この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

可能性と境界線 1

可能性とはなんだろうか。

われわれは、いろんなところでこの可能性という概念をつかって

物事を考える。

 

明日の降水確率は50%です、というとき、

だいたいそれは、明日雨が降る可能性が50%である、

というような意味でつかわれる。

 

可能性はまた、人間の能力についてもつかわれる。

できる、能力がある、ということだ。

彼は水泳をすることが可能だ、という場合、

彼は泳ぐことができる、ということを意味する。

 

この可能性というものは、飲み物をいれるコーヒーカップ(CUP)のような

器や、絵を描くためのキャンバス(CANVAS)に似ている、とおもう。

 

カップがあれば、そこに飲み物を満たすことができる。

満たさないこともできる。

 

満たすかどうかは自由で、満たすことも満たさないこともできる。

だが、満たそうと思えば、いつでも満たせる。

 

それは、カップとして、ある空間が無の状態で確保されているからだ。

 

もし、このカップの中に最初から鉛かなんかが入っていて充満している

なら、飲み物を入れようとしても入れることができない。

その意味で、このカップは、内部が無の状態で保たれている必要がある。

無の状態で保たれていればこそ、その空間を飲み物でうずめることが

できるのだ。

 

でも、ただ単純に無であればいいかというと、そうでもない。

もし、このカップの中の無の空間というものを実現している、

外側のカップそのものが消え去ってしまえば、

やはり、飲み物を注ぐことはできなくなってしまう。

 

空中に飲み物をポットからそそげば、じゃーと床にこぼれ落ちる

だけだろう。

 

 

おなじようなことは、絵をかくためのキャンバスについてもいえる。

 

ここにキャンバスがあれば、そこに絵をかくことができる。

絵をかかないこともできる。

 

絵をかくかどうかは自由で、かくことも、かかないこともできる。

でも、描こうと思えば、いつでも描ける。

 

それは、キャンバス上の平面が、白紙の状態で確保されているからだ。

 

もし、このキャンバスのうえに最初から水墨画かなんかが描いてあったり、

真っ黒なペンキで塗りつぶされていたりすれば、

自由に絵を描こうとしても、なかなか難しいにちがいない。

 

その意味で、キャンバスは白紙の状態で保たれている必要がある。

白紙の状態であるからこそ、そのうえにあらたに絵をのせることができる

のだ。

何も描かれていないという意味において、キャンバスの上はやはり、

無である必要があるのである。

 

しかし、絵を描くための場であるキャンバスそのものが消え去ってしまえ

ば、やはり、絵を描くことはできない。

空中に絵筆をはしらせてみたところで、絵の具がぽたぽたと床に

飛び散るだけで、絵は描けないにちがいない。

 

さきに、可能性があるということについて、

明日雨が降る可能性がある、とか、彼は水泳をすることが可能だ、

みたいな例をだして話をしてみた。

 

明日雨が降る可能性がある、というのは、可能性の段階である。

これが実際に明日になると、

雨が降ったよ、とか、雷雨だったよ、とか、小降りだったよ、とか、

曇りだったよ、とか、晴れていたよ、とか、実際になにかが発生する。

これが、現実化の段階だ。

 

彼は水泳をすることが可能だ、というのは、可能性の段階である。

これが、

彼は去年は海で泳いだよ、とか、

先月の第3日曜日に彼はプールで泳いだよ、とか、

彼は先週の金曜日はおなかが痛くて泳がなかったよ、とか、

実際の行動になってあらわれる。

これが、実行の段階だ。

 

可能性がある、可能である、能力があるというのを、

英単語のCANであらわし、

現実化する、実行するというのを英単語のDOであらわすとすると、

アルファベットのCのあとにDがくるように、

CANのあとにDOがくる。

CANという可能性があって、それがDOという現実化でみたされる。

CANという能力があって、それがDOという実行でみたされる。

 

もしこれが、CANという可能性、能力すらなかったとしたら、

DOという現実化、実行はきっと発生しないにちがいない。

 

明日雨が降る可能性はありません、というのならば、

雨が降るということは決してない。

彼は水泳をすることが可能ではありません、というのならば、

彼が水泳をするということは決してない。

 

