この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

明智光秀と、メルカリ。

こんばんわ。天機です。

 

 

 

今回は、明智光秀と、メルカリ、というテーマで書いてみようと思います。

 

 

 

ご存知の方もいるかもしれませんが、ことしのNHK大河ドラマ

麒麟がくる」において、

NHK大河史上はじめて、明智光秀が主人公になります。

 

 

 

この明智光秀、日本においては、あまり人気がない。

 

 

 

主君を裏切った、ということで、

たとえば企業経営者なんかにとってみれば、

もっとも警戒すべき性質をもった輩、ということになってしまうでしょう。

 

また、主君を裏切ったのに、その天下が11日しか続かなかった、

ということで、ヒーロー的な要素もない。

 

ある意味、負け犬のようにも見えてしまうのです。

 

 

 

ということで、明智光秀には、どうも、

ひとびとの共感やあこがれをよぶ要素が欠落しているようでもあって、

これまで少なくとも大河では、

主人公を張ることができなかったのですね。

 

 

 

ところが今年はじめて、その明智光秀が主人公を張ることになった。

 

時代は変わったものだなあ、というのが、まず第一の印象です。

 

 

 

個人的にはこの明智光秀という人物が好きなんです。

 

だから、はじめて大河の主人公を張ることになって、うれしかったですね。

 

 

 

どこが好きか、というと、反逆したところです。

 

日本という国においては、どうも、主君に対して反逆する、

ということが、好意的には受け入れられないようで、実際、

中国でもフランスでもロシアでもイギリスでも、

多くの諸外国で、いわゆる「革命」によって政権が倒されることがあるのですが、

どうも日本では、

国内戦争はあっても、それが「革命」とは呼ばれないようで。

 

革命が嫌いな国なのかもしれません。

 

 

 

さて、この明智光秀という人物。

 

なかなかの軍略の才能があり、いくつか手柄をたててもいるのですが、

なかなか主君に恵まれませんでした。

 

中国地方の毛利元就に仕官を願い出たときには、

あいつは骨相が悪い、と元就に門前払いにされ、

主君になった織田信長とのあいだの関係も悪くなって、結局、破滅しました。

 

 

 

なんで才能があったのに、それが世になかなか顕われないのか、といえば、

人間の歴史の非常に長い時期において、

 

光る才能をもった個人よりも、

人を組織する才能をもった人間のほうが

大きな力を持っていたから

 

です。

 

 

 

これは本当にそうです。

 

ところかわって、中国の秦漢時代においても、

特異な軍略の才を秘めて国士無双とも評されるにいたる韓信なんかは、

劉邦にめぐりあうまでは乞食同然の境涯におり、

結局、その劉邦にものちに猜忌されることになって、処刑されてしまいます。

 

 

 

これまでの人間の歴史の非常に長い時代において、

特異な才能をもった「個人」というものは、

その「むきだしの才能」のまま、それをかかえて世の中に直接うってでる、

というのが非常にむずかしく、

なんらかの組織に属することを余儀なくされ

そのために結局は、ひとを組織する才能があって集団の頭となった者ばかりが

繁栄し、

特異な才能をもった個人なんかは、ある意味、危険視されることすらあったのです。

 

明智光秀も、結局、才能をかかえた「個人」であって、

そのままの「むき身の才能」だけでは、乱世にうってでることができず、

組織に属する必要があったところから、かれの苦労は生じているわけです。

 

 

 

これは、現代日本の企業社会においても、おおむねそうです。

 

長者番付の上位にくるひとというのは、おおむね、

事業を興し、ひとを組織して成功し、結果として富豪になったひとばかりだと

思うのです。

 

 

 

ところが、21世紀にはいり、インターネットがますます深化するなかで、

この、

 

世に打って出るにはひとを組織しなければならない

 

という不文律に、風穴があきつつあるようにもみえます。

 

 

 

その1つの例が、メルカリです。

 

これまで、どんなものでも、たとえば、自分がつくったアクセサリーでも、

商売して販売しようと思えば、

まず普通考えるのは、売店をつくってそれで販売する、ということでした。

 

そこでは当然、従業員をやとう必要もあるでしょう。

戦後の日本のおおくの企業、小売業も、

そのような当然の前提の中から、おおくが誕生してきたのです。

 

