男性差別、ときどき、世界への反逆。

この世界についての非主流的な意見と、男性差別についての考えをすこし。

大口病院殺人事件の犯人は、絶対に逮捕しなければいけない。

神奈川県横浜市にある大口病院で入院患者がつぎつぎと不審な死をとげる事件が発生

してから、もうだいぶたつ。

3か月で50人ほどが亡くなる重大事件であり、

事件発覚後にはまったく死者がでていないという。

この事件を引き起こした犯人がいるとすれば、

間違いなく死刑はまぬかれない重大事案だ。

警察は、ほかの事件をさておいてでも、

この事件の犯人は絶対に検挙しなければいけない。

入院患者という、衰弱し抵抗しにくい被害者をターゲットに選んだことは

きわめて卑劣で、

50人近くも殺害するという犯行態様は、きわめて悪質だ。

卑劣で悪質という言葉は、昨今、どうでもいいような犯罪を形容する場合にも

使用され、濫用されているきらいがあるが、

本当に卑劣で悪質な犯罪というのは、大口病院殺人事件の犯人がおかした

この犯罪のようなものを指していうのである。

50人近くも殺害しておきながら、なんら法の裁きを受けないというのであれば、

著しく正義に反する。

法執行機関は、この社会の敵のような犯人を、一日でも早く検挙し、

もって法の裁きに服させる必要がある。

途上国の食糧支援に昆虫食の活用を。

世界的に食糧需給のひっ迫が今後予想されるなか、

栄養的にもすぐれているとして昆虫食が注目をあつめている。

 

しかし、一般的にはグロテスクなイメージもあって、

普通の食事がとれる場合にあえて昆虫食を選択しようとするひとは

少ないだろう。

他方で、紛争地域や飢餓地帯においては、食糧問題の解決は

喫緊の課題となっている。

 

そこで、そうした食糧問題の解決に向けて、

昆虫食を積極的に活用する、というのはどうだろう。

昆虫を乾燥させ、すりつぶして粉末状にし、

練り固めて団子のようにし味付けしたものを、

紛争地域や飢餓地帯の住民に配布するのである。

食糧問題の解決におおきな効果が期待できるのではないか。

最近は南海トラフ地震ばかり言うけれど。

最近は南海トラフ巨大地震南海トラフ巨大地震、と、

そればかり言うように思われる。

けれど、東海地震、首都圏直下型地震は、大丈夫なの?

首都圏は地震をまぬかれる、なんて思ってない?

WBCでは、あきらめないことが大切。

WBCで試合をするにあたって、観戦するにあたって大切なことは、

最後まであきらめないこと。

自分ののぞむ結果に向けて、最後まであきらめず、

信じつづけよう。

 

これからいよいよ決勝トーナメントがはじまる。

米国の地にわたった侍ジャパンは、すでに、

メジャーリーグのチームを相手に2敗した。

のこり2戦、かつてない厳しい戦いが侍ジャパンを待ち受ける。

1日あたり150円の支援?

途上国の子供たちを支援するとかいう国際団体が、

1日150円ほどで支援できます、

みたいなネット広告をだしている。

 

1日150円とかいうから、いかにも少なそうに見えるが、

1年は365日あるから、

年間にすると55000円ほどになる。

 

寄付に年間55000円は出せないわ。

 

日本人の平均的な世帯についていえば、1世帯あたりの年間の平均寄付

金額は、3000円ほどだ、というデータがある。

1世帯に2,3人がいるとすると、1人当たりの年間の平均寄付金額は、

1200円ほどだろうか。

これくらいなら、まあ出せる範囲だ。

しかし実際のところ、寄付などしないというひとも、けっこういるだろう。

大震災などのおおきな自然災害のときには、寄付をするひとも増える。

しかし、そのような場合でもなければ、寄付をする機会というのは、

歳末助け合いくらいになるのではないだろうか。

 

寄付されたお金が、どのようなことに使われるのかということも、

関心を持ったほうがいいことの一つだ。

東日本大震災に関しては、多額の寄付が集まったそうだが、

その寄付金が適切に使用されているかどうか、

きちんとチェックしていく必要がある。

 

また、海外の途上国の子供たちを支援するという国際団体への寄付も、

女子児童のみ支援するということであれば、自分は寄付しないだろう。

男子児童はどうでもいいの?と思うからだ。

熊本地震の際に仮設の大型テントを設置した慈善団体があったが、

女性専用となっていたと記憶する。

そういう団体には嫌悪感しかもてない。

可能性と境界線 1

可能性とはなんだろうか。

われわれは、いろんなところでこの可能性という概念をつかって

物事を考える。

 