もういちど、コーヒーカップやキャンバスの例に戻って考えてみよう。

コーヒーカップは、内部に無を確保していたからこそ、

その無を飲み物で充足することができた。

 

しかし、その確保された無、という場そのものがなくなってしまえば、

もはや飲み物をそそぐことはできなくなってしまった。

 

キャンバスは、そのうえに無を確保していたからこそ、

その無をあらたな絵で充足することができた。

 

しかし、その確保された無、という場そのものがなくなってしまえば、

もはや絵を描くことはできなくなってしまった。

 

この2つの例にあげた無というのは、実際の物理的な空間としての無

であったが、可能性という抽象的なものについて考える際には、

その無(VACANCY)というのを、抽象的な無に敷衍して考えることができる

のではないだろうか。

 

雨が降るという可能性の後には、実際に雨が降るという現実化がひかえていて、

水泳ができるという能力の後には、実際に泳ぐという実行がひかえている。

ここでは可能性は、実際の現実化や実行というものによって充足されうるという

意味では無となっている。

 

実際に現実化や実行が行われないかぎり、現実の現象や行為はなんら発生して

いない。その意味では無である。

 

しかし、その無は、無として確保されていなければいけない。

もしかりに、雨が降る可能性そのものがありませんよ、ということになれば、

雨は絶対にふらなくなるし、

泳ぐ能力そのものがありませんよ、ということになれば、絶対に泳げなくなる。

 

つまり、可能性においては、現実化や実行を受け入れる場としての無は内包

されているものの、可能性そのものが無というわけではないのである。

 

無のようにみえて、無とはわずかに異なるもの、

そこに可能性の本質の1つがあるように思える。

 

宇宙は真空を嫌う、という言葉があるが、真空というのは、

容易に他のなにものかによってうずめられやすい性質をもつ。

 

無というものも、それがなにもない、という意味であるのならば、

その無は簡単になんらかの実体によってうずめられてしまうかもしれない。

無に対する、実体による圧縮がおこってしまうのだ。

しかし、可能性における無は、無ではあるものの、その無は確保された無

なのである。

 

外部からその無を圧縮して、実体でもってうずめてしまおうとする動きに

対して、無を無として存立させようとする、

外的抵抗性をもった無なのだ。

なぜ、おっぱいは2つなのか? 2

※ 過去記事は、こちらから↓

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

 

 

 

この世界のはじまりのお母さんというのも、

そのお母さんが生み出した2人の子供というのも、

これがお母さんですよ、これがその子供ですよ、というふうに

具体的なかたちをとってあらわれる実際の存在ではなく、

抽象的な原理をあらわすものだろう、と書いた。

では、その原理とはなんだろう。

 

まずひとつめは、頭髪が守っている頭部である。

頭部はなにをするところだろう。

ここで注意しなければいけないのは、このブログの別の記事でも書いたが、

この世界の秘密は、ひとつには「人間の」からだにあらわれる、

ということだ。

人間以外のさまざまな生き物のからだにもこの世界の秘密が

あらわれる、と解釈すると、間違うことになる。

もちろん、人間以外の生き物のからだについても考えてみることで、

この世界についてのある種の洞察はえられるかもしれない。

が、旧約聖書の創世記にかかれているように、

あくまで人間というのは、ほかの生き物とは異なって特別なのだ。

ここをおさえる必要がある。

だとすれば、頭部というのはもちろんほかの生き物にも存在する

わけだけれど、

ほかの生き物とはちがってとくに人間の頭部だけがおこなうはたらき

とはなんですか、というのが、ここでたてられるべき問い、

ということになる。

 

人間の頭部は、なにをするところだろう。

それは、考えることをおこなう場所だ。

人間は、考えるということができるから、ほかの生き物ではなしえない

ような、文明を築くということも可能にしてきたのだ。

判断する。区別する。道理に従って考える。

理性によって思考する。

そういったことをおこなうのが、人間の頭部だ。

もちろん、人間の頭部には、頭がい骨があり、そのなかに脳みそが

おさまっている。

しかし、ここで守られているのは、そういった具体的な生物学上の

器官ではなく、原理だといった。

とするならば、理性や思考、判断をつかさどる頭部を守っている

頭髪が守っている抽象的な原理とは、

「理」ということになる。

つまり、はじまりの母親の子供のうち、ひとりは「理」という原理を

あらわしている、ということになる。

 

