この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

楽しいことと、正しいことと。

こんにちわ。天機です。

(今回の記事 約2,500字)

 

 

 

天機が思うに、世の中には、楽しいことと、正しいことという、

おおきな2つの流れがあるように思います。

 

 

 

そして、世の中のひとびともまた、

どちらかといえば楽しいことのほうを追い求めるひとびとと、

どちらかといえば正しいことのほうを追い求めるひとびとの、

おおきく2種類にわかれるような、そんな気がするのです。

 

 

 

たとえば、政治の世界なんかにおいても、

そういった2種類の方向性をみることができるかもしれません。

 

 

 

安倍政権や、与党は、よく、経済が第一だ、なんていいます。 

景気が良くなって、経済が発展すれば、みんなが明るく、楽しくなります。

その意味で、安倍政権や与党は、

どちらかといえば、楽しいことのほうを追い求めているようにみえます。

 

 

 

野党は、それとは異なります。 

いま、野党の多くは、日報問題や、加計、森友の問題を追及していますね。

 すこし前には、安保法制の問題で、政権を批判していました。

 

どうしてそういった問題を追及したり、そういった件で政権を批判したり

するのかといえば、

そこに「正しくないこと」が存在すると、野党は考えているからです。

 

そういう意味で、野党というのは、

どちらかといえば、正しいことのほうを追い求めているようにみえます。

 

 

 

もちろん、楽しいことだけを追い求める、とか、

正しいことだけを追い求める、とかいったように、

なたで割ったように区別することは、妥当ではないでしょう。

 

与党であっても、正しいことも追い求めるでしょうし、

野党であっても、楽しいことも追い求めるでしょう。

 

ただ、どちらかといえば、

与党のほうは、正しいことよりも楽しいことのほうを追い求めるのに対して、

野党のほうは、楽しいことよりも正しいことのほうを追い求めるような、

そんな気がするのです。

 

 

 

楽しいことを追い求める、というのは、

楽しいかどうかということに、とてもこだわる傾向がある、ということです。

それに対して、正しいことを追い求める、というのは、

正しいかどうかということに、とてもこだわる傾向がある、ということです。

 

 

 

どちらかといえば、楽しいかどうかにこだわる与党。

どちらかといえば、正しいかどうかにこだわる野党。

その違いは、それぞれの支持層にもあらわれるような気がします。

 

与党支持層というのは、大企業に関連する層や、経営者などの層でしょうか。

基本的に、現状をよしとする層で、現状から恩恵をこうむっていて、

経済的にも豊かで、明るい考え方をする層、

といったイメージが、個人的にはあります。

彼らは、どちらかといえば、楽しいかどうかのほうにこだわっているように

感じます。

 

対して、野党支持層というのは、労働組合とかに関連する層とかでしょうか。

基本的に、現状に不満が多くて、現状からは恩恵を得ていなくて、

経済的には貧しく、暗い考え方をする層、

といったイメージが、個人的にはあります。

彼らは、どちらかといえば、正しいかどうかのほうにこだわっているように

感じられ、

その正しさを実現するために、デモや住民訴訟市民運動といった活動を

よくおこないます。

 

 

 

このことは、べつに、

与党支持層は楽しいことばかり追い求めるからダメだ、というわけでもないし、

野党支持層は正しいことばかり追い求めていて素晴らしい、

というわけでもないのです。

 

また、

与党支持層は経済的にも豊かで明るい考え方をするから素晴らしい、

というわけでもないし、

野党支持層はどこか貧乏くさくてデモや市民運動ばかりするからダメだ、

というわけでもありません。

 

おおざっぱにいって、

与党支持層と野党支持層には、それぞれ、

うえにあげたような傾向があるのではなかろうか、というだけのことで、

そのそれぞれの傾向性が、いいか悪いか、というのは、

また別の問題です。

 

 

 

環境が人間を規定する、といったのは、マルクスだったでしょうか。

たしかに、

経済的に豊かなのかどうか、といったことや、

現状から恩恵をえられているのかどうか、といったことは、

そのひとが、与党支持層になるのか、それとも野党支持層になるのか、

といったことを、一定程度、規定する因子になっているような気がします。

 