明日の降水確率は50%です、というとき、

だいたいそれは、明日雨が降る可能性が50%である、

というような意味でつかわれる。

可能性はまた、人間の能力についてもつかわれる。

できる、能力がある、ということだ。

彼は水泳をすることが可能だ、という場合、

彼は泳ぐことができる、ということを意味する。

 

この可能性というものは、飲み物をいれるコーヒーカップ(CUP)のような

器や、絵を描くためのキャンバス(CANVAS)に似ている、とおもう。

カップがあれば、そこに飲み物を満たすことができる。

満たさないこともできる。

満たすかどうかは自由で、満たすことも満たさないこともできる。

だが、満たそうと思えば、いつでも満たせる。

それは、カップとして、ある空間が無の状態で確保されているからだ。

もし、このカップの中に最初から鉛かなんかが入っていて充満している

なら、飲み物を入れようとしても入れることができない。

その意味で、このカップは、内部が無の状態で保たれている必要がある。

無の状態で保たれていればこそ、その空間を飲み物でうずめることが

できるのだ。

でも、ただ単純に無であればいいかというと、そうでもない。

もし、このカップの中の無の空間というものを実現している、

外側のカップそのものが消え去ってしまえば、

やはり、飲み物を注ぐことはできなくなってしまう。

空中に飲み物をポットからそそげば、じゃーと床にこぼれ落ちる

だけだろう。

おなじようなことは、絵をかくためのキャンバスについてもいえる。

ここにキャンバスがあれば、そこに絵をかくことができる。

絵をかかないこともできる。

絵をかくかどうかは自由で、かくことも、かかないこともできる。

でも、描こうと思えば、いつでも描ける。

それは、キャンバス上の平面が、白紙の状態で確保されているからだ。

もし、このキャンバスのうえに最初から水墨画かなんかが描いてあったり、

真っ黒なペンキで塗りつぶされていたりすれば、

自由に絵を描こうとしても、なかなか難しいにちがいない。

その意味で、キャンバスは白紙の状態で保たれている必要がある。

白紙の状態であるからこそ、そのうえにあらたに絵をのせることができる

のだ。

何も描かれていないという意味において、キャンバスの上はやはり、

無である必要があるのである。

しかし、絵を描くための場であるキャンバスそのものが消え去ってしまえ

ば、やはり、絵を描くことはできない。

空中に絵筆をはしらせてみたところで、絵の具がぽたぽたと床に

飛び散るだけで、絵は描けないにちがいない。

 

さきに、可能性があるということについて、

明日雨が降る可能性がある、とか、彼は水泳をすることが可能だ、

みたいな例をだして話をしてみた。

明日雨が降る可能性がある、というのは、可能性の段階である。

これが実際に明日になると、

雨が降ったよ、とか、雷雨だったよ、とか、小降りだったよ、とか、

曇りだったよ、とか、晴れていたよ、とか、実際になにかが発生する。

これが、現実化の段階だ。

彼は水泳をすることが可能だ、というのは、可能性の段階である。

これが、

彼は去年は海で泳いだよ、とか、

先月の第3日曜日に彼はプールで泳いだよ、とか、

彼は先週の金曜日はおなかが痛くて泳がなかったよ、とか、

実際の行動になってあらわれる。

これが、実行の段階だ。

可能性がある、可能である、能力があるというのを、

英単語のCANであらわし、

現実化する、実行するというのを英単語のDOであらわすとすると、

アルファベットのCのあとにDがくるように、

CANのあとにDOがくる。

CANという可能性があって、それがDOという現実化でみたされる。

CANという能力があって、それがDOという実行でみたされる。

 

もしこれが、CANという可能性、能力すらなかったとしたら、

DOという現実化、実行はきっと発生しないにちがいない。

明日雨が降る可能性はありません、というのならば、

雨が降るということは決してない。

彼は水泳をすることが可能ではありません、というのならば、

彼が水泳をするということは決してない。

 