では、陰部を守っている陰毛は、いったい、どのような原理を守って

いるのだろう。

ここに存在するだろう、もう1人の子供は、いったいなにをあらわして

いるのだろう。

 

ものごとを考え、判断する際には、細かいところをなおざりにせず、

注意深く、慎重に、ねちねちと考え抜いていく必要がある。

陰毛というのは、おちんちんと、おまんこのまわりに生える。

でも注意したいのは、この陰毛というのは、生まれた時から生えて

いるわけではない、ということだ。

陰毛が生えるのは、思春期からなのである。

思春期になると、男子は精通があって射精をはじめるようになり、

女子は初潮があって月経がはじまるようになる。

が、おちんちんとおまんこそれ自体は、うまれたときから存在する。

おちんちんはおしっこをする際に使用し、おまんこの近くにも尿道

があって、やはりおしっこがでてくる。

しかし、幼児期においては、陰毛はいまだ生えていない。

とするならば、陰毛はまず第一に、泌尿器に象徴されるような、

泌尿作用、排せつ作用という原理を守っているわけではない、

ということである。

陰毛は、思春期の開始とともにはえてくる。

思春期の開始とともに顕在化してくる原理とはなんだろう。

 

それは、生殖作用だ。

男子の射精も、女子の生理も、みな、次代に子孫をのこしていく

ためにおこなわれるものだ。

陰毛は、この生殖作用が顕在化してくるまでは決してはえてはこず、

生殖作用が顕在化してくるとともにはえてくる。

とするならば、陰毛が守ろうとする原理は、おそらく、

生殖作用に関係がありそうだ、ということがわかる。

 

ここで、この原理をさらに突き詰めて抽象化するために、

生殖作用とはなんぞや、ということを考えてみる。

人間は、生まれてから死ぬまで、他の生き物を食べて生きていく。

これは、1人の人間が生まれてから死ぬまでの、

1つのサイクル、プロセスだ。

このプロセスは、なにもしなければ、その1人の人間が死亡した

時点で終わりをつげる。

ところが、生殖作用をおこない、子孫を残すという選択をすることで、

その人間が死亡したあとも、そのプロセス、サイクルを終了させずに、

別のかたちで次につなげていくことができる。

1人の人間が自分の一生をいきていくためには、食べるための口が

あればよく、生殖器官はかならずしも必要ではない。

現に男性であれば、食べないで生きていくことは不可能だが、

射精を我慢しながら生きていくことは、かならずしも不可能ではないだろう。

口がなければ生きてはいけないが、性器を切断したとしても、

古代中国の宦官のように生きていく例は存在するのだ。

 

しかし、自分が死んでしまったとしても、

「なおもべつのかたちで生き続けたい」という願いをもったとき、

生殖器官と生殖作用が必要になる。

食べるというのは、自分1人が自分の一生を生きるためであり、

生殖作用をおこなうというのは、自分が死んでしまったとしても、

そのあともなお生命のプロセスを絶やさない、生き続ける、

ということのためである。

ということはつまり、生殖作用は、より長いスパンでの、

「生きる」ということにかかわる。

であるならば、陰毛が守っている抽象的な原理とは、

「生」ということになる。

つまり、はじまりの母親の子供のうち、もう1人は

「生」という原理をあらわしている、ということになる。

 

はじまりの母親がいったい、どのような原理をあらわしているのか、

ということについては、まだここでは言及しなかったが、

その2人の子供は、「理」と「生」という原理をそれぞれあらわしている、

と考えてきた。

こう考えてきたのも、人間の体に注目したからで、

おっぱいが2つある→子供が2人いる→実際の人間の子供は

2人とはかぎらない→その子供は実際の子供ではない→

抽象的なこの世界の原理に関わる→頭部と陰部には集中して

毛が生えている→そこにこの世界の2人の子供が存在するから

守られている→その2人の子供とは?→頭部と陰部のそれぞれの

はたらきから抽象的に帰納して考える→理と生ではなかろうか、

という思考過程をたどってきたわけだ。

 

