この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

気持ちいいことは、悪なのだろうか。

こんにちわ。天機です。

(この記事 約2600字)

 

 

 

連日暑い日が続いていますね。

熱中症への警戒がさけばれています。

 

 

 

熱中症への対策としては、水分や塩分の補給、ということが

よく言われるのですが、

どういうわけか、

「冷房を使用しましょう」

とは、なかなか言わないような気が、天機はいつもするのです。

 

そして、冷房を使用しましょう、と、かりに言ったとしても、

冷房を「適切に」使用しましょう、などと言ったりするんですね。

 

まるで、冷房を使用することに、なんとかして枷(かせ)をはめたいような、

そんな雰囲気を感じるのです。

 

 

 

天機は、熱中症対策としても、夏の暑さを緩和するためにも、

冷房をかけたほうがいい、と思っています。

 

そして、冷房というのは、

「適切に」使用すれば、暑さという苦痛をとりあえず軽減できますが、

「キンキンに」部屋を冷やせば、すごく気持ちよくなります。

 

 

 

思うのですが、冷房は、「適切に」使用することだけが許されて、

「キンキンに」部屋を冷やすことは、なにか悪いことなのでしょうか。

 

 

 

天機は、どうもそうは思えないのです。

 

この世の中には、

 

①とりあえずの必要性を満たせるという段階

 

と、そこからさらにすすんで、

 

②気持ちよくなる、快楽を得られる段階

 

という、2段階になっているものが、ときどきあります。

 

 

 

たとえば、飲食はどうでしょうか。

 

 

 

人間という生き物は、食べ物を食べたり、飲み物を飲んだりしなければ、

命をたもつことができません。

食べたり、飲んだりすることは、人間の生存にとって、

「必要な」ことなのです。

これが、必要性を満たす、という段階です。

 

 

 

この点、ただ単に必要性を満たす、というだけなら、

ヒエやアワのようなものを主食にして、豆類などの雑穀をたべ、

一汁三菜を基本にして、1日2食にしたとしても、

生存はできるかもしれないのです。

 

 

 

ところが、現実の人間の行動は、どうでしょうか。

飲食に関して、必要性を満たす、という段階で、とどまっているでしょうか。

 

 

 

そうではない、と思います。

 

人間は、飲食に関して、ただ単に生存の必要性を満たすために、

最低限の食事をとる、ということを超えて、

「美味しいものを」「たくさん食べて」

味覚や食欲を満足させようとします。

 

焼き肉やステーキ、寿司やお刺身、メロンやアイスクリームなど、

人間はいろいろと、「美味しい」ものを好んで食べますよね?

テレビの番組などを見ても、

美味しそうな料理が画面に映っていないような日をさがすのは、

とても難しいでしょう。

 

それはなぜかというと、

人間が食事をとることは、生存のために必要な行為なのですが、

食事をとるという行為それ自体は、快楽と結合しているからです。

人間は、その快楽を、積極的に実現しようとするのです。

 

 

 

ということは、どういうことかというと、

人間は、飲食に関して、

「必要性を満たす」という段階にとどまらず、そこからさらにすすんで、

味覚や食欲という、「気持ちよさや快楽を得る」ということも、

自然におこなっているわけであって、

そういった「気持ちよさや快楽を得る」ことは、

べつに悪いことだとは考えてはいない、ということになります。

 

 

 

であるならば、飲食についてそのようであるならば、

そのほかのことについても、

「必要性を満たす」という段階を超えて、

「気持ちよさや快楽を手に入れる」という段階を、人間が目指したとしても、

一概に非難されるものでもないと、天機なんかは思うのです。

 

 

 

その1つの例は、さきの冷房の例です。

 

冷房を「適切に」使用することは「必要性を満たす」という段階の行為で

ありますが、そこからさらにすすんで、

部屋を「キンキンに」冷やすことで、

「気持ちよさや快楽を得た」としても、

それはべつにかまわない、ということになります。

 

 

 

他の例としては、人間の性欲もそうです。

 

 

 