簡単に言えば、

個人が「むき身のままで」販売業にうってでることは、できなかったのです。

 

 

 

ところが、たとえばメルカリというサービスが誕生したことで、

モノを販売する時に、小売店を開設したり、従業員を雇用したり、

端的に言えば、「ひとを組織する必要」がなくなりました

 

個人が個人のまま、その才能だけをもって、

直接世に打って出ることができるようになったのです。

 

 

 

これは非常におおきな変化です。

 

ほかにも、YouTube、ココナラ、ネット株取引など、

インターネットが成立する以前には考えられなかったような

おおくのサービスが、

 

個人が人を組織することなく直接世に打って出る可能性

 

を後押ししています。

 

結果、そのようなインターネットを介した個人間の売買システムは、

近い将来、正規の小売業を脅かす存在になる、とすら分析されているのです。

 

 

 

2020年にはじめて大河ドラマの主人公になった明智光秀は、

ありあまる「個の才能」を蔵しながら、

それをもって世に出ようと悪戦苦闘したひとでした。

 

そして同じく2020年、ますます隆盛するメルカリなどのサービスは、

個人が直接世に打って出る可能性を描き出しています。

 

 

 

2020年は、個人と、個人の持つ才能について、

おおきなマイルストーンとなる年になりそうな気がしています。

「分断」は、本当に悪いことなのだろうか?

みなさんこんばんわ。天機です。

(約 1900字)

 

 

最近、世界中で、分断と対立が数多く発生していると言われています。

 

 

そして、主要メディアの多くは、そのことを否定的に報じています。

 

 

ローマ教皇なんかも、折に触れて、分断ではなく協調を、

なんて呼び掛けていますね。

 

 

このような報道に接していると、

ああ、分断ってよくないものなんだなあ、

みんなもっと和合すればいいのに、

なんて思う人も、いるかもしれません。

 

 

でも、本当に分断や対立って、よくないことなのでしょうか?

 

 

そもそも、なぜ最近の世界では、分断や対立が

 

目立つ

 

ようになってきたのでしょうか。

 

 

じつは、人間の歴史においては、

分断や対立は、けっしてめずらしいものではありませんでした。

 

 

分断や対立こそが常態であった、といっても過言ではないのです。

 

 

日本にも、戦国時代がありました。

 

 

文明の誕生以来の世界史は、帝国どうしの戦争で満ち溢れています。

 

 

列強の植民地争いのあとには、二度にわたる世界大戦があって、

それが終わると東西冷戦構造です。

 

 

こうしてみてくると、人類の歴史は、

分断や対立に色濃く染められていることがわかると思います。

 

 

ところが、いまから30年ほど前に、東西冷戦構造が終結し、

事実上の勝者となったアメリカによって、

一極支配の構造が世界に現出しました。

 

 

それまでは、ソ連を中心とする東側陣営と、

アメリカを中心とする西側陣営の、

あわせて2つの陣営によって世界は分断されていて、

いわば、

この地球上に数字の2が刻印されているようなものだったのですが、

東側陣営が崩壊し、アメリカが単独で覇権を握るようになって、

地球に刻印される数字は、数字の1へと変貌したのです。

 

 

そのころからこの地球上で勢力を増したのが、

経済社会にかんする側面でいえば、

グローバリゼーションです。

 

 

これは、世界が経済社会的に一体化すればするほど、

巨大企業の計上する利益も莫大なものになっていくので、

和合こそがよしとされたのです。

 

 

でも、それはほんとうに和合だったのでしょうか?

 

 

たとえば、みながみな和合しあい、100%仲良くなって、

仲間外れに泣くような者が誰一人としていないのならば、

それは真の和合といってもいいと思います。

 

 

しかし、現実の世界では、そんなことは稀です。

 

 

たいていは、

99対1とか、9対1とか、あるいはそこまでいかなくても、

8対2とかでもって、

主流派の見解に反対するような者の意見が封殺されて、

残った8割の者、

あるいは9割の者の意見がスムーズに通ることをもって、

あたかも、全体での和合がなされているかのように、

擬態していただけではないでしょうか。

 

 