はじまりの母というのが、この世界のはじまりにあって、

その同じ母から2人の子供がうまれた。

その子供は、1人が「理」、もう1人が「生」。

同じ母からうまれた以上、この理と生のあいだには、

兄弟関係、姉妹関係がある。

そして、頭髪は最初からはえているが、陰毛はあとからはえてくる

ことを考えると、

兄や姉にあたるのが理、弟や妹にあたるのが生、

ということに、たぶんなるのだろう。

自分は、この理のほうが兄、生のほうが妹、と考えている。

なぜ、性別がわかれるのかについては、

はじまりの母から理と生がそれぞれうまれてきた生成過程にかかわる

のだが、それはまた別の記事で。

 

 

樹木のかたちと、この世界の秘密。

樹木というのは、あちこちにある。

街並みをあるけば街路樹があるし、山林にももちろんある。

 

樹木というのは、たいていは似たり寄ったりなかたちをしている。

大地に根っこをもち、地面からしばらくの高さまでは、

太くてごつごつし、地味な色合いの1本の幹がのびていく。

しばらくの高さになると、枝分かれしていく。

そして枝はつぎつぎと分岐し、その先端に葉っぱや実をつける。

 

この樹木を思い浮かべて、自分はこんなことを考えた。

この樹木のかたちというのは、この世界のかたちに似ているのではないか、

と。

 

この世界というのは、森羅万象といわれるように、

数限りないいろんな分野に分岐している。

自然界を見渡してみれば、大空があり、大地があり、

山があり、海があり、野原があり、川があり、

水があり、火があり、雷があり、風がある。

生き物でいえば、犬がいて、猫がいて、クマがいて、キリンがいて、

ゾウがいて、ヤマアラシがいて、ハチがいて、コオロギがいる。

人間でいえば、お父さんがいて、お母さんがいて、

おじいちゃんがいて、おばあちゃんがいて、お兄さんがいて、

お姉さんがいて、おじさんがいて、おばさんがいて、

学校の先生がいて、近所のおじさんがいて、新聞を配達するひとがいて、

お医者さんがいて、会社の上司がいる。

書店にいけば、森羅万象の分岐はあきらかだ。

物理学、化学、生物学、天文学、電気工学、医学、薬学、看護学

数学、コンピュータ、文学、小説、料理、占い、旅行、スポーツ、

鉄道、車、手芸、将棋、囲碁、マージャン、コミック、

さまざまなコーナーがあるはずだ。

 

森羅万象といわれるような、この無限にもみえる分岐というのは、

樹木でいうと、ある程度の高さより上の部分の、

枝葉がどこまでも分岐していく部分にあたるのではないか。

とするならば、

樹木でいうとそのたくさんに分岐した枝葉のしたの部分には

ただ1本の太い幹があり、分岐した枝葉もただ1本のその太い

幹へと回帰していくように、

無限に見えるようなこの世界の森羅万象の背後、根源には、

なにか根本となるような深遠な1つの原理がかくれていて、

森羅万象の存在や現象も、みな、そこに帰着していくのではないか。

そんなふうに考えた。

 

では、そんな森羅万象のかえっていく、この世界の根本原理、

世界の秘密、真理、からくり、枢機は、

いったい、どんなところにかくれているのだろう。

じつは、これについても、樹木の形状が示唆を与えてくれるのかも

しれない、と考えている。

 

樹木というのは、四季折々の変化をみせる。

春になれば、梅や桜といった樹木は花を咲かせる。

「やあ、きれいだね」と言って、ひとは、お花見をしたりする。

夏になれば、枝は緑の葉っぱでぎっしりとおおわれる。

蝉がみーんみーんと鳴いたりして、子供たちは蝉取りをするかもしれない。

秋になれば、葉っぱは赤や黄色に色づく。

「やあ、きれいだね」と言って、ひとは、紅葉見物をしたりする。

冬になれば、樹木は葉っぱを落とす。

凍てつくような寒空にそびえる枝だけになった樹木をみて、

ひとは冬の訪れを感じるかもしれない。

 