生殖行為というのは、人間が子孫をつくるためにおこなうものですが、

生殖行為それ自体は、快楽と結合しています。

 

 

 

子孫をつくるためには生殖行為が必要だ、というのは、「必要性の段階」です。

 

この必要性を満たすためだけならば、

子供をつくるという明確な目的と計画をもっているときにだけ、

そういった生殖行為をおこない、

それ以外の時には、生殖行為などおこなわなければいいのですが、

人間というのは、そういうふうにはなっていませんよね。

 

べつに、子供をつくろうなどとは考えていないときでも、人間は、

エッチなことを考えて、エッチな行為をおこないます。

 

 

 

そして、先に見たように、

「必要性を満たす」という段階を超えて、

「気持ちよさや快楽を得る」という段階にすすんだとしても、

かならずしも非難されるものではないことからすると、

人間が、子供をつくるという目的や計画とは関係なく、

エッチなことを考えたり、エッチな行為をおこなったとしても、

それはべつにかまわない、ということになります。

 

 

 

なんでわざわざ、こんなことに言及するのかというと、

どうも、

冷房は適切にかけるのはかまわないが、キンキンに冷やすのはよくない、とか、

エッチなことを考えたり、したりするのは、よくないことで、

抑制されなければならないことだ、とかいった空気があるような気が、

天機はするからなんですね。

 

もっとも、これは天機の勝手な思い込みかもしれませんが。

 

 

 

でも、それならば、

冷房を使用することや、エッチなことに、制限を課そうとするのならば、

飲食だけが、なんの制限も課されずに、

まるで、無条件に明るくハッピーなことででもあるかのように、

承認され、称賛されているのは、おかしいことだと思うんですよ。

 

 

 

冷房を過度に使用すれば電力需給が逼迫する、という問題は、たしかにあります。

エッチな欲望が亢進すれば、ときには性犯罪などにつながったりする懸念も、

たしかにあります。

 

しかしいっぽうで、

人間がその食欲を野放図に満たそうとしなければ、

この世界に生きている、他の生命たちは、

人間に捕食されることなく、生き続けられたかもしれないのです。

 

 

 

こういったことを考え合わせると、天機は、

冷房をかけることやエッチなことに対して制限をかけるのであれば、

飲食についても制限をかけなければ、辻褄があわないようにも思うのです。

 

 

 

実際には、飲食については、みんなが楽しんでいて、

テレビなどでも、さかんにハッピーなこととして、とりあげられています。

 

であるならば、

冷房をかけたり、エッチなことを楽しんだりすることにも、

そんなに目くじらをたてないで、

みんなで楽しんだらいいのではないでしょうか。

 

 

 

天機は、そう思います。

西日本豪雨と、米中貿易戦争に思う。

こんにちわ。天機です。

ひさびさの更新になります。

(この記事 約2500字)

 

 

 

最近も、いろいろとニュースが多いですね。

 

国内でいえば、西日本の記録的な豪雨によって、おおきな被害が発生しています。

 

海外に目を転じてみると、

アメリカのトランプ政権が対中国で巨額の制裁を発動したことをきっかけとして、

米中貿易戦争がはじまろうとしています。

 

また、ヨーロッパにおいては、

各国で移民問題が深刻化するようになって、

EUの理念が揺らごうとしています。

 

 

 

天機は、これらさまざまなことの背景に共通してあるのは、

 

「異常の顕在化、例外の顕在化」

 

なのではないだろうか、というふうに思うのです。

 

 

 

この世界は、一見したところ、

どこまでも「普通の日常的な世界」がひろがっているようにも思えます。

 

しかし天機は、

その日常的な世界のはるかかなた、その周縁部、辺境には、

「普通ではない世界」が存在しているように思うのです。

 

 

 

通常があるとすれば、異常もある。

原則があるとすれば、例外もある。

 

この世界というのは、

通常と異常が組み合わさって、原則と例外が組み合わさって、

はじめて成立している。

 

けっして、通常だけでできているとか、原則だけでできているとか、

そういったことはないのだ。

 