もういちど、コーヒーカップやキャンバスの例に戻って考えてみよう。

コーヒーカップは、内部に無を確保していたからこそ、

その無を飲み物で充足することができた。

しかし、その確保された無、という場そのものがなくなってしまえば、

もはや飲み物をそそぐことはできなくなってしまった。

キャンバスは、そのうえに無を確保していたからこそ、

その無をあらたな絵で充足することができた。

しかし、その確保された無、という場そのものがなくなってしまえば、

もはや絵を描くことはできなくなってしまった。

この2つの例にあげた無というのは、実際の物理的な空間としての無

であったが、可能性という抽象的なものについて考える際には、

その無(VACANCY)というのを、抽象的な無に敷衍して考えることができる

のではないだろうか。

雨が降るという可能性の後には、実際に雨が降るという現実化がひかえていて、

水泳ができるという能力の後には、実際に泳ぐという実行がひかえている。

ここでは可能性は、実際の現実化や実行というものによって充足されうるという

意味では無となっている。

実際に現実化や実行が行われないかぎり、現実の現象や行為はなんら発生して

いない。その意味では無である。

しかし、その無は、無として確保されていなければいけない。

もしかりに、雨が降る可能性そのものがありませんよ、ということになれば、

雨は絶対にふらなくなるし、

泳ぐ能力そのものがありませんよ、ということになれば、絶対に泳げなくなる。

つまり、可能性においては、現実化や実行を受け入れる場としての無は内包

されているものの、可能性そのものが無というわけではないのである。

 

無のようにみえて、無とはわずかに異なるもの、

そこに可能性の本質の1つがあるように思える。

宇宙は真空を嫌う、という言葉があるが、真空というのは、

容易に他のなにものかによってうずめられやすい性質をもつ。

無というものも、それがなにもない、という意味であるのならば、

その無は簡単になんらかの実体によってうずめられてしまうかもしれない。

無に対する、実体による圧縮がおこってしまうのだ。

しかし、可能性における無は、無ではあるものの、その無は確保された無

なのである。

外部からその無を圧縮して、実体でもってうずめてしまおうとする動きに

対して、無を無として存立させようとする、

外的抵抗性をもった無なのだ。

なぜ、おっぱいは2つなのか? 2

この世界のはじまりのお母さんというのも、

そのお母さんが生み出した2人の子供というのも、

これがお母さんですよ、これがその子供ですよ、というふうに

具体的なかたちをとってあらわれる実際の存在ではなく、

抽象的な原理をあらわすものだろう、と書いた。

では、その原理とはなんだろう。

 

まずひとつめは、頭髪が守っている頭部である。

頭部はなにをするところだろう。

ここで注意しなければいけないのは、このブログの別の記事でも書いたが、

この世界の秘密は、ひとつには「人間の」からだにあらわれる、

ということだ。

人間以外のさまざまな生き物のからだにもこの世界の秘密が

あらわれる、と解釈すると、間違うことになる。

もちろん、人間以外の生き物のからだについても考えてみることで、

この世界についてのある種の洞察はえられるかもしれない。

が、旧約聖書の創世記にかかれているように、

あくまで人間というのは、ほかの生き物とは異なって特別なのだ。

ここをおさえる必要がある。

だとすれば、頭部というのはもちろんほかの生き物にも存在する

わけだけれど、

ほかの生き物とはちがってとくに人間の頭部だけがおこなうはたらき

とはなんですか、というのが、ここでたてられるべき問い、

ということになる。

 

人間の頭部は、なにをするところだろう。

それは、考えることをおこなう場所だ。

人間は、考えるということができるから、ほかの生き物ではなしえない

ような、文明を築くということも可能にしてきたのだ。

判断する。区別する。道理に従って考える。

理性によって思考する。

そういったことをおこなうのが、人間の頭部だ。

もちろん、人間の頭部には、頭がい骨があり、そのなかに脳みそが

おさまっている。

しかし、ここで守られているのは、そういった具体的な生物学上の

器官ではなく、原理だといった。

とするならば、理性や思考、判断をつかさどる頭部を守っている

頭髪が守っている抽象的な原理とは、

「理」ということになる。

つまり、はじまりの母親の子供のうち、ひとりは「理」という原理を

あらわしている、ということになる。

 

では、陰部を守っている陰毛は、いったい、どのような原理を守って

いるのだろう。

ここに存在するだろう、もう1人の子供は、いったいなにをあらわして

いるのだろう。

 

