この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

「手料理」という言葉に、違和感。

こんばんわ。天機です。

(この記事 約3200字)

 

 

時代が移り変わるにつれて、言葉というものも変遷していきます。

そのなかで、最近は、以前にはなかったような言葉も、

たくさんあらわれてくるようになりました。

 

 

たとえば、以前は「登校拒否」と言っていたものが、「不登校」に。

 

お薬とかの「副作用」と言っていたものが、「副反応」に。

 

夏の暑い日の「日射病」は「熱中症」に。

 

栄養が不足している状態の「栄養失調」は「低栄養」に。

 

 

と、まあ、いろいろです。

 

 

そんななか、天機が最近耳にするようになった言葉が、

「手料理」

です。

 

 

手料理。

 

 

この言葉って、ところで、昔からある言葉なんでしょうか?

 

 

いま、インターネットで検索すると、

ウィキペディアでは、「料理」はでてきますが、

「手料理」はでてきません。

 

 

「手料理 広辞苑」と検索しても、

それらしい項目はでてきませんから、もしかしたら、

広辞苑にも「手料理」という言葉は収載されていないんじゃないか、

と勝手に思ったりします。

 

 

ということで、「料理とは」と検索してみると、

以下のようなのがでてきます。

 

kotobank.jp

 

基本的には、まず「材料」というのがあって、

それに各種の「調理法」にもとづいて「こしらえて」、

「調味料」とかで味をととのえていく、

という「一連の作業過程」を「料理」とよんでいます。

 

 

これは、一般的に「料理」という言葉から、ふつうに連想される、

ごく自然な用語の使い方だと思います。

 

NHKの番組には「きょうの料理」という番組があります。

 

また、書店に行けば、各種のレシピを紹介した

「〇〇の料理手帖」

なんていう本が売ってたりもします。

 

 

それらの番組や書籍で取り扱われている「料理」というのも、

基本的には、「料理」という言葉から

自然にひきだされるような内容のものになっています。

 

 

つまり、「材料」というものからはじまる、

「一連の作業手順」としてのそれです。

 

 

そういう意味からすれば、スーパーで買ってきた「お惣菜」や、

電子レンジでチンしただけの冷凍食品は、

「食べ物」であるとはいえますが、

「料理だ」というには、やや、おこがましいように思います。

 

 

一見したところは、

「食べ物 = 料理」

という関係が自明に成り立っているような気もします。

 

 

が、「食べ物」という「名詞」には、

その背景になるような「動詞」の存在を

探し求めることが困難であるのに対して、

「料理」という「名詞」は、「料理をする」という

「動詞」と分かちがたく結合しています。

 

 

つまり、「料理である」ということの背後には、

「一連の作業」が加えられている、

料理がなされている、

という、暗黙の前提の存在をみることができるのです。

 

 

だとするならば、

スーパーで購入してそれをテーブルに並べるという「作業」や、

冷凍食品を開封してお皿に盛り、

電子レンジに入れてボタンを押すという「作業」は、

本来の「料理」という用語が想定している一連の「作業」手順からは、

おおきく逸脱するものであろうと思うのです。

 

 

実際、もしかりに、

NHKの「きょうの料理」で司会を担当している料理研究家が、

「きょうはスーパーで買ってきただし巻きを並べてみましょう」

と言ったり、

書店に並んでいる「〇〇の料理手帖」という本のなかの1ページが、

まるまるニチレイのエビピラフの紹介だったりすれば、

視聴者や読者からは、クレームがでるのではないでしょうか。

 

 

そして、その場合になぜ、そうしたクレームがでるのかといえば、

それは、

そういった内容のものは一般的には「料理」とは

認められていないからにほかなりません。

 

そして、確認のために付け足しておくと、

それらのコンテンツのタイトルは、決して

「きょうの手料理」でも、「〇〇の手料理手帖」でもないのです。

 

それでも苦情は出る、

ということが意味しているものは、大きいと思います。

 

 

まとめると、こういうことです。

 

 

「料理」ということばの自然な用語法としては、それは、

「材料」からはじまって、

一連の決まった作業過程を経たものをいいます。

 

その意味からすると、

スーパーのお惣菜や、冷凍食品は、料理と言いうるには、

やや、グレーゾーンだといえます。

 

これが「原則」だと、天機は考えています。

 

 

ところが、「手料理」というあらたに登場した言葉は、

この「原則」のほうをひっくりかえすことを試みるのです。

 

 

「料理」と「手料理」の違いはなにかな?