樹木の、ある程度の高さよりうえの枝葉の部分というのは、

よく変化する。

変化するものは、ひとの耳目をひきつける。

「やあ、きれいだね」と言って桜を見、

「やあ、きれいだね」と言ってもみじを見る。

ひとは、「見ようと」するのだ。

 

しかし、「見ようと」して視界にいれたその先にあるのは、

樹木でいえば、枝葉の部分。

この世界でいえば、森羅万象のさまざまに分岐した実際の存在や現象

にあたる部分だ。

 

この世界でいうところの、さまざまに分岐した森羅万象の存在や現象の、

背後に隠れている根本の原理、深遠な原理にあたる部分は、

樹木でいえば、枝葉よりはしたにある、1本のごつごつした太い幹だ。

はたしてひとは、このごつごつした1本の太い幹を、

「見ようと」するだろうか。

 

しないだろう。

その1本の太いごつごつした幹は、色もこげ茶か薄茶色で、

表皮はざらざら、ごつごつしていて、

れいな花を咲かせるでもなく、きれいな紅葉をみせるわけでもない。

人の目に、ひとの心に、特段の感興をなんらもよおさないから、

ひとはわざわざそれを「見ようと」はしないのだ。

 

じゃあ、ひとには、その1本の太いごつごつした幹は、

見えていないのだろうか。

 

それもちがう。

ひとには、その1本の太いごつごつした幹は、いつも「見えて」いる。

れいな桜の花や、きれいなもみじの紅葉は、枝葉のほうにある。

ひとはそれを「見ようと」すれば、視線をあげなければいけない。

視線をあげて、わざわざ「見ようと」したその先にあるのが、

そのきれいな桜やもみじなのだ。

しかし、1本の太いごつごつした幹はちがう。

ひとは、視線をわざわざあげなければ、その視線は、

だいたい自分のあたまと同じくらいの高さにある先を見ている。

そして、自分のあたまと同じくらいの高さには、ふつう、樹木でいえば、

1本のごつごつした太い幹があるのだ。

 

つまり、

1本のごつごつした太い幹は、「見ようと」しないとき、

いつも「見えて」いる。

でも、ひとにはそれが、あまりにもあたりまえすぎて、見ているなどとは

思わないのだ。

だから自分はおもう。

この世界の森羅万象の背後にかくれている根本の原理、深遠な原理は、

「見ようと」してどこか遠くを探し求めたその先に存在するのでは決してなく、

たとえば、巨大な実験施設を使用しなければならないような、

科学的な探索のその先にあるのでは決してなく、

世界の果てをもとめて大海原の果てまで航海していったその先にあるのでは

決してなく、

あまりにもあたりまえすぎて、かえって注意をはらわないようなものの

なかに隠されているだろう、と。

言葉にはこの世界の秘密がかくれている?

人間のからだにはこの世界の秘密がかくれているのではないか、

ということを、このブログの別の記事で書いた。

 

じつはもうひとつ、言葉や文字といったものにも、

この世界の秘密がかくれているのではないか、と思う。

 

新約聖書ヨハネによる福音書第1章の冒頭には、

次のようにある。

1:1

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

1:2

この言は初めに神と共にあった。

 

この部分も、やけにしつこい表現となっている。

言葉が神であり、言葉が神とともにあったということを、

3回も繰り返しのべている。

 

神というのが、この世界のからくり、秘密、真理、枢機を

表現した言葉だとすれば、

言葉や文字について深く思考をめぐらしていけば、

この世界のからくり、秘密、真理、枢機を、

逆探知できるのではないか。

そんなふうにも考えた。

 

普段あたりまえに見慣れている人間の体や、

あたりまえに使用している言葉や文字は、

あまりにもあたりまえすぎて、あらためて注意をはらうことがない。

昔、こんな話があったと記憶する。

封書を部屋のどこかに隠すのに、いちばん見つかりにくいところは

どこか、ということで試してみたが、

最後まで見つからなかった封書は、レターボックスのなかに

隠されていたという。

神はこの世界の秘密をかくすのに、

どこか遠くの果てにかくしたのではなく、

あまりにもあたりまえすぎて人がふつう注意をはらわないような

ところに隠したのではないだろうか。

なぜ、おっぱいは2つなのか? 1

人間のおっぱいは、なぜ、2つなんだろう。

こんな疑問をもつひとが、ときどき、いる。

ネット上の質問サイト、たとえば、知恵袋といったようなところにも、

こういった疑問がよせられる。

 

