この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

樹木のかたちと、この世界の秘密。

樹木というのは、あちこちにある。

街並みをあるけば街路樹があるし、山林にももちろんある。

 

樹木というのは、たいていは似たり寄ったりなかたちをしている。

大地に根っこをもち、地面からしばらくの高さまでは、

太くてごつごつし、地味な色合いの1本の幹がのびていく。

しばらくの高さになると、枝分かれしていく。

そして枝はつぎつぎと分岐し、その先端に葉っぱや実をつける。

 

この樹木を思い浮かべて、自分はこんなことを考えた。

この樹木のかたちというのは、この世界のかたちに似ているのではないか、

と。

 

この世界というのは、森羅万象といわれるように、

数限りないいろんな分野に分岐している。

自然界を見渡してみれば、大空があり、大地があり、

山があり、海があり、野原があり、川があり、

水があり、火があり、雷があり、風がある。

生き物でいえば、犬がいて、猫がいて、クマがいて、キリンがいて、

ゾウがいて、ヤマアラシがいて、ハチがいて、コオロギがいる。

人間でいえば、お父さんがいて、お母さんがいて、

おじいちゃんがいて、おばあちゃんがいて、お兄さんがいて、

お姉さんがいて、おじさんがいて、おばさんがいて、

学校の先生がいて、近所のおじさんがいて、新聞を配達するひとがいて、

お医者さんがいて、会社の上司がいる。

書店にいけば、森羅万象の分岐はあきらかだ。

物理学、化学、生物学、天文学、電気工学、医学、薬学、看護学

数学、コンピュータ、文学、小説、料理、占い、旅行、スポーツ、

鉄道、車、手芸、将棋、囲碁、マージャン、コミック、

さまざまなコーナーがあるはずだ。

 

森羅万象といわれるような、この無限にもみえる分岐というのは、

樹木でいうと、ある程度の高さより上の部分の、

枝葉がどこまでも分岐していく部分にあたるのではないか。

とするならば、

樹木でいうとそのたくさんに分岐した枝葉のしたの部分には

ただ1本の太い幹があり、分岐した枝葉もただ1本のその太い

幹へと回帰していくように、

無限に見えるようなこの世界の森羅万象の背後、根源には、

なにか根本となるような深遠な1つの原理がかくれていて、

森羅万象の存在や現象も、みな、そこに帰着していくのではないか。

そんなふうに考えた。

 

では、そんな森羅万象のかえっていく、この世界の根本原理、

世界の秘密、真理、からくり、枢機は、

いったい、どんなところにかくれているのだろう。

じつは、これについても、樹木の形状が示唆を与えてくれるのかも

しれない、と考えている。

 

樹木というのは、四季折々の変化をみせる。

春になれば、梅や桜といった樹木は花を咲かせる。

「やあ、きれいだね」と言って、ひとは、お花見をしたりする。

夏になれば、枝は緑の葉っぱでぎっしりとおおわれる。

蝉がみーんみーんと鳴いたりして、子供たちは蝉取りをするかもしれない。

秋になれば、葉っぱは赤や黄色に色づく。

「やあ、きれいだね」と言って、ひとは、紅葉見物をしたりする。

冬になれば、樹木は葉っぱを落とす。

凍てつくような寒空にそびえる枝だけになった樹木をみて、

ひとは冬の訪れを感じるかもしれない。

 

樹木の、ある程度の高さよりうえの枝葉の部分というのは、

よく変化する。

変化するものは、ひとの耳目をひきつける。

「やあ、きれいだね」と言って桜を見、

「やあ、きれいだね」と言ってもみじを見る。

ひとは、「見ようと」するのだ。

 

しかし、「見ようと」して視界にいれたその先にあるのは、

樹木でいえば、枝葉の部分。

この世界でいえば、森羅万象のさまざまに分岐した実際の存在や現象

にあたる部分だ。

 

この世界でいうところの、さまざまに分岐した森羅万象の存在や現象の、

背後に隠れている根本の原理、深遠な原理にあたる部分は、

樹木でいえば、枝葉よりはしたにある、1本のごつごつした太い幹だ。

はたしてひとは、このごつごつした1本の太い幹を、

「見ようと」するだろうか。

 

