではなかろうか、

という思考過程をたどってきたわけだ。

 

はじまりの母というのが、この世界のはじまりにあって、

その同じ母から2人の子供がうまれた。

その子供は、1人が「理」、もう1人が「生」。

同じ母からうまれた以上、この理と生のあいだには、

兄弟関係、姉妹関係がある。

そして、頭髪は最初からはえているが、陰毛はあとからはえてくる

ことを考えると、

兄や姉にあたるのが理、弟や妹にあたるのが生、

ということに、たぶんなるのだろう。

自分は、この理のほうが兄、生のほうが妹、と考えている。

なぜ、性別がわかれるのかについては、

はじまりの母から理と生がそれぞれうまれてきた生成過程にかかわる

のだが、それはまた別の記事で。

 

 

樹木のかたちと、この世界の秘密。

樹木というのは、あちこちにある。

街並みをあるけば街路樹があるし、山林にももちろんある。

 

樹木というのは、たいていは似たり寄ったりなかたちをしている。

大地に根っこをもち、地面からしばらくの高さまでは、

太くてごつごつし、地味な色合いの1本の幹がのびていく。

しばらくの高さになると、枝分かれしていく。

そして枝はつぎつぎと分岐し、その先端に葉っぱや実をつける。

 

この樹木を思い浮かべて、自分はこんなことを考えた。

この樹木のかたちというのは、この世界のかたちに似ているのではないか、

と。

 

この世界というのは、森羅万象といわれるように、

数限りないいろんな分野に分岐している。

自然界を見渡してみれば、大空があり、大地があり、

山があり、海があり、野原があり、川があり、

水があり、火があり、雷があり、風がある。

生き物でいえば、犬がいて、猫がいて、クマがいて、キリンがいて、

ゾウがいて、ヤマアラシがいて、ハチがいて、コオロギがいる。

人間でいえば、お父さんがいて、お母さんがいて、

おじいちゃんがいて、おばあちゃんがいて、お兄さんがいて、

お姉さんがいて、おじさんがいて、おばさんがいて、

学校の先生がいて、近所のおじさんがいて、新聞を配達するひとがいて、

お医者さんがいて、会社の上司がいる。

書店にいけば、森羅万象の分岐はあきらかだ。

物理学、化学、生物学、天文学、電気工学、医学、薬学、看護学

数学、コンピュータ、文学、小説、料理、占い、旅行、スポーツ、

鉄道、車、手芸、将棋、囲碁、マージャン、コミック、

さまざまなコーナーがあるはずだ。

 

森羅万象といわれるような、この無限にもみえる分岐というのは、

樹木でいうと、ある程度の高さより上の部分の、

枝葉がどこまでも分岐していく部分にあたるのではないか。

とするならば、

樹木でいうとそのたくさんに分岐した枝葉のしたの部分には

ただ1本の太い幹があり、分岐した枝葉もただ1本のその太い

幹へと回帰していくように、

無限に見えるようなこの世界の森羅万象の背後、根源には、

なにか根本となるような深遠な1つの原理がかくれていて、

森羅万象の存在や現象も、みな、そこに帰着していくのではないか。

そんなふうに考えた。

 

では、そんな森羅万象のかえっていく、この世界の根本原理、

世界の秘密、真理、からくり、枢機は、

いったい、どんなところにかくれているのだろう。

じつは、これについても、樹木の形状が示唆を与えてくれるのかも

しれない、と考えている。

 

樹木というのは、四季折々の変化をみせる。

春になれば、梅や桜といった樹木は花を咲かせる。

「やあ、きれいだね」と言って、ひとは、お花見をしたりする。

夏になれば、枝は緑の葉っぱでぎっしりとおおわれる。

蝉がみーんみーんと鳴いたりして、子供たちは蝉取りをするかもしれない。

秋になれば、葉っぱは赤や黄色に色づく。

「やあ、きれいだね」と言って、ひとは、紅葉見物をしたりする。

冬になれば、樹木は葉っぱを落とす。

凍てつくような寒空にそびえる枝だけになった樹木をみて、

ひとは冬の訪れを感じるかもしれない。

 

樹木の、ある程度の高さよりうえの枝葉の部分というのは、

よく変化する。

変化するものは、ひとの耳目をひきつける。

「やあ、きれいだね」と言って桜を見、

「やあ、きれいだね」と言ってもみじを見る。

ひとは、「見ようと」するのだ。

 

しかし、「見ようと」して視界にいれたその先にあるのは、

樹木でいえば、枝葉の部分。

この世界でいえば、森羅万象のさまざまに分岐した実際の存在や現象

にあたる部分だ。

 

この世界でいうところの、さまざまに分岐した森羅万象の存在や現象の、

背後に隠れている根本の原理、深遠な原理にあたる部分は、

樹木でいえば、枝葉よりはしたにある、1本のごつごつした太い幹だ。

はたしてひとは、このごつごつした1本の太い幹を、

「見ようと」するだろうか。

 

しないだろう。

その1本の太いごつごつした幹は、色もこげ茶か薄茶色で、

表皮はざらざら、ごつごつしていて、

れいな花を咲かせるでもなく、きれいな紅葉をみせるわけでもない。

人の目に、ひとの心に、特段の感興をなんらもよおさないから、

ひとはわざわざそれを「見ようと」はしないのだ。

 

じゃあ、ひとには、その1本の太いごつごつした幹は、

見えていないのだろうか。

 

それもちがう。

ひとには、その1本の太いごつごつした幹は、いつも「見えて」いる。

れいな桜の花や、きれいなもみじの紅葉は、枝葉のほうにある。

ひとはそれを「見ようと」すれば、視線をあげなければいけない。

視線をあげて、わざわざ「見ようと」したその先にあるのが、

そのきれいな桜やもみじなのだ。

しかし、1本の太いごつごつした幹はちがう。

ひとは、視線をわざわざあげなければ、その視線は、

だいたい自分のあたまと同じくらいの高さにある先を見ている。

そして、自分のあたまと同じくらいの高さには、ふつう、樹木でいえば、

1本のごつごつした太い幹があるのだ。

 

つまり、

1本のごつごつした太い幹は、「見ようと」しないとき、

いつも「見えて」いる。

でも、ひとにはそれが、あまりにもあたりまえすぎて、見ているなどとは

思わないのだ。

だから自分はおもう。

この世界の森羅万象の背後にかくれている根本の原理、深遠な原理は、

「見ようと」してどこか遠くを探し求めたその先に存在するのでは決してなく、

たとえば、巨大な実験施設を使用しなければならないような、

科学的な探索のその先にあるのでは決してなく、

世界の果てをもとめて大海原の果てまで航海していったその先にあるのでは

決してなく、

あまりにもあたりまえすぎて、かえって注意をはらわないようなものの

なかに隠されているだろう、と。