これに対する回答はさまざまだ。

たいていは、生物学的な知見から、他の生き物のこととかもふくめて、

回答がなされている。

たまに、

1つは赤ちゃんのため、もう1つは旦那のため、

なんていう回答があったりして笑える。

 

例によって、自分はこの疑問についても、

いちから自分の頭で考えてみようと思った。

 

おっぱいというのは、なにをするためのものだろう。

それは、赤ちゃん、つまり、自分の子供を育てるためのものだ。

それが、2つある。

ということは、子供が二人いる、ということなのだろうか。

 

しかし、この考えは、障壁にぶつかる。

現実のこの世界に存在する、実際の女性たちは、

その子供が2人とはかぎらないからだ。

ある女性は、子供がいないかもしれない。

ある女性は、子供が1人かもしれない。

ある女性は、子供が2人かもしれない。

ある女性は、子供が3人かもしれない。

女性によって子供の数は異なり、かならず2人であるとは、いえない。

 

だとすれば、おっぱいが2つであるというのは、

子供の数が2人である、ということとは、関係がないのだろう。

 

 

ふつうは、こう考える。

しかし、ひねくれ者の自分は、違う風に考えてみた。

 

おっぱいが2つであることの背景にある、2人いる子供というのは、

実際の子供ではないのではないだろうか。

ここでいう、お母さんというのも、この世界に存在する現実の、

生身の1人1人のお母さんでは、ないのではないだろうか。

 

じゃあ、いったい、なんなのだろう。

自分はこのように考えてみた。

 

このお母さんというのは、この世界のはじまりに存在したはじまりの母で、

それは、なんらかの原理をあらわしていて、

その2人の子供というのは、はじまりの母が生み出した2人の子供であり、

それぞれの子供もまた、それぞれがなんらかの原理をあらわしている、

と。

 

ではいったい、そのそれぞれの原理とは、なんなのだろう。

 

ここで、人間の体の姿かたちを、もういちど思い浮かべてみる。

すると、人間のからだには、あちこちに毛が生えているが、なかでも、

頭部と陰部には、集中してたくさんの毛が生えていることに気づく。

 

小さい子供のころ、どうしてあたまにはたくさん髪の毛が生えているの、

と疑問に思い、おとなに質問したひともいるかもしれない。

それに対するおとなの答えは、たいてい、

たいせつなところは毛が守っているのよ、

みたいな感じだったかもしれない。

 

それでいえば、たしかに、頭部も陰部も、大切なところではある。

しかし、人間の体のなかで、傷つけられては困る大切な部分というのは、

頭部と陰部に限った話ではない。

心臓は大切な部分だが、大人の男性に胸毛がはえていることを別にすれば、

とくに毛でおおわれているわけではない。

首には頸動脈が走っていて出血すれば一大事だが、

首の周りをぐるっと毛でおおっているわけでもない。

また、陰部というのが「大切な場所」であるならば、

そこが「大切な場所」であることじたいは、幼少のころからかわりなく

そうであるはずなのだが、

毛によっておおわれてくるのは、思春期以降である。

とするならば、

頭部と陰部にとくに集中して毛がはえているのは、

そこが大切な場所であるから、というのではなく、

もっとべつな理由があるからではないか。

自分はそう考えた。

 

じゃあ、その理由とはなんだろう。

 

さっき、はじまりのお母さんが2人の子供を産んで、

みたいなことを書いた。

お母さんにとって自分の子供というのは、とても大切な存在なんじゃない

だろうか。

もちろん、新聞やテレビのニュースとかをみていると、

幼児虐待だとか、ネグレクトだとかいった事件が報道されることはある。

しかし、動物でいえば、卵がかえるまであたためたり、

自分の乳をのませたり、人間でいえば、あたたかい布団でくるんで

あげたり、おむつをかえてあげたり、病気になったら看病してあげたり、

そういったことはもちろん父親もしなければならない育児ではある

けれども、そこに母親の愛情もみてとれるのではないだろうか。

 

そこで自分は考えた。

人間の体の中で頭部と陰部がとくに毛でもって保護されているのは、

そこに、

この世界のはじまりの母親がうんだ2人の子供がいるから、

その2人の子供を守るために、

とくに毛でつつみこんで保護しているのではないか、と。

 

 

※ 記事のつづきは、こちらから↓

 

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人間のからだにはこの世界の秘密がかくれている?

