この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

となりのガラケー。

こんばんわ。天機です。

(この記事の字数 約400字)

 

 

 

世の中は、スマホを使っている人がほとんどになってきたと思いますが、

天機は依然として、ガラケーを使っています。

 

そもそも、あまり外出しないので、

ネットは基本的にパソコンでやっているし、

スマホは高い、というイメージがどうしてもあるんですよね。

 

 

 

きょう、天機はバスに乗っていました。

 

すると、となりに乗ってきたおっさんが、

なにか、ぴこぴこ、ぴこぴこ、音をさせるわけです。

 

見てみると、ケータイをいじっているようでした。

 

 

 

「音を切ってやってくれよー」

天機はそう思いました。

 

 

 

そのおっさんは、ずーっとぴこぴこやり続けているので、

気になってもう一度見てみると、

なんだか、ガラケーでゲームをやっているみたいでした。

 

 

 

ガラケーか、いまどき珍しいな。ま、自分もガラケーだけど。

 ガラケーでできるゲームなんか、いまだにあるんだ。」

 

 

 

そう思いながら、じっとよく見てみると、

そのおっさんのガラケーは、

天機の持っているガラケーと、同じ機種で、同じ色でした。

 

 

 

奇遇って、あるものですね。

「本が売れない」原因について考える。

こんにちわ。天機です。

 

 

 

きょうは、「本が売れない」原因について、

自分なりに考えてみたいと思います。

(この記事の字数 約1500字)

 

 

 

ちまたでは、最近よく、本が売れない、なんて言われています。

 

では、本が売れないとしたら、その原因はなんなのでしょうか?

 

 

 

まず第一に、インターネットの発達があると思います。

 

 

みんな、パソコンやスマホから情報を得るようになって、

わざわざ本を買う必要が少なくなりました。

 

 

家庭の医学、なんて本を買わなくても、

自分の症状で検索すれば、それなりの医学情報がえられます。

 

知恵蔵とか、現代用語の基礎知識とか、

広辞苑とかいった本を買わなくても、

グーグル先生やウィキペディアが大活躍してくれます。

 

 

情報をインターネットから得ることができるので、

わざわざ本を買う必要が少なくなった、

ということが、まず考えられるでしょう。

 

 

 

第二に、このインターネットの発達というのが、

「文章を読みたい」という人間の欲求を、それなりに満たしてしまう、

ということがあります。

 

食欲、性欲、睡眠欲といえば、人間の三大欲求といわれていますが、

「文章を読みたい」というのも、

人間に備わった基本的な欲求の1つだと思うんです。

 

戦後、出版物がよく売れて、

政治的な議論などもよくおこなわれるようになった

時期がありましたが、

それも、戦時中に抑圧されていた、

「文章を読みたい」「本を読みたい」という人間の欲求が、

一挙にほとばしったからだ、という見方もできると思います。

 

 

本というのも文章で書かれていますが、

インターネットのいろんなサイトも、基本的には文章で書かれています。

 

 

インターネットで文字情報を得ると、

「文章を読みたい」という人間の欲求が

それなりに満足できてしまうので、

やはり、わざわざ本を買って文章を読もう、

というところまでは、なかなかいかないのかもしれません。

 

 

 

第三に、お金の問題があります。

 

 

もしかしたら、非正規雇用の拡大とかもあって、

ひとびとの可処分所得が、じつは減っているのかもしれません。

 

 

そのいっぽうで、インターネット上には、

Youtubeその他の、「無料で」手に入る娯楽があふれています。

 

 

となるとやはり、本というものを「わざわざお金をだして」

手に入れようという気持ちが、少なくなるのかもしれません。

 

 

 

第四に、ひとびとが本というもの自体に、

あまり価値を見出さなくなったか、あるいは、

本の質が劣化している、ということもあるのかもしれません。

 

 

本というのは、基本的に、ある程度の分厚さが必要です。

パンフレットのような薄さだったら、

あんまり重要なことが書いてあるようにも思えないでしょう。

 

 

本には、伝えたい情報があります。

読者が知りたい情報があります。

 

 

ところが、その情報というのは、おそらく、

要点を箇条書きにすれば、もっと短くなるはずなのです。

 

 

にもかかわらず、本がなぜ、あれほど分厚いかというと、

自説を補強する部分、言い換えれば、

読者を説得しようとするための文章がおおくて、

それで、あれほど分厚くなってしまっているのです。

 

 

読者は、ほんとうは、役立つ情報の部分だけが欲しくて、

それ以外の余計な文章はいらないのです。

 

 

こういった読者のニーズがあるので、最近は、ネット上でも、

まとめサイト」という簡便なサイトが隆盛したり、

あるいは、ネット上の何らかの記事でも、

「この記事は3分で読めます」といった注釈がついたりするのです。

 

 

 

以上、

 

① 情報がネットでえられる

② 文章を読みたい、という欲求も、ネットで満足される

③ お金がない、無料があたりまえの時代

④ 分厚い本を読むより、要点をまとめたまとめサイト

 

といったことが、

「本が売れない」ということの背景にあるのではないか、

と考えます。

 

自分の意見も受け入れてもらうには。

こんにちわ。天機です。

 

 

 