が、それだけではなくて、

そのひとの、もともとの性格的な傾向として、

どちらかといえば、正しいことよりも楽しいことを追求する傾向があるのか、

それとも、

どちらかといえば、楽しいことよりも正しいことを追求する傾向があるのか、

といったこともまた、

支持政党を形成するうえで、おおきな因子になっているような気がするんですね。

 

 

 

そして、この性格的な傾向性のちがいというのは、じつは、

どういった政党を支持するのかという、

政治的な態度を決定する要因になるばかりでなく、

そのひとのまえに、どういった人生がひらけてくるのか、

といったことにも、おおきく関わっているような気がするんです。

 

楽しいことを追い求めるひとのまわりには、おそらく、

同じく楽しいことを追い求めるようなひとが集まってくるでしょう。

正しいことにこだわるひとのまわりには、おそらく、

同じく正しいことにこだわるようなひとが集まってくるのではないでしょうか。

 

そして、さらにいえば、

楽しいことを追い求めるひとの人生には、

ワクワクするようなイベントがつぎつぎに発生する傾向があるのにたいして、

正しいことにこだわるひとの人生には、

理不尽や不条理といった、正邪の判定を必要とするような出来事が

つぎつぎに発生する傾向があるような、そんな気がするのです。

やや、極端ですかね。

 

 

 

自分は、どちらかといえば、

楽しいことよりも正しいことのほうに心惹かれる人間です。

 

なので、自分のブログの記事でも、

正しいことはなにか、と論じるような内容が多くなっているような気がします。

 

もっとも、はてなブログというところは、

まじめになにかを論じるような記事がそれなりに多いところのようなので、

それはそれでいいとも思うのですが。

 

とはいえ、自分がふだん読者になっている、ほかのひとのブログを読んでいると、

そこには、明るく楽しい世界がひろがっていることもよくあって、

そういうとき、なんだかまぶしいものを目にするような、

あこがれを感じることもありますね。

負担を課すには、合理的な理由が必要だ。

こんにちわ。天機です。

(この記事の字数 約2400字)

 

 

 

天機はたまに、ある種の「思考実験」をしてみることがあります。

もし、次のような事例があったとしたら、

みなさんはどう思うでしょうか。

 

 

 

「日本国内における、いわゆる『きのこたけのこ戦争』の最終的な解決を

 はかるため、政府は、きのこの山に対して全面的な支援をおこなうことを

 決定した。

 そのための財源を確保するために、きのこの山にちなんで、

 K・Yのイニシャルをもつ日本国民に対して、1か月あたり10円の賦課金を

 徴収することを決定した」

 

 

 

このような決定が、もしかりになされたとしたら、

1か月あたり10円のお金がとられることになる、K・Yのイニシャルをもつ国民

からは、おそらく、かなりの反発がでるでしょう。

 

 

 

では、その反発は、おかしなものなのでしょうか。

 

「1か月あたり、たったの10円なんでしょ?

 けちくさいこと言わずに、みんなのために払えばいいじゃん」

という意見は、果たして、正しいものなのでしょうか。

 

 

 

天機は、そうは思いません。

 

そもそも、きのこたけのこ戦争などというマニアックな「紛争」に、

政府が介入する意味がわかりませんし、

そのなかの、きのこの山のほうだけに一方的に肩入れする理由も不明です。

その支援のために、どうして財源の確保が必要なのかもよくわかりませんし、

その財源確保のために、K・Yのイニシャルをもつ国民だけが狙い撃ちにされる

ことにも、正当性がありません。

 

 

 

つまり、この政府の決定というのは、いちじるしく合理性を欠いているために、

たとえ、1か月10円にすぎない、という、その金額の低さを考慮したとしても、

やはり、不合理なものである、という事情は、くつがえらないのです。

 

ふつうに考えて、そうではないでしょうか。

わけのわからない理由のために、ひとは、1円だって払いたくないでしょう。

 