ものごとを考え、判断する際には、細かいところをなおざりにせず、

注意深く、慎重に、ねちねちと考え抜いていく必要がある。

陰毛というのは、おちんちんと、おまんこのまわりに生える。

でも注意したいのは、この陰毛というのは、生まれた時から生えて

いるわけではない、ということだ。

陰毛が生えるのは、思春期からなのである。

思春期になると、男子は精通があって射精をはじめるようになり、

女子は初潮があって月経がはじまるようになる。

が、おちんちんとおまんこそれ自体は、うまれたときから存在する。

おちんちんはおしっこをする際に使用し、おまんこの近くにも尿道

があって、やはりおしっこがでてくる。

しかし、幼児期においては、陰毛はいまだ生えていない。

とするならば、陰毛はまず第一に、泌尿器に象徴されるような、

泌尿作用、排せつ作用という原理を守っているわけではない、

ということである。

陰毛は、思春期の開始とともにはえてくる。

思春期の開始とともに顕在化してくる原理とはなんだろう。

 

それは、生殖作用だ。

男子の射精も、女子の生理も、みな、次代に子孫をのこしていく

ためにおこなわれるものだ。

陰毛は、この生殖作用が顕在化してくるまでは決してはえてはこず、

生殖作用が顕在化してくるとともにはえてくる。

とするならば、陰毛が守ろうとする原理は、おそらく、

生殖作用に関係がありそうだ、ということがわかる。

 

ここで、この原理をさらに突き詰めて抽象化するために、

生殖作用とはなんぞや、ということを考えてみる。

人間は、生まれてから死ぬまで、他の生き物を食べて生きていく。

これは、1人の人間が生まれてから死ぬまでの、

1つのサイクル、プロセスだ。

このプロセスは、なにもしなければ、その1人の人間が死亡した

時点で終わりをつげる。

ところが、生殖作用をおこない、子孫を残すという選択をすることで、

その人間が死亡したあとも、そのプロセス、サイクルを終了させずに、

別のかたちで次につなげていくことができる。

1人の人間が自分の一生をいきていくためには、食べるための口が

あればよく、生殖器官はかならずしも必要ではない。

現に男性であれば、食べないで生きていくことは不可能だが、

射精を我慢しながら生きていくことは、かならずしも不可能ではないだろう。

口がなければ生きてはいけないが、性器を切断したとしても、

古代中国の宦官のように生きていく例は存在するのだ。

 

しかし、自分が死んでしまったとしても、

「なおもべつのかたちで生き続けたい」という願いをもったとき、

生殖器官と生殖作用が必要になる。

食べるというのは、自分1人が自分の一生を生きるためであり、

生殖作用をおこなうというのは、自分が死んでしまったとしても、

そのあともなお生命のプロセスを絶やさない、生き続ける、

ということのためである。

ということはつまり、生殖作用は、より長いスパンでの、

「生きる」ということにかかわる。

であるならば、陰毛が守っている抽象的な原理とは、

「生」ということになる。

つまり、はじまりの母親の子供のうち、もう1人は

「生」という原理をあらわしている、ということになる。

 

はじまりの母親がいったい、どのような原理をあらわしているのか、

ということについては、まだここでは言及しなかったが、

その2人の子供は、「理」と「生」という原理をそれぞれあらわしている、

と考えてきた。

こう考えてきたのも、人間の体に注目したからで、

おっぱいが2つある→子供が2人いる→実際の人間の子供は

2人とはかぎらない→その子供は実際の子供ではない→

抽象的なこの世界の原理に関わる→頭部と陰部には集中して

毛が生えている→そこにこの世界の2人の子供が存在するから

守られている→その2人の子供とは?→頭部と陰部のそれぞれの

はたらきから抽象的に帰納して考える→理と生ではなかろうか、

という思考過程をたどってきたわけだ。

 

はじまりの母というのが、この世界のはじまりにあって、

その同じ母から2人の子供がうまれた。

その子供は、1人が「理」、もう1人が「生」。

同じ母からうまれた以上、この理と生のあいだには、

兄弟関係、姉妹関係がある。

そして、頭髪は最初からはえているが、陰毛はあとからはえてくる

ことを考えると、

兄や姉にあたるのが理、弟や妹にあたるのが生、

ということに、たぶんなるのだろう。

自分は、この理のほうが兄、生のほうが妹、と考えている。

なぜ、性別がわかれるのかについては、

はじまりの母から理と生がそれぞれうまれてきた生成過程にかかわる

のだが、それはまた別の記事で。