しないだろう。

その1本の太いごつごつした幹は、色もこげ茶か薄茶色で、

表皮はざらざら、ごつごつしていて、

れいな花を咲かせるでもなく、きれいな紅葉をみせるわけでもない。

人の目に、ひとの心に、特段の感興をなんらもよおさないから、

ひとはわざわざそれを「見ようと」はしないのだ。

 

じゃあ、ひとには、その1本の太いごつごつした幹は、

見えていないのだろうか。

 

それもちがう。

ひとには、その1本の太いごつごつした幹は、いつも「見えて」いる。

れいな桜の花や、きれいなもみじの紅葉は、枝葉のほうにある。

ひとはそれを「見ようと」すれば、視線をあげなければいけない。

視線をあげて、わざわざ「見ようと」したその先にあるのが、

そのきれいな桜やもみじなのだ。

しかし、1本の太いごつごつした幹はちがう。

ひとは、視線をわざわざあげなければ、その視線は、

だいたい自分のあたまと同じくらいの高さにある先を見ている。

そして、自分のあたまと同じくらいの高さには、ふつう、樹木でいえば、

1本のごつごつした太い幹があるのだ。

 

つまり、

1本のごつごつした太い幹は、「見ようと」しないとき、

いつも「見えて」いる。

でも、ひとにはそれが、あまりにもあたりまえすぎて、見ているなどとは

思わないのだ。

だから自分はおもう。

この世界の森羅万象の背後にかくれている根本の原理、深遠な原理は、

「見ようと」してどこか遠くを探し求めたその先に存在するのでは決してなく、

たとえば、巨大な実験施設を使用しなければならないような、

科学的な探索のその先にあるのでは決してなく、

世界の果てをもとめて大海原の果てまで航海していったその先にあるのでは

決してなく、

あまりにもあたりまえすぎて、かえって注意をはらわないようなものの

なかに隠されているだろう、と。

言葉にはこの世界の秘密がかくれている?

人間のからだにはこの世界の秘密がかくれているのではないか、

ということを、このブログの別の記事で書いた。

 

じつはもうひとつ、言葉や文字といったものにも、

この世界の秘密がかくれているのではないか、と思う。

 

新約聖書ヨハネによる福音書第1章の冒頭には、

次のようにある。

1:1

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

1:2

この言は初めに神と共にあった。

 

この部分も、やけにしつこい表現となっている。

言葉が神であり、言葉が神とともにあったということを、

3回も繰り返しのべている。

 

神というのが、この世界のからくり、秘密、真理、枢機を

表現した言葉だとすれば、

言葉や文字について深く思考をめぐらしていけば、

この世界のからくり、秘密、真理、枢機を、

逆探知できるのではないか。

そんなふうにも考えた。

 

普段あたりまえに見慣れている人間の体や、

あたりまえに使用している言葉や文字は、

あまりにもあたりまえすぎて、あらためて注意をはらうことがない。

昔、こんな話があったと記憶する。

封書を部屋のどこかに隠すのに、いちばん見つかりにくいところは

どこか、ということで試してみたが、

最後まで見つからなかった封書は、レターボックスのなかに

隠されていたという。

神はこの世界の秘密をかくすのに、

どこか遠くの果てにかくしたのではなく、

あまりにもあたりまえすぎて人がふつう注意をはらわないような

ところに隠したのではないだろうか。

なぜ、おっぱいは2つなのか? 1

人間のおっぱいは、なぜ、2つなんだろう。

 

 

 

こんな疑問をもつひとが、ときどき、いる。

 

ネット上の質問サイト、たとえば、知恵袋といったようなところにも、

こういった疑問がよせられる。

 

 

 

これに対する回答はさまざまだ。

 

たいていは、生物学的な知見から、他の生き物のこととかもふくめて、

回答がなされている。

 

 

 

たまに、

1つは赤ちゃんのため、もう1つは旦那のため、

なんていう回答があったりして笑える。

 

 

 

例によって、自分はこの疑問についても、

いちから自分の頭で考えてみようと思った。

 

 

 

おっぱいというのは、なにをするためのものだろう。

 

 

 

それは、赤ちゃん、つまり、自分の子供を育てるためのものだ。

 

 