と思って、検索すると、以下のようなのがでてきました。

 

手料理と料理の違い〜手料理と料理の違いを簡単解説

 

ここでは、「料理」というものは

家庭でいちから作ったものばかりではなくて、

出来合いのお惣菜を買ってきて並べたものも

冷凍食品をチンしたものも、

みな「料理」であって、

「手料理」というのは、それらと違って

家庭でいちからつくった料理のことだ、

と主張しています。

 

 

もちろん、料理、手料理、

ひとによっていろんな考え方があるところだろうとは

思います。

 

ここは天機のブログなので、天機自身の思うところを述べようと思います。

 

 

スーパーで買ってきた出来合いのお惣菜についてですが、

そのお惣菜を「料理」したのは、そのスーパーの裏手でそれを調理した

従業員のかたですよね?

 

そのお惣菜をならべたひとは、

スーパーで買ってきて並べただけであって、

自分が「料理」したわけではありません。

 

 

冷凍食品については、

その冷凍食品を「料理」したのは、食品工場の作業員ですよね?

 

電子レンジでチンしたひとは、電子レンジでチンしただけであって、

自分が「料理」したわけではありません。

 

 

もちろん、「料理」というものは、

いろんな作業手順が組み合わさってできていますから、

お皿への盛り付け、フライパンで温める、といったことも、

「料理」という作業の「一部」にはなっているかもしれません。

 

が、「料理」という言葉が本来想定している作業手順からは、

大幅に割引された作業量になっていると思います。

 

 

そして、「食べ物 = 料理」という用語についての考え方から、

そういった出来合いのお惣菜や冷凍食品といった「食べ物」のことを

「料理」と呼ぶならば、それはたしかに「料理」ではあるでしょう。

 

ただし、その場合には、

「料理をする」という動詞要素とは、

切り離された内容をもつものになっています。

 

 

この点は、世代によっても、考え方が異なってくるのではないでしょうか。

 

ただ、「手料理」という言葉の登場が、

 

「家庭で普通につくる料理と言えば、

 材料からいちからつくったものだよね。

 それが料理だよ(原則)。

 ということからすると、買ってきたお惣菜や冷凍食品っていうのは、

 料理って言うには、ちょっと手抜きだよね(例外)。」

 

という状況の、原則と例外を「逆転」させて、

 

「家庭の料理といえば、いちからつくったものも、買ってきたお惣菜も、

 冷凍食品も、みな料理だよ(原則)。

 そのなかでも、家庭でいちからつくった料理っていうのは、「手料理」

 という特別素晴らしいもので、「手料理」をつくるっていうのは、

 特別なすごいことなんだよ(例外)。」

 

という状況を現出させているような気がするんですよね。

 

 

 

もっとも、この点は、天機は極論をよく吐く人間なので、

異論反論も多々あろうとは思います。

 

ただ、これまでは、

 

家庭で一から食事をつくる→それを「料理」という→それはふつうのこと

 

であったのが、

 

家庭で一から食事をつくる→それは「手料理」という→それは特別なこと

 

へと、変遷していったような気がするのです。

 

 

 

そして天機は間抜けにも、ここまで書くのにもうずいぶん字数とエネルギーを

使ってしまったので、これ以上深くは考察できないのですが、

この「手料理」という言葉の登場1つとってみても、

たとえば、家庭における共働きの増加と、それにともなう余裕の減少、

といった状況を読み取れるのかもしれないな、とも思いました。

時代の変わり目と、「瑞兆」?

こんにちわ。天機です。

(この記事 約3100字)

 

 

 

天機は、この世界の不思議、というテーマで、

森羅万象の背後に隠れた原理について考えるのが好きですが、

そのいっぽうで、

昔から、精神世界のことや、オカルトの話にも興味があります。

 

 

 

じつは、ここ数年、

日本にも世界にも、「時代の変わり目」が到来しているのではないか?

と、天機は考えているのですが、

それに呼応するかのように、ここ数年、

奇妙な現象が発生しているようにも思います。

 

以下に、その例をあげてみようと思います。

 

 

 

 

◆ 日本の各地で、数年前から、「竹の花が咲いた」とか、

  「笹が開花した」という報告が、続々となされるようになっています。

  竹の花が咲く、とか、笹が開花する、というのは、

  非常にめずらしい現象です。

  というのも、それらの花は、基本的に、

  60年に1度、とか、120年に1度、といった周期でしか、

  花をつけないからです。

  そして、いったんそのように開花すると、

  それらの花は、いっせいに枯死してしまう、といわれています。

  この、竹の花が咲く、とか、笹が開花する、といった現象は、

  もっとも、瑞兆ではなくて、凶兆である、ともいわれています。

 

mainichi.jp

 

www.chunichi.co.jp

 

www.townnews.co.jp

 

◆ これも日本の各地、また、中国でもそうなのですが、

  数年前から、「双頭蓮(そうとうれん)」というのが、

  さかんに目撃されるようになっています。

  双頭蓮というのは、蓮(はす)の花の一種の突然変異で、

  数万株に1つしか咲かないといわれていて、

  人工的に咲かせることもできないものです。

  ふつう、蓮の花は、1本の茎から1つの花が咲くのですが、

  双頭蓮は、1本の茎に、2つの花が背中合わせに咲きます。

  双頭蓮が咲くことは、古来、瑞兆(めでたいことがおこる兆し)

