この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

言葉にはこの世界の秘密がかくれている?

人間のからだにはこの世界の秘密がかくれているのではないか、

ということを、このブログの別の記事で書いた。

 

じつはもうひとつ、言葉や文字といったものにも、

この世界の秘密がかくれているのではないか、と思う。

 

新約聖書ヨハネによる福音書第1章の冒頭には、

次のようにある。

1:1

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

1:2

この言は初めに神と共にあった。

 

この部分も、やけにしつこい表現となっている。

言葉が神であり、言葉が神とともにあったということを、

3回も繰り返しのべている。

 

神というのが、この世界のからくり、秘密、真理、枢機を

表現した言葉だとすれば、

言葉や文字について深く思考をめぐらしていけば、

この世界のからくり、秘密、真理、枢機を、

逆探知できるのではないか。

そんなふうにも考えた。

 

普段あたりまえに見慣れている人間の体や、

あたりまえに使用している言葉や文字は、

あまりにもあたりまえすぎて、あらためて注意をはらうことがない。

昔、こんな話があったと記憶する。

封書を部屋のどこかに隠すのに、いちばん見つかりにくいところは

どこか、ということで試してみたが、

最後まで見つからなかった封書は、レターボックスのなかに

隠されていたという。

神はこの世界の秘密をかくすのに、

どこか遠くの果てにかくしたのではなく、

あまりにもあたりまえすぎて人がふつう注意をはらわないような

ところに隠したのではないだろうか。

なぜ、おっぱいは2つなのか? 1

人間のおっぱいは、なぜ、2つなんだろう。

 

 

 

こんな疑問をもつひとが、ときどき、いる。

 

ネット上の質問サイト、たとえば、知恵袋といったようなところにも、

こういった疑問がよせられる。

 

 

 

これに対する回答はさまざまだ。

 

たいていは、生物学的な知見から、他の生き物のこととかもふくめて、

回答がなされている。

 

 

 

たまに、

1つは赤ちゃんのため、もう1つは旦那のため、

なんていう回答があったりして笑える。

 

 

 

例によって、自分はこの疑問についても、

いちから自分の頭で考えてみようと思った。

 

 

 

おっぱいというのは、なにをするためのものだろう。

 

 

 

それは、赤ちゃん、つまり、自分の子供を育てるためのものだ。

 

 

 

それが、2つある。

ということは、子供が二人いる、ということなのだろうか。

 

 

 

しかし、この考えは、障壁にぶつかる。

 

現実のこの世界に存在する、実際の女性たちは、

その子供が2人とはかぎらないからだ。

 

 

 

ある女性は、子供がいないかもしれない。

 

ある女性は、子供が1人かもしれない。

 

ある女性は、子供が2人かもしれない。

 

ある女性は、子供が3人かもしれない。

 

女性によって子供の数は異なり、かならず2人であるとは、いえない。

 

 

 

だとすれば、おっぱいが2つであるというのは、

子供の数が2人である、ということとは、関係がないのだろう。

 

ふつうは、こう考える。

 

 

 

しかし、ひねくれ者の自分は、違う風に考えてみた。

 

 

 

おっぱいが2つであることの背景にある、2人いる子供というのは、

実際の子供ではないのではないだろうか。

 

ここでいう、お母さんというのも、この世界に存在する現実の、

生身の1人1人のお母さんでは、ないのではないだろうか。

 

 

 

じゃあ、いったい、なんなのだろう。

 

 

 

自分はこのように考えてみた。

 

 

 

このお母さんというのは、この世界のはじまりに存在したはじまりの母で、

それは、なんらかの原理をあらわしていて、

その2人の子供というのは、はじまりの母が生み出した2人の子供であり、

それぞれの子供もまた、それぞれがなんらかの原理をあらわしている、

と。

 

 

 

ではいったい、そのそれぞれの原理とは、なんなのだろう。

 

 

 

ここで、人間の体の姿かたちを、もういちど思い浮かべてみる。

 

 

 

すると、人間のからだには、あちこちに毛が生えているが、なかでも、

頭部と陰部には、集中してたくさんの毛が生えていることに気づく。

 

 

 

小さい子供のころ、どうしてあたまにはたくさん髪の毛が生えているの、

と疑問に思い、おとなに質問したひともいるかもしれない。

 

それに対するおとなの答えは、たいてい、

たいせつなところは毛が守っているのよ、

みたいな感じだったかもしれない。

 

 

 

それでいえば、たしかに、頭部も陰部も、大切なところではある。

 

 

 

しかし、人間の体のなかで、傷つけられては困る大切な部分というのは、

頭部と陰部に限った話ではない。

 

 

 

心臓は大切な部分だが、大人の男性に胸毛がはえていることを別にすれば、

とくに毛でおおわれているわけではない。

 

首には頸動脈が走っていて出血すれば一大事だが、

首の周りをぐるっと毛でおおっているわけでもない。

 

また、陰部というのが「大切な場所」であるならば、

そこが「大切な場所」であることじたいは、幼少のころからかわりなく

そうであるはずなのだが、

毛によっておおわれてくるのは、思春期以降である。

 

 

 

とするならば、

頭部と陰部にとくに集中して毛がはえているのは、

そこが大切な場所であるから、というのではなく、

もっとべつな理由があるからではないか。

 

自分はそう考えた。

 

 

 

じゃあ、その理由とはなんだろう。

 