小さいころは、なんにでも疑問をいだく。

あまりにもあたりまえすぎて、大人になったら考えもしなくなるような、

それでいて、はっきりとした答えがあるかと言われれば、

そうでもないような、

そんな疑問を質問して、お父さんやお母さんを閉口させたひとも、

いるかもしれない。

 

そんな疑問のひとつに、人体に関する疑問がある。

なんで、おっぱいは2つなんだろう。

なんで、女の人はおっぱいがふくらみ、男の人はおちんちんが

突き出ているんだろう。

なんで、人間のてっぺんには髪の毛があるんだろう。

なんで、髪の毛はあたまを守っているんだろう。

なんで髪の毛はつぎつぎ生えてきて、どんどんのびてくるんだろう。

なんで髪の毛は、年をとるとなくなったり、白くなったりするんだろう。

なんで、人間の体の中で、頭部と陰部には、集中して毛がはえ

いるんだろう。

なんで、目は2つ、耳は2つ、鼻は1つ、けど鼻の穴は2つ、

口は1つ、心臓は1つ、胃は1つ、けど肺は2つ、腎臓は2つ、

なんだろう。

って、どんどん疑問がわいてくる。

けど、こういった疑問は、大人になると、あまり考えなくなるのだ。

 

ネットで調べると、こういった疑問をもつひとは、それでも、

いるようで、質問サイトなどで質問しているひとがいる。

それに対する答えのほとんどは、生物学的な知見からの回答

になっている。

生物には、こういうはたらき、機能、目的があって、そのために

こういう構造になっているんですよ、みたいな。

 

でも、自分はちょっとへそまがりな考え方をするのが好きだ。

このブログも、世界への反逆、というタイトルがついている。

ほとんどのひとが考えるような考え方とは違う考え方でも、

大言壮語が許されるならば、

たとえ世界全体を敵にまわしても、自分は1人、違う道をいきたい、

と考える人間なのだ、このブログ主は。

 

上にあげたような、人間の体に関する1つ1つの疑問に、

生物学的な知見からは、それぞれに応じた回答が、逐一、なされる。

でも、自分は考えた。

人間の体にあるそういったさまざまな疑問を、統一的に解き明かす

ことのできるような、なにか深遠な原理が、その背後に存在する

のではないだろうか、と。

 

旧約聖書の冒頭に、創世記という部分がある。

神様が、どうやってこの世界と、人間その他の生き物をつくったか、

ということが書いてあるところだ。

その創世記の、人間をつくりだしたところは、こう書いてある。

1:26

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。

1:27

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

 

この部分を読んでみて、僕は思った。

「やけにしつこいな」と。

なにがしつこいって?

 

「われわれのかたちに」「われわれにかたどって」

「自分のかたちに」「神のかたちに」

 

つまり、人間のかたちというのは、神に似せてつくられたのだ、

ということを、4回も言葉をかえて繰り返しているのだ。

この部分を、どう読んだらいいだろう。

 

人間が神に似せてつくられている、というのを読んだら、

ふつう、どういう想像をするだろうか。

たぶん、神様というのは、人間みたいなすがたをしていて、

たとえば長髪で、白いひげかなんか生やしていて、真っ白のローブ

とかまとって、杖かなんかついてる、みたいな想像をするんじゃ

ないだろうか。

 

でも、これはたぶんちがう。

これだと、「神様は人間に似ている」ということになってしまう。

ちがうよね。

旧約聖書の創世記が言っているのは、神様が人間に似ている、

ということではなく、

「人間の姿かたちは、神様に似ている」

って言ってるんだよね。

これをどう解釈したらいいだろう。

 

僕は考えた。

ここでいう神様というのは、なにか人格をもった主体としての存在

を言ってるんじゃなくて、

この世界がどのように形成されているかという、そのからくり、

真理、秘密、枢機、そういったものを、

神、という言葉で表現したのではないだろうか、と。

 

もしそうだとすると、

人間の体のかたちについてじっくりと考えぬいていけば。

子供のころに疑問に思って、大人になると忘れてしまうような、

そんな当たり前すぎることももういちど考え抜いていけば。

 

この世界の秘密、真理、枢機といったものを、

逆探知」できるのではないか?