きょうは、

「自分の意見も受け入れてもらうには、どうしたらいいんだろう?」

というテーマで、書いてみようと思います。

(この記事の字数 約2100字)

 

 

 

人間、生きていると、いろんな「自分の意見」というものを持つことが

あると思います。

 

 

そういった自分の意見をひとに言ったときに、

賛同してもらえることもあれば、反対されることもあると思います。

 

 

人間、自分の意見に賛同してもらえれば、なんだか嬉しくもなりますし、

反対されれば、悲しくなることだって、ありますよね。

 

 

 

だいたい、どういうときには賛同され、どういうときには反対されるのか、

というと、

ごくごくおおまかにいえば、

自分の利益や主張ではなく、

他のひとやみんなの利益や主張を伝えるときには

賛同されることが多くて、

自分の利益や主張を一方的に伝えるときには反対されることが多い、

ような気がします。

 

 

 

たとえば。

 

 

「困っている人のために自分はボランティアをします」

と自分が言ったとしたら、たぶん、多くの人から歓迎されるでしょう。

 

およそ、反対されることなど、ないかもしれません。

 

 

それは、その意見が、みんなの利益にかなっているからです。

 

 

 

いっぽうで、

「自分は旅行に行きたいので、ぼくに10万円ください」

と自分が言ったとしたら、

おそらく、否定的な反応がかえってくることのほうが

多いかもしれません。

 

 

それは、その意見が、自分だけを一方的に利するものだからです。

 

 

 

みんなの利益にかなう意見は受け入れられやすく、

自分を一方的に利する意見は排斥されやすいのです。

 

 

 

では、この世の中に生きている人間の選択肢としては、

「みんなの利益にかなうような意見ばっかり言って

みんなから歓迎される人生」

か、

「自分の利益ばかり主張してみんなから排斥され、

孤立して頑固になる人生」

か、

その2つに1つしかないのでしょうか。

 

 

 

そうではない、と、天機は考えます。

 

 

 

天機は以前、「7つの習慣」という自己啓発本

読んだことがあるのですが、

上に挙げた2つの生き方というのは、

前者がLOSE-WINの関係、後者がWINーLOSEの関係を

あらわしているようです。

 

 

自分ばかり敗者になって相手ばかり勝者になるのも、

自分ばかり勝者になって相手ばかり敗者になるのも、

どちらも不完全なのだ、と、その本では述べられていました。

 

 

 

自分も、その通りだと思います。

 

 

全面的に相手の利益ばかりを考えるのか、それとも、

全面的に自分の利益ばかりを考えるのか。

 

 

世の中は、その2つの選択肢しかないわけでは、ないはずです。

 

 

 

自分がなんらかの主張をして、それが受け入れられないのならば、

相手に対して全面的に折れるのでもなく、

受け入れられない自分の意見や利益に固執して、

世の中に背を向けるのでもなく、

受け入れられやすいように、「微調整」をしていけばいいと思うんです。

 

 

 

熟しすぎて消費期限が近づいたいちごでも、

きれいに包装して「完熟いちご」として売り出せば、

買ってくれる人がいるかもしれませんし、

ジャムにつくりかえれば、

やはり買ってくれる人がでてくるかもしれません。

 

 

古い仏像で、錆だらけになって朽ち果てているようなものでも、

綺麗に磨きなおして錆をおとせば、ぴかぴかの金色の仏像になって、

高値の骨董品として取引されるようになるかもしれません。

 

 

自分のもっている、なんらかの意見が、

そのままではどうも、ひとびとに受け入れられそうにないな、

と思ったら、ひとつは、

その意見の「パッケージング」を変えてみるのも、手です。

 

 

 

あるいは、スーパーにならんでいる商品で、

「栗」とか「ウニ」がならんでいることもありますよね。

 

 

栗にもウニにも、イガイガやトゲトゲが、もともとはあるのですが

販売する側は、それをそのまま売ったりはしませんよね。

 

 

たいていのひとは、栗の中身や、ウニの中身は好きですが、

外側のイガイガやトゲトゲは嫌いなのです。

 

 

だから販売する側は、たいてい、

イガイガやトゲトゲは、あらかじめ取り除いてから販売しますよね。

 

 

 

自分の意見の中にも、もしかしたら、

他人の神経に触るような、イガイガやトゲトゲにあたるような、

先鋭的な部分があるのかもしれません。

 

 

そういうときは、そういったカドの部分を、

あらかじめ少し丸くしておいてから、

自分の意見を提示するのも、ひとつの手だと思います。

 

 

 

さらには、こういうことも考えられるでしょう。

 

 

みんなの利益ばかりを考えるというのは、単純化していえば、

みんなは笑って自分は泣く、ということです。

 

 

自分の利益ばかりを考えるというのは、単純化していえば、

自分は笑ってみんなは泣く、ということです。

 

 

そういう両極端ばかりではなくて、

「みんなが笑って自分も笑う」

「みんなと自分がともに楽しめる」

そういった意見を提示してみるのも、いいのではないでしょうか。

 

 

そして、そういった意見を提示するためには、もしかしたら、

「みんなか、自分か、どちらかは犠牲にならなければいけないのだ」

という、自分の中に潜んでいる、

この世界についてのパラダイムを、転換する必要があるのかもしれません。