 

 

さっき、はじまりのお母さんが2人の子供を産んで、

みたいなことを書いた。

 

 

 

お母さんにとって自分の子供というのは、とても大切な存在なんじゃない

だろうか。

 

 

 

もちろん、新聞やテレビのニュースとかをみていると、

幼児虐待だとか、ネグレクトだとかいった事件が報道されることはある。

 

しかし、動物でいえば、卵がかえるまであたためたり、

自分の乳をのませたり、人間でいえば、あたたかい布団でくるんで

あげたり、おむつをかえてあげたり、病気になったら看病してあげたり、

そういったことはもちろん父親もしなければならない育児ではある

けれども、そこに母親の愛情もみてとれるのではないだろうか。

 

 

 

そこで自分は考えた。

 

 

 

人間の体の中で頭部と陰部がとくに毛でもって保護されているのは、

そこに、

この世界のはじまりの母親がうんだ2人の子供がいるから、

その2人の子供を守るために、

とくに毛でつつみこんで保護しているのではないか、と。

 

 

※ 記事のつづきは、こちらから↓

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

 

人間のからだにはこの世界の秘密がかくれている?

さいころは、なんにでも疑問をいだく。

あまりにもあたりまえすぎて、大人になったら考えもしなくなるような、

それでいて、はっきりとした答えがあるかと言われれば、

そうでもないような、

そんな疑問を質問して、お父さんやお母さんを閉口させたひとも、

いるかもしれない。

 

そんな疑問のひとつに、人体に関する疑問がある。

なんで、おっぱいは2つなんだろう。

なんで、女の人はおっぱいがふくらみ、男の人はおちんちんが

突き出ているんだろう。

なんで、人間のてっぺんには髪の毛があるんだろう。

なんで、髪の毛はあたまを守っているんだろう。

なんで髪の毛はつぎつぎ生えてきて、どんどんのびてくるんだろう。

なんで髪の毛は、年をとるとなくなったり、白くなったりするんだろう。

なんで、人間の体の中で、頭部と陰部には、集中して毛がはえ

いるんだろう。

なんで、目は2つ、耳は2つ、鼻は1つ、けど鼻の穴は2つ、

口は1つ、心臓は1つ、胃は1つ、けど肺は2つ、腎臓は2つ、

なんだろう。

って、どんどん疑問がわいてくる。

けど、こういった疑問は、大人になると、あまり考えなくなるのだ。

 

ネットで調べると、こういった疑問をもつひとは、それでも、

いるようで、質問サイトなどで質問しているひとがいる。

それに対する答えのほとんどは、生物学的な知見からの回答

になっている。

生物には、こういうはたらき、機能、目的があって、そのために

こういう構造になっているんですよ、みたいな。

 

でも、自分はちょっとへそまがりな考え方をするのが好きだ。

このブログも、世界への反逆、というタイトルがついている。

ほとんどのひとが考えるような考え方とは違う考え方でも、

大言壮語が許されるならば、

たとえ世界全体を敵にまわしても、自分は1人、違う道をいきたい、

と考える人間なのだ、このブログ主は。

 

上にあげたような、人間の体に関する1つ1つの疑問に、

生物学的な知見からは、それぞれに応じた回答が、逐一、なされる。

でも、自分は考えた。

人間の体にあるそういったさまざまな疑問を、統一的に解き明かす

ことのできるような、なにか深遠な原理が、その背後に存在する

のではないだろうか、と。

 

旧約聖書の冒頭に、創世記という部分がある。

神様が、どうやってこの世界と、人間その他の生き物をつくったか、

ということが書いてあるところだ。

その創世記の、人間をつくりだしたところは、こう書いてある。

1:26

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。

1:27

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

 

この部分を読んでみて、僕は思った。

「やけにしつこいな」と。

なにがしつこいって?

 

「われわれのかたちに」「われわれにかたどって」

「自分のかたちに」「神のかたちに」

 

つまり、人間のかたちというのは、神に似せてつくられたのだ、

ということを、4回も言葉をかえて繰り返しているのだ。

この部分を、どう読んだらいいだろう。

 

人間が神に似せてつくられている、というのを読んだら、

ふつう、どういう想像をするだろうか。

たぶん、神様というのは、人間みたいなすがたをしていて、

たとえば長髪で、白いひげかなんか生やしていて、真っ白のローブ

とかまとって、杖かなんかついてる、みたいな想像をするんじゃ

ないだろうか。

 

でも、これはたぶんちがう。

これだと、「神様は人間に似ている」ということになってしまう。

ちがうよね。

旧約聖書の創世記が言っているのは、神様が人間に似ている、

ということではなく、

「人間の姿かたちは、神様に似ている」

って言ってるんだよね。

これをどう解釈したらいいだろう。

 

僕は考えた。

ここでいう神様というのは、なにか人格をもった主体としての存在

を言ってるんじゃなくて、

この世界がどのように形成されているかという、そのからくり、

真理、秘密、枢機、そういったものを、

神、という言葉で表現したのではないだろうか、と。

 

もしそうだとすると、

人間の体のかたちについてじっくりと考えぬいていけば。

子供のころに疑問に思って、大人になると忘れてしまうような、

そんな当たり前すぎることももういちど考え抜いていけば。

 

この世界の秘密、真理、枢機といったものを、

逆探知」できるのではないか?

そんなふうに考えた。