そんなふうに考えた。

NHKラジオの語学講座をはじめる季節

春だ。

4月から、また新しく、NHKラジオの語学講座の、新年度の講座が

開講する。

 

例年、この季節になると、NHKラジオの語学講座を受講してみようかな、

と考える人が増えるらしい。

NHKラジオの語学講座のテキストは、1年のうちでこの季節が

いちばんよく売れるという。

 

しかし、5月、6月と月日がすすむにつれ、テキストの売り上げは

次第に減少していく。

講座の進行から脱落していくひとが増えてくるからだ。

 

NHKラジオの語学講座は、語学スクールに通うのにくらべると、

講座をつづける強制力の点ですこし弱いかもしれない。

自分でたんたんと聴きつづけていく必要がある。

 

そして、以前はもっとハードルが高かった。

というのも、ラジオの放送しかなかったからだ。

ラジオで講座が放送される時間にあわせてラジオの前に座ったり、

あるいは、あらかじめ予約録音しておいて、あとでそれを聴く、

という手間が必要だった。

手間がかかればかかるほど、習慣にするのはむずかしくなる。

面倒だな、と思う気持ちが、NHKラジオの語学講座挫折の一因

となってきた。

 

でも、最近、状況がすこしかわった。

講座によってはネット上で、過去1週間分の放送を、

ストリーミングで聴けるようになったのだ。

これはおおきい。

いつでも自分の好きな時に聴けるし、場合によっては、

スマホで聴くことによって、どこでも場所をえらばず聴けるように

なったからだ。

つまり、講座を聴くうえで便利になって、結果、すこし続けやすく

なったのだ。

 

いつでも聴けるっていうことでいえば、別売りCDもあるじゃん、

っていう意見もあるかもしれないが、

別売りCDは1500円ほどする。

テキストが500円弱しかしないのにくらべると、

やや高いという印象はぬぐえない。

 

語学の勉強をつづけていくうえでは、費用の問題も重要なポイントだ。

あまりお金がかかるようだと、長続きさせるのがむずかしくもなる。

NHKラジオ講座だと、テキストだけ買って、あとはネットの

ストリーミングで聴くようにすれば、月に500円弱で済む。

語学スクールだと、年に数十万円かかる場合もあることを思えば、

その差はおおきい。

 

語学スクールは、学習をつづける強制力の点でラジオ講座にまさる、

と書いたが、ラジオ講座にはない面倒な点もある。

語学スクールの校舎に通って授業を受けるのであれば、

まず服装をととのえて出かけ、主要ターミナルの近くにあることが多い

校舎まで出向き、きちんとよそゆきの対応を心がけながら授業を受け、

また帰ってこなければいけない。

授業のスケジュールは基本的には語学スクールの側で決められているし、

自分の好きな時間、好きな場所でいつでも学習できるわけではない。

こうなってくると、学習のつづけやすさ、習慣化のしやすさ、という点では、

語学スクールのほうが優れているとは、かならずしも言えなくなってくる。

 

2020年に東京オリンピックがひらかれることをきっかけに、

日本にもたくさんの外国人が訪れるかもしれない。

とすると、もしかしたら、自分が外国語をはなせることで、

世界がひろがるチャンスにめぐりあえるかもしれない。

語学をはじめようと思うきっかけはなんであれ、はじめるなら、

手軽に始められるほうがいい。

1冊500円のテキストというのは、昔に比べるとすこし価格が上がって

いるのだが、それでも、費用がそれだけで済むというのは魅力である。

ダメもとではじめてみても、もしかしたら、運よく外国語がすこしわかる

ようになるかもしれない。