通常だけ、原則だけ、という「1つ」ではなくて、

通常と異常、原則と例外、という「2つ」こそが、

この世界を表現するのに正しい数字なんだ。

 

天機は、そう思うのです。

 

 

 

自然災害などおこらない、平穏な日常生活というのが「通常」ならば、

大規模な自然災害が発生しておおきな被害が出るというのは「異常」です。

 

最近は、自然災害もふえてきているように感じます。

今回の西日本豪雨災害でも、死者数が200人に迫ろうとしています。

 

自然災害は「異常」をあらわすものですが、その「異常」は、

この世界から消すことは、できないのです。

 

ふつうは、自然災害は、まれにしか起こりません。

毎日毎日、自然災害が起こるかというと、そういうことは、ないわけです。

自然災害が起こる可能性は、やっぱり、とても小さい。

 

でも、とても小さいものは、すなわちゼロなのか、といえば、

それはちがう。

 

とても小さいものは、とても小さいものながら、それはゼロにならずに、

厳然として存在し続ける。

消せないのです。

 

 

 

国と国とがおたがいに仲良くし、共通の相互利益をめざして貿易などを

発展させていく、というのが「通常」であるのならば、

おたがいに対立しあい、制裁などを課すようになって貿易が縮小し、

はては、戦争状態にまで至ってしまうようなのは、「異常」です。

 

1990年前後から、これまで30年ほどにわたって、

世界を席巻してきた潮流というのは、

いわゆる「グローバリゼーション」という言葉で表現されるような、

世界的に貿易が拡大し、国と国とが密接に関係しあい、

世界が一体化していくという、

上でいうところの、「通常」の拡大局面だったわけです。

 

ところが、

2016年に発生した、

イギリスのEUからの離脱、アメリカにおけるトランプ政権の誕生、

といったイベントをきっかけに、

世界の潮流、風向きがかわりはじめました。

 

ヨーロッパにおいては、

国と国との垣根をなくしていく利益よりも、移民の弊害のほうがクローズアップされる

ようになり、

アメリカでは、これまで自身が率いてきた自由貿易体制による利益よりも、

安価な海外製品が自国産業を破壊する弊害のほうがクローズアップされるように

なってきたのです。

 

いわば、上でいうところの、「異常」が、だんだんと顕在化してきたのです。

 

ふだんの国と国とのやりとりでは、

貿易の振興をつうじてお互いに発展していくことを目指す、というのが、

「通常」です。

ほとんどの局面は、それなのです。

 

でも、その背後には、

国と国とが、自国の利益をかけていがみあい、激しく対立するという、

「異常」が存在しているのです。

 

この「異常」は、日常的な世界には、なかなかあらわれてきません。

なかなかあらわれてきませんから、ひとは、

そんなものはないんだ、と、ともすれば、考えてしまいがちなのです。

 

ところが、その「異常」は、けっしてなくなったわけではない。

「異常」を、この世界から消し去ることは、できないのです。

その「異常」は、この世界にあらわれる機を、じっと待っていて、

それがたとえば、

今般の米中貿易摩擦や、ヨーロッパにおける移民に対する世論の硬化のように、

一挙に噴出してくることがあるのです。

 

 

 

自然災害など起こらない平穏無事な日常生活という「通常」に対して、

大規模な自然災害が発生して甚大な被害が生じるという「異常」。

 

貿易の振興をつうじて相互利益の拡大を目指していくという「通常」に対して、

国と国とがいがみあい、制裁を課し、戦争にまで至るという「異常」。

 

あるいは、

安全快適にまもられた、社会における日常生活という「通常」に対して、

凶悪な犯罪が発生するという「異常」。

 

 

 

こうして見てくると、

「異常」というものは、普通の感覚では、「いやな」ものが多いですね。

 

だからひとは、その「異常」について、

あたかもそんな「異常」はこの世界には「存在しない」かのようにふるまったり、

あるいは、

その「異常」は「邪悪」なものであって、それを「なくす」ことが「正しい」

と考えたりするように、天機には思えるのです。

 

 

 