  といわれていて、古くは、日本書紀にもその記述があるそうです。

 

www.asahi.com

 

www.asahi.com

 

www.fukuishimbun.co.jp

 

◆ 数年前から、めずらしい生き物が発見、捕獲された、

  という報告があいつぐようになっています。

  2014年ごろには、ダイオウイカや、リュウグウノツカイといった

  深海生物がさかんに水揚げされたことがあって、話題になりました。

  それ以降も、

  白いマグロや、白いクジラ、白いヘラジカ、白いカラス、白いタヌキ、

  といった生き物が、日本でも世界でも、さかんに目撃されています。

 

www.youtube.com

 

 

www.dailymotion.com

 

jp.sputniknews.com

 

j-town.net

 

matome.naver.jp

 

headlines.yahoo.co.jp

 

 

空にも異変があらわれています。

 

◆ 数年前から、「火球」の目撃報告が相次ぐようになっています。

  天機は、それをテレビのニュースで聞いて、ああ、そういうのを

  「火球」っていうんだな、と、はじめて知りました。

  天機の小さいころには、あまり、聞いたことのない用語です。

  実際、数年前から、火球の発生件数が激増している、

  という報告もあるようです。

 

www.youtube.com

 

◆ 「2つの太陽」という現象が、世界的に目撃されるようになっています。

   もちろん、実際の天体としての太陽が2つに増えたのなら大事件ですが、

   そうではなくて、何らかの原因で、地上から見たときに、

   あたかも太陽が2つあるように見えるという現象だろうと思います。

   Youtubeで「two suns」といったワードで検索すると、

   多数ヒットします。

   この現象も、数年前から増えています。

 

www.youtube.com

 

天機は以前、というか今でも、ノストラダムスの予言に関心をもっていますが、

そのなかに、

「空に太陽が2つ見える12月に、法王がローマから逃げ出すだろう」

という予言があるそうです。

 

oka-jp.seesaa.net

 

◆  空から奇妙な音がきこえる、といった報告が、数年前からさかんに

   世界中でみられるようになりました。

   はじまりは、2011年ごろだったでしょうか。

   聖書において、この世の終末において天使がトランペットを吹き鳴らす、

   という記述があることから、

   この音は、「アポカリプティックサウンド」とよばれています。

   そのことが数年つづいて、最近は、アメリカその他の国で、

   家屋の振動をもたらすほどの「衝撃音」がきこえる、

   という報道がなされるようになっています。

   Youtubeで、「strange sound in the sky」とか、「strange boom」とか

   いったワードで検索すると、多数ヒットします。

 

www.youtube.com

 

◆  これも、日本と世界でここ数年、増えている現象なのですが、

   「幻日」「太陽のハロ」「環天頂アーク」「環水平アーク」「彩雲」

   といった、めずらしい現象が、頻繁に見られるようになってきています。

   このうち、彩雲は、実際にはありふれた自然現象であるようなのですが、

   古来、吉兆である、とされています。

 

www.nikkei.com

 

この青森の記事の中では、市民からの問い合わせが気象台にあいついだ、

と報じられています。

普通じゃない、珍しい現象だから、問い合わせが相次いだのではないかな、

と思います。

 

news.livedoor.com

 

彩雲について思うのですが、なにかめずらしい自然現象だ、というと、

いやいや、そんなのはめずらしくない、よくある現象だよ、というひとがいます。

たしかに、夕焼けはめずらしくもないでしょう。

雨降りも、雷もそうです。

虹を見るのは、比較的めずらしいかもしれません。

でも、天機は40年間生きてきて、この彩雲というのを、

生で見たことは一度もないと思います。

かなり珍しい現象だと言っていいと思うのですが、どうでしょうか。

 

◆  ここ数年、空に謎の光があらわれた、という報告も、よく見られます。

   2014年には、ロシアで、空に謎の光があらわれたことが、

   日本のテレビニュースにもなりました。

   「ロシア 謎の光」でYoutubeで検索すると、動画があると思います。

   最近では、南米のコロンビアのオカーニャという場所でも、

   空に謎の光があらわれました。

   「colombia ocana」でYoutubeで検索すると、もしかしたら、

   ヒットするかもしれません。

 

www.youtube.com

 

www.youtube.com

 

コロンビアのオカーニャの動画では、

嘆き悲しんでいるかのような女性の声と、

陽気に笑っている男性の声が印象的でした。

 

怪異を目の当たりにした時に、男性と女性では、

受け止め方が多少違うのかもしれません。

 

 

 