 

それが、2つある。

ということは、子供が二人いる、ということなのだろうか。

 

 

 

しかし、この考えは、障壁にぶつかる。

 

現実のこの世界に存在する、実際の女性たちは、

その子供が2人とはかぎらないからだ。

 

 

 

ある女性は、子供がいないかもしれない。

 

ある女性は、子供が1人かもしれない。

 

ある女性は、子供が2人かもしれない。

 

ある女性は、子供が3人かもしれない。

 

女性によって子供の数は異なり、かならず2人であるとは、いえない。

 

 

 

だとすれば、おっぱいが2つであるというのは、

子供の数が2人である、ということとは、関係がないのだろう。

 

ふつうは、こう考える。

 

 

 

しかし、ひねくれ者の自分は、違う風に考えてみた。

 

 

 

おっぱいが2つであることの背景にある、2人いる子供というのは、

実際の子供ではないのではないだろうか。

 

ここでいう、お母さんというのも、この世界に存在する現実の、

生身の1人1人のお母さんでは、ないのではないだろうか。

 

 

 

じゃあ、いったい、なんなのだろう。

 

 

 

自分はこのように考えてみた。

 

 

 

このお母さんというのは、この世界のはじまりに存在したはじまりの母で、

それは、なんらかの原理をあらわしていて、

その2人の子供というのは、はじまりの母が生み出した2人の子供であり、

それぞれの子供もまた、それぞれがなんらかの原理をあらわしている、

と。

 

 

 

ではいったい、そのそれぞれの原理とは、なんなのだろう。

 

 

 

ここで、人間の体の姿かたちを、もういちど思い浮かべてみる。

 

 

 

すると、人間のからだには、あちこちに毛が生えているが、なかでも、

頭部と陰部には、集中してたくさんの毛が生えていることに気づく。

 

 

 

小さい子供のころ、どうしてあたまにはたくさん髪の毛が生えているの、

と疑問に思い、おとなに質問したひともいるかもしれない。

 

それに対するおとなの答えは、たいてい、

たいせつなところは毛が守っているのよ、

みたいな感じだったかもしれない。

 

 

 

それでいえば、たしかに、頭部も陰部も、大切なところではある。

 

 

 

しかし、人間の体のなかで、傷つけられては困る大切な部分というのは、

頭部と陰部に限った話ではない。

 

 

 

心臓は大切な部分だが、大人の男性に胸毛がはえていることを別にすれば、

とくに毛でおおわれているわけではない。

 

首には頸動脈が走っていて出血すれば一大事だが、

首の周りをぐるっと毛でおおっているわけでもない。

 

また、陰部というのが「大切な場所」であるならば、

そこが「大切な場所」であることじたいは、幼少のころからかわりなく

そうであるはずなのだが、

毛によっておおわれてくるのは、思春期以降である。

 

 

 

とするならば、

頭部と陰部にとくに集中して毛がはえているのは、

そこが大切な場所であるから、というのではなく、

もっとべつな理由があるからではないか。

 

自分はそう考えた。

 

 

 

じゃあ、その理由とはなんだろう。

 

 

 

さっき、はじまりのお母さんが2人の子供を産んで、

みたいなことを書いた。

 

 

 

お母さんにとって自分の子供というのは、とても大切な存在なんじゃない

だろうか。

 

 

 

もちろん、新聞やテレビのニュースとかをみていると、

幼児虐待だとか、ネグレクトだとかいった事件が報道されることはある。

 

しかし、動物でいえば、卵がかえるまであたためたり、

自分の乳をのませたり、人間でいえば、あたたかい布団でくるんで

あげたり、おむつをかえてあげたり、病気になったら看病してあげたり、

そういったことはもちろん父親もしなければならない育児ではある

けれども、そこに母親の愛情もみてとれるのではないだろうか。

 

 

 

そこで自分は考えた。

 

 

 

人間の体の中で頭部と陰部がとくに毛でもって保護されているのは、

そこに、

この世界のはじまりの母親がうんだ2人の子供がいるから、

その2人の子供を守るために、

とくに毛でつつみこんで保護しているのではないか、と。

 

 

※ 記事のつづきは、こちらから↓

 

reasongomainstream.hatenablog.com