 

 

この事例は、現実にはありそうもない事例かもしれません。

では、つぎのような事例だったら、どうでしょうか。

 

 

 

「マンションの5階で、火災が発生している。

 そこの室内には、若いお母さんと、幼い乳児がとりのこされていて、

 2人は、助けをもとめているのか、ベランダから顔をのぞかせている。

 お母さんは、下を通る通行人に、

 乳児を投げ落とすから受け止めてほしい、と訴えている。

 その乳児を通行人が受け止めた場合、乳児の命はたすかる。

 しかし、受け止めた通行人は、両腕を骨折し、全治1か月の重傷を

 負うことになる」

 

 

 

投げ落とされた乳児を受け止めることで得られる利益は、

乳児の命が助かるという、「人の生命」です。

 

他方で、それによって失われる利益というのは、

受け止めたひとが全治1か月の重傷を負うという、「人の身体」です。

 

なので、社会全体、というような、ぼんやりしたところに視点をおいて、

この件を眺めたならば、

「人の身体」を少々犠牲にするだけで「人の生命」が助かるのだから、

乳児を受け止めたほうがいいことになりそうです。

 

 

 

でも、実際に乳児を受け止めることになる、

当事者に視点をおいて考えてみたらどうでしょうか。

 

 

 

どこの馬の骨ともわからない、他人のガキを助けるために、

どうして自分が全治1か月もの重傷を負わなければならないのか?

と、疑問に思ったとしても、不思議ではないのではないでしょうか。

 

 

 

両腕を骨折したら、その痛みは相当なものになるでしょう。

 

1か月も入院していたら、入院代も相当になるでしょうし、

その期間働けないという逸失利益も発生するでしょう。

 

 

 

もちろん、

「子供の命を助けることは大切なことだ。

 たとえ自分が骨折の重傷を負うことになったとしても、

 自分はその子供を助けたい」

と考えてそれを実行するひとというのは、

とても気高く、素晴らしいひとだと思います。

 

 

 

ただ、

「おまえがちょっと腕を骨折するだけで、子供の命が助かるんだろ?

 だったらけちくさいこと言わずに、助けてやりなよ。

 社会全体の利益のことを考えなよ。」

と言って、

「自分が犠牲になるのではなく、他人に犠牲になることを要請する」

となると、

途端に醜さがあらわれてくるものだと思うんです。

 

 

 

自己犠牲というのは、

自己犠牲をおこなうかどうかの自由な選択肢があることを前提として、

自分の自由意思でそれを回避できるにもかかわらず、

あえて自己犠牲の道を選択するから、美しく素晴らしいのであって、

自分自身は犠牲にもならないのに、

他人に、おまえが犠牲になれよ、といって強要するようなことは、

逆に、非常に醜いことだと言わざるをえない、と思います。

 

 

 

以上の、「きのこたけのこ戦争への政府の介入の事例」と、

「マンションからの子供の投げ落としの事例」であきらかになるのは、

 

① 他者に負担や犠牲を課す場合には、合理的な理由に基づいている

  必要があるのであって、

  たとえ、その負担や犠牲がどんなに僅少なものであったとしても、

  合理的な理由がおよそみとめられないようなものは、

  やはり、そういった負担や犠牲を課すのは、

  おかしいということになる、ということ。

 

② たとえ、社会全体にとっては利益になるようなことであっても、

  特定の個人だけに、ほかのひとにはみられないような過重な負担や犠牲を

  もとめる場合には、

  「自己犠牲」が強要されてはならないということ。

 

だろうと思います。

 

 

 

うえにあげたような事例は、いずれも極端であって、

現実社会では、あまり見られないようなことだろうとは思います。

 

 

 

しかしながら、

犠牲や負担を課すこと、引き受けることに関して、

そこに正当性があるのか?

ということについて疑問に感じる人はけっして少なくはなく、

そのために、たとえば、

町内会が一律に赤い羽根募金のために金銭を徴収するといったことや、

お寺が寺院の改修のために檀家から一律に金銭を徴収するといったことにたいして、

疑問や不満の気持ちを表明するひとがあらわれてくるのだろう、

と思います。

 

 

反対するなら対案をだせ?