でも天機は、

この世界というのは、そもそも、

そんな「異常」というのが、ごく日常的な「通常」と組み合わさることで、

はじめて成り立っているものだと、思うんです。

 

たいせつなのは、

「異常」を亡き者にすることではなくて、

その存在を認めて、それと共存していくことです。

 

通常には、通常に対する対処の仕方があり、

異常には、異常に対する対処の仕方がある。

 

異常のもたらす災禍に対しても、それに応じて対応していく必要はあります。

 

ただ、異常というものを、はなから悪と決めてかかって、

それをまったくのゼロにしてしまおうとすると、

かえって、この世界からのおおきな反撃を喰らうような気もします。

 

天機は、そう思います。

 

 

ばかばかしい仮定をおいて考えるクセ。

こんにちわ。天機です。

(この記事 約1300字)

 

 

 

昨晩は、夜中に起きて、サッカーW杯の日本✕ベルギー戦を見ていました。

 

あと一歩のところまで来ていたのに、とても惜しかったなあ、

と思いましたね。

 

 

 

ところで天機は、ときどき、

ばかばかしいような仮定をおいて、空想してみるのが好きなのです。

 

今回のサッカーで、つぎのような空想をしていました。

 

 

 

あるところに、願い事をかなえることのできる、

不思議なパワーをもったひとが誕生したとします。

 

おぎゃあ、と出生した、という意味ではありません。

もともと力を持っていなかったけれども、

そんな不思議な力をあるときから持つようになった、ということです。

 

 

 

そのひとは、

みんなのためにその力を使うことも、

自分自身のためにその力を使うことも、どちらでも選択できます。

 

 

 

いま、そのひとが、みんなのためにその力を使うことを仮に選択すると、

たとえば、

サッカーW杯決勝Tで、日本がベルギーに勝利する結果が得られます。

 

他方で、そのひとが、自分自身のためにその力を使うことを仮に選択すると、

たとえば、

その人自身に、1万円の臨時収入がはいります。

 

 

 

こういうとき、いったい、どうしたらいいでしょうか。

 

 

 

ふつうの一般人なら、こう思うかもしれません。

「サッカーW杯決勝Tで日本が勝利することと、1万円が手に入ることじゃあ、

 全然、重みがちがうやん。

 当然、サッカーでの勝利のほうを選択するだろう。」と。

 

 

 

しかしながら、この結論は、

その、願いをかなえることのできる不思議な力をもったひと本人にとっては、

自明のものではありません。

 

というのも、

サッカーW杯決勝Tで日本が勝利することは、たしかに、

「みんなに」とっては、とてもうれしいことなのですが、

「その人自身に」とっては、それほどうれしいものであるとは、

かぎらないからです。

 

他方で、

その人自身に1万円が入ることは、

「みんなに」とっては、全然うれしくもなんともないことですが、

「その人自身に」とっては、とてもうれしいことになるはずです。

 

 

 

もしかりに、

このひとが、みんなのために、と思って、

サッカーW杯決勝Tで日本が勝利することに、自分の願いを使ってしまったら、

自分自身に1万円入ってくるという、個人的な利益をあきらめなければ

ならないことになります。

 

 

 

このひとは、それはいやだ、と考えるかもしれません。

 

そうすれば、

このひとは結果的に、自分の個人的な願いを実現するためにその願い事を使い、

1万円を手に入れる一方で、

サッカーW杯決勝Tでの日本の勝利は、なくなってしまいます。

 

 

 

でも、考えてみれば、これってすごく、無駄な願い事の使い方ですよね。

 

天機は思うんです。

 

1万円欲しい、という、このひとの個人的な願いは、

だれかほかのひとたちが、

実際にこのひとに1万円渡してあげることで、簡単に実現できる。

 

そのうえで、

願い事をかなえることができるという、このひとの持つ不思議な力は、

サッカーW杯決勝Tで日本が勝つ、ということをかなえるために、

使ってもらう。

 

そうすれば、

みんなも、このひとも、

双方とも簡単にハッピーになれるんじゃないかな、と思います。

 

 

 

天機の、ばかばかしい空想でした。