つまり、1990年ごろから現在までの、

アメリカ一極支配のもとで

グローバリゼーションが繁栄した時代というのは、

ほんとうの意味での和合などは、じつは存在していなくて、

主流派がなぜか容易に8割、9割の多数をとることができ、

それでもって、2割、1割の反対派を圧殺することでもって、

見せかけの和合を演出していただけのように、天機には見えるのです。

 

 

では、なぜ最近になって、

その和合が成立しにくくなったのか、といえば、

主流派が、意見の対立するさまざまな論点について、

かつてのように容易に圧倒的多数を確保することが、

むずかしくなってきたからです。

 

 

それがあらわれているのが、たとえば、

国民投票や国政選挙での投票結果です。

 

 

イギリスのEU離脱国民投票でも、

トランプを選出したアメリカ大統領選挙でも、

その勝敗は、僅差によって決定されました。

 

 

そして、最近になって、この

 

僅差で決着がつく

 

という事象が、世界中で非常に増えているのです。

 

 

僅差ということは、どういうことかといえば、

これまで8割、9割の多数を確保できていた主流派の力に陰りが生じ、

反対に、

これまでは2割、1割の境涯に甘んじていたアンチ主流派の勢いが

増している、ということにほかなりません。

 

 

つまり、これまでというのは、99対1とか、9対1とかだったので、

そもそも、戦いにすらならなかった。

 

 

だからこそ、和合のように見えたのです。

 

 

ところがそれが、最近になって6対4とか、5対5とかになってきたので、

一方が他方を簡単に

 

蹂躙

 

することができなくなってきたのです。

 

 

だからこそ、まるで和合が消え失せてしまい、

分断と対立が頭をもたげてきたかのように映るのだと、天機は思います。

 

 

分断と対立はよくない、協調と和合が大切だ、というときには、

えてしてその和合には、

簡単に封殺され、蹂躙された少数派への観点がないがしろになっています。

 

 

天機は、たとえ表面上は分断と対立があるようにみえても、

簡単に相手に屈することなく、

戦いに立ち上がった少数者の存在する、

分断と対立もまたいいものだと思っています。

イギリスで保守党が圧勝したニュースについて。

こんばんわ。天機です。

(約 2500字)

 

 

 

最近はずーっと、岩田帯の話を書いてきたのですが、

どうも、構想をうまくまとめられないんですよね。

 

 

 

そうこうしているうちに、何日も記事を更新できないという

悪循環がつづいていました。

 

 

 

そこで、これからは、思いついたときに、

岩田帯とは関係ない記事でも躊躇なくアップし、

岩田帯の記事は随時更新していく、という方針でいこうと思います。

 

 

 

さて、今回天機が気になったニュースは、

イギリスの総選挙で保守党が圧勝した、というニュースです。

去年のニュースですね。

 

 

 

天機は、イギリスの政治情勢に特段の関心があったわけではなかったのですが、

今回のイギリス総選挙は、

その結果がEU離脱の成否に大きく影響するというので、

関心がありました。

 

天機は、イギリスのEU離脱問題に大きな関心を持っているのです。

 

 

 

今回の保守党の大勝を受けて、欧米のメディアを含めたメディアは、

さまざまな報道をしています。

 

 

 

今回保守党が勝ったのは、決められない政治にイギリス国民がうんざりしたからだ、

という報道。

 

今回保守党が勝ったとしても、EU離脱に至るまでには、

なお、茨の道が続くだろう、とする報道。

 

 

 

報道するにあたって注目するポイントは多種多様のようですが、

概して、

イギリスがEUを離脱することを快くは思っていないことが、

それらの報道姿勢からは伝わってきます。

 

 

 

今回のイギリス総選挙での保守党の大勝については、

注目すべきポイントはいくつもあるでしょう。

 

 

 

しかし、いちばん落としてはいけない重要ポイントというのは、

 

 

 

イギリス国民はEUとの関係を断ち切りたいのだ、

という意思を、

2016年の国民投票についで、

再度、はっきりと示した

 

 

 

ということなのです。

 

 

 

今回の選挙で労働党は、

本当に国民はEUを離脱したがっているのかどうか、

再度の国民投票をおこなおう、ということを、

選挙の公約にかかげていたのですが、

今回の選挙の結果によって、

期せずして、そんな国民投票なんかをおこなわなくても、

国民の意思がはっきりと示されてしまったかたちです。

 