こんにちわ。天機です。

(この記事の字数 約1500字)

 

 

 

よく、ちまたでは、「反対するなら対案をだせ」などと言われることがあります。

 

国会の論戦とかでは、

野党が反対ばっかりしていて、なんら建設的な議論になっていないように

見えることもあってか、

このように言われることもあると思うのです。

 

 

 

しかしながら、この「反対するなら対案をだせ」という言葉は、

たしかに、一見したところ、もっともなことのように聞こえるのですが、

いつもいつも、正しいことを言っているわけではない、と思うんです。

 

 

 

たとえば、つぎのような仮定の例をみてみましょうか。

 

 

 

あるところに、老夫婦でやっている、昔から続いているお蕎麦屋さんがありました。

そのお蕎麦屋さんは、繁盛していて、人気があり、儲かっていました。

 

 

 

その老夫婦には、1人息子がいたのですが、

中年になっても定職にもつかず、ギャンブルに明け暮れていて、

いつも、夢見がちな話ばかりをしていました。

 

 

 

あるとき、その1人息子が、どのようにたきつけられたのか、

老夫婦のところにやってきて、

「この蕎麦屋をたたんで、パチンコ屋に改装しよう。

 そうすれば、絶対儲かるから!」

と言い出したのです。

 

 

 

パチンコ屋を出店する計画は、ずさんなもので、

失敗することはだれの目にも明らかでした。

 

他方で、お蕎麦屋さんの経営は、順調に利益をあげていました。

 

 

 

そこで老夫婦は、パチンコ屋などに改装する気はない、と伝えると、

その1人息子は、

「反対するなら対案をだせよ」

と言い出したのです。

 

 

 

これは、おかしなことではないかな、と、天機は思います。

 

では、そのおかしさは、どこからくるのでしょうか?

 

 

 

それは、この1人息子の頭の中では、

蕎麦屋をたたむこと」というのが、隠れた自明の前提になってしまっている

という点なのです。

 

 

 

この1人息子は、「蕎麦屋をたたんでパチンコ屋にする」という意見を持っています。

 

そして、この1人息子の頭の中では、

蕎麦屋をたたむこと」というのは、すでに前提になってしまっているのです。

 

だから、反対するひとがいる、となると、

「じゃあ、おまえは、蕎麦屋をたたんでなににするというのだ?対案をだしてみろ」

となるわけなのですね。

 

 

 

それが、そもそもおかしいのです。

 

 

 

このお蕎麦屋さんは、繁盛していて、順調に利益をあげています。

 

いまのこの状態、つまり、蕎麦屋を経営して利益をあげている状態、

というものに、わざわざ変化をくわえる必要は、

どこにもないのです。

 

なので、「蕎麦屋をたたむこと」という前提が、

この1人息子の思考の中では、勝手に出来上がってしまっているようですが、

そもそも、その前提からして、おかしいのです。

 

 

 

この老夫婦としては、

蕎麦屋をたたんで〇〇にする」という「対案」をだす必要など、

どこにもありません。

 

「このまま蕎麦屋をひきつづき経営する。現状に変更をくわえない。」

というのが、それだけで、立派な「対案」になっているといえます。

 

 

 

以上の仮定の例からわかるのは、

「反対するなら対案をだせ」という発言の裏には、

「現状は変更すべきである」という隠れた前提がひそんでいることがある、

ということなのです。

 

そして、妥当な判断をするためには、

そもそも、現状は変更すべきである、というその前提そのものが

正しいのかどうか、

そもそも、現状を変更する必要はべつにないのではないか、

というところまでさかのぼって、

厳密に考えていく必要がある、ということです。

 

そのうえで、

現状を変更する必要はべつにない、むしろ、現状を変更などしないほうがよい、

ということならば、

「現状を変更せずに、このまま維持継続する。」

というのは、そのままで立派な「対案」である、と天機は考えます。