このように、空において変化があらわれているのですが、

先述のノストラダムスの予言においては、

「(あらたな時代の)到来の前に、空は兆候を示すだろう」

としているものがあるようです。

 

www42.atwiki.jp

 

 

注目したいのは、これらの現象のほとんどが、

ここ数年になって頻発するようになってきた、ということです。

 

もっとも、Youtubeができたのが、2006年?2007年でしたっけ。

また、グーグルでなにかを検索した時にヒットするサイトというのは、

基本的に、あたらしいものからヒットするかもしれないので、

そういったことが影響しているだけであって、

実際には、もっと何十年も前から、

そういった「奇妙な」現象は、存在していたのかもしれませんが。

右翼と左翼。

こんにちわ。天機です。

(この記事 約1600字)

 

 

 

きょうは、右翼と左翼について考えてみたいと思います。

 

 

 

政治の世界では、右翼と左翼というのがあります。

 

たとえば、ヤフコメ民は、ネトウヨだと言われたりすることがあります。

彼らは、たいてい、中国や韓国、野党を小ばかにしていて、

安倍ちゃんを支持している印象がありますね。

彼らはたぶん、右翼なのでしょう。

 

他方で、左翼というのもあります。

左翼というのは、たいてい、反安倍で、

安倍ちゃんが街頭演説をしていると、野次を飛ばしたりする印象があります。

また、国に賠償をもとめて、各地で裁判を起こしたりしている印象もあります。

 

天機の、右翼と左翼についての知識なんて、そんなもんです。

 

 

 

天機は、右翼と左翼の背景には、

どんな思想的な力学がはたらいているのか、自分なりに考えてみました。

 

 

 

ここに、1枚の画用紙があるとします。

 

この画用紙の真ん中に、マジックで円を1つ描きます。

 

すると、画用紙の中は、

円の外側と、円周と、円の内側にわかれました。

 

 

 

この円周の部分が、「国家」です。

 

円の外側は、「外国からの侵略」とか「巨大な自然災害」とか、

国家に「外から」影響をおよぼしてくる「外部要因」です。

 

そして、円の内側にいるのが、「国民」です。

 

 

 

右翼というのは、どのように考える人々かというと、

「国民」がもし困るとすれば、それは、

「外部要因」が「国家」を攻撃し、その結果として「国民」が困ることになるのだ、

と考える人々なのです。

 

つまり、「敵」は「円の外側」からやってきて、それが「円周」を攻撃し、

その結果、「円の内側」も被害をこうむる、と考えるのですね。

 

そのため、右翼の人々は、

そういった危険をふせぐためには、

「円周」を強くしなければいけない、と考えます。

 

「円周」を強くすれば、「円の外側」からやってくる「敵」に備えることが

できるからです。

 

「円周」を強くするというのは、つまりは、「国家」そのものを強くする、

ということです。

 

「国家」そのものが強くなるとどうなるかといえば、

外に対して「国家」が強くなる過程では、軍備の拡張が起こり、

内に対して「国家」が強くなる過程では、国民への統制が強まるのです。

 

これが、右翼の思想的な力学です。

 

 

 

つぎに、

左翼というのは、どのように考える人々なのかというと、

「国民」がもし困るとすれば、それは、

「国家」そのものが強すぎるために、「国民」に対して過剰な圧迫、干渉に

なっていて、それで「国民」が困るのだ、

と考える人々なのです。

 

つまり、「敵」は、かならずしも「円の外側」からやってくる、

というわけではなくて、

「円周」そのものが「円の内側」にとっての潜在的な「敵」になりうるから、

これに注意しよう、と考えるのですね。

 

そのため、左翼の人々は、

そういった危険を防ぐためには、

「円周」が強すぎるのはよくない、と考えます。

 

「円周」が強すぎると、その「円周」それ自体が、

「円の内側」に対して圧迫や干渉をもたらすからです。

 

「円周」が弱いほうがいい、というのは、つまりは、

「国家」は強すぎないほうがいい、ということです。

 

そして、「国家」そのものが強すぎることがないようにするので、

外に対しては、軍備をあまり拡張しないようにし、平和憲法を堅持し、

内に対しては、国民をしばるような法制には反対していく、

ということになるのです。

 

これが、左翼の思想的な力学です。

 

 

 

天機は、国民にとっては、

「外国からの侵略」や「巨大な自然災害」などの「外部要因」が「国家」を

攻撃して、結果として「国民」が困る、

という経路も、たしかにあると思うし、

他方で、「国家」そのものが強くなりすぎた場合に、

それ自体が「国民」に対する圧迫、干渉になる、

という経路も、たしかにあると思うのです。

 

たいせつなのは、

「国民」が困る経路というのは、そのうちの片方だけしかない、

と考えるのではなく、

その双方の可能性にきちんと目配りし、

バランスのとれた政策をおこなっていくことではないでしょうか。