 

 

ところが、欧米メディアをはじめとしたメディアの多くは、

それは都合の悪い真実だからなのか、

イギリス国民の多くは、はっきりと、EU離脱の固い意志を持っている、

ということについては、

正面切っては報道しないようです。

 

 

 

1990年ごろに、いわゆる東西冷戦構造が終結し、

それから現在に至るまでのおおよそ30年間のあいだ、

全世界をずーっと、

 

グローバリゼーション

 

の拡大の潮流が席巻しつづけていました。

 

 

 

その流れの1つのあらわれとして、欧州が一体化していくという、

欧州統合の流れがあり、

また他方では、全世界にサプライチェーンが張り巡らされることになって、

先進国と発展途上国とが経済的に一体的な結びつきの流れの中に組み込まれて

いくことになってきたわけです。

 

 

 

このグローバリゼーションには、光と影の両側面があります。

しかし、すくなくともここ30年間は、

それが拡大する方向へと、時代の風は吹いていたわけなのですね。

 

 

 

それが、2016年、イギリスの国民投票EUにNOが突きつけられて、

欧州統合の流れに、最初のシンボリックな挑戦がなされることになります。

 

期せずして、同年には、保護貿易主義をかかげるトランプ政権も、

アメリカにおいて成立します。

 

また最近では、グローバリゼーションの権化とも目されてきたカルロスゴーン氏の

失脚がありました。

日本から逃げましたけれども。

 

 

 

時代がある方向へと変化しようとするときには、

それを象徴するような出来事がつぎつぎと発生してくるものだ、

と、天機なんかは考えているのですが、

こうしてみてくると、

ここ最近、あきらかにグローバリゼーションの流れに逆風が吹いているなあ、

と思えてきます。

 

 

 

そして、経済や社会にかんしてのグローバリゼーションに対する拒否の流れは、

もっと大きな視点でとらえてみれば、

 

接続することへの拒否

 

を内包しているのかもしれない、なんて思うのです。

 

 

 

いやいや、こうやって人々がネットを介してつながるようになっているし、

家電製品なんかもIOT化していく流れなのに、

どうして接続を拒否するなんて言えるの?

と思われるかもしれません。

 

 

 

しかしながら、そうやってひとびとが「接続する」流れのなかで、

それと同時並行的に、

接続したくない意思」のようなものが、

ひとつのパワーになってきているようにも見えるのです。

 

 

 

たとえば、先に述べたような、イギリスにおけるEU離脱を支持する潮流。

 

あれなんかも、国民投票のときには、大企業のCEOなんかは、

① EUとつながることの素晴らしさ

② EUとのつながりを絶つことのマイナス面

をさかんに喧伝して、それでイギリス国民をEU残留のほうへと導こうと

したわけです。

 

 

 

ところが実際にイギリス国民の心をとらえた考え方というのは、

移民による治安の悪化など、

 

③ EUつながることのマイナス

 

だったわけです。

 

 

 

ところかわって日本でも、コンビニの24時間営業というのにいま、

逆風が吹いているようにみえます。

 

 

 

コンビニの24時間営業への逆風と、接続することへの拒否が、

いったい、なんの関係があるの?

と思われることでしょう。

 

 

 

でも、時計の文字盤を思い浮かべてください。

 

 

 

1から12までの数字が、ぐるーっと時計の文字盤にならんでいます。

 

24時間営業をするということは、

その営業時間に

 

切れ目

 

がなかった、ということです。

 

ずーーっと、営業時間が

 

接続

 

していたのです。

 

 

 

24時間営業をやめるということは、その営業時間の中に

切れ目

が入るようになる、ということにほかなりません。

 

つまり、接続が象徴的に絶たれるわけです。

 

 

 

こういったことは、いま、世界中で起きつつあるように思われます。

 

イギリスのEU離脱、グローバリゼーションへの逆風、そして、

日本でのコンビニ24時間営業への逆風を事例としてあげましたが、

これまでパワーを持ってきた、

 

接続

 

というもの、そのものが、逆風にさらされるようになるのかもしれないと、

天機は考えています。