この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

可能性と境界線 2

可能性というものについて、自分なりに考えてきた。

 

可能性というのは、内部に無を内包しているものの、

無そのものではなく、

無のように見えて無とはわずかに異なるものである、と考えた。

 

そこには、内部の無を無として確保するための、

外界に対する抵抗性が存在する、というようなことを考えてきた。

 

この、可能性というものと、境界線というもののあいだには、

ある種の共通性がある、と自分は考えている。

 

境界線はいろんな事物のあいだに存在する。

この境界線について考えるとき、思い出すのは、高校の時の数学の授業だ。

 

高校で数学の授業を受けたのは、もうずいぶん以前のことになるが、

そこで、「命題と集合」「命題と論理」みたいな単元があった、

と記憶している。

 

集合の論理関係を理解するために、「ベン図」というものがある。

 

たとえば、ここに長方形を線で描き、

その長方形を全体集合Uとする。

 

その長方形の内部に、こんどは少し小さめの円を描き、

その円を部分集合Aとする。

 

すると、全体集合Uの内部ではあるが、部分集合Aには属していない

領域があらわれる。

 

それが、部分集合Aの補集合、バーAになる(Aのうえに横線を

ひいた記号になる)。

 

Uだったり、Aだったり、抽象的でわかりにくいと思うので、

具体例でかんがえてみる。

 

全体集合Uをかりに整数全体の集合とする。

そして、部分集合Aを4の倍数の集合とする。

 

4の倍数の集合は、整数の集合のなかに含まれているから、

ベン図では、全体集合Uをあらわす長方形の内部に部分集合Aという円が存在する、

という位置関係になる。

 

他方で、整数の集合の中には、4の倍数ではないものも存在する。

それが、ベン図でいうと、部分集合Aの補集合バーAになる。

 

ベン図でいうと、

まず整数全体の集合をあらわす全体集合Uのおおきな長方形があって、

その長方形の内部は2つの領域にわかれている。

 

その2つに分かれた領域のひとつが4の倍数の集合をあらわす部分集合Aで、

もうひとつが4の倍数ではない整数の集合をあらわす補集合バーAである。

 

ある集合とその補集合は、お互いがお互いを否定する関係になっている。

ある集合が4の倍数で「ある」ならば、その補集合は4の倍数で「ない」

のである。

 

さて、このベン図においては、線があらわれる。

最初の線は、全体集合Uをあらわす長方形を描いたときにかいた外側の直線。

 

つぎにあらわれる線は、4の倍数の集合である部分集合Aをあらわす小さな

円を描いたときにかいた、長方形の内部にある曲線。

 

そして、この内側にある2番目に描いた曲線は、境界線になっている。

それは、4の倍数である部分集合Aと、4の倍数ではないが整数である

補集合バーAを区別する境界線になっている。

 

この境界線。

この境界線は、なんらかの「実体」を「ふくむ」ものだろうか。

 

いや、そうではないだろう。

この境界線は、4の倍数と、4の倍数ではないが整数であるものを区別する。

4の倍数と、4の倍数ではないが整数であるものの、その両者の「あいだ」に、

さらになにものかが存在するわけではない。

 

このことは共通部分という考え方をとってみると、

すこしはっきりするかもしれない。

 

ある集合Rと別の集合Sの共通部分を考え、その共通部分を「R共通部分S」とする。

 

たとえば、

集合Rが2の倍数の集合で、集合Sが3の倍数の集合なら、

R共通部分Sは、6の倍数の集合ということになる。

 

これは、R共通部分Sという集合の要素は、

集合Rの要素と集合Sの要素のうち、おたがいに共通するものだけを集めた

ものになる、ということだ。

 

では、4の倍数の集合Aと、4の倍数ではないが整数であるものの集合バーAの、

共通部分はなんだろう。

A共通部分バーAとは、なんだろう。

 

これは、空集合といわれるものになる。

空集合というのは、要素がなにも存在しない集合のことだ。

 

共通部分というのは、両者に共通する、つまり、

Rであり「かつ」Sである、みたいな関係のことをいう。

 

Rを2の倍数の集合、Sを3の倍数の集合とすると、

R共通部分Sというのは、2の倍数であり、「かつ」、3の倍数である、

というようなものの集合であるから、

それは、6の倍数の集合になる、というわけなのだ。

 

では、4の倍数の集合Aと、その補集合バーAの共通部分はどうなのか、

というと、このAとバーAは、お互いに否定し合う関係にあった。

 

ということは、その共通部分の性質は、

「4の倍数であって、かつ、4の倍数ではない」というようなものになるだろう。

 

4の倍数であって、かつ、4の倍数ではない。

このようなことを、矛盾という。

 

 

可能性と境界線 1

可能性とはなんだろうか。

われわれは、いろんなところでこの可能性という概念をつかって

物事を考える。

 

明日の降水確率は50%です、というとき、

だいたいそれは、明日雨が降る可能性が50%である、

というような意味でつかわれる。

 

可能性はまた、人間の能力についてもつかわれる。

できる、能力がある、ということだ。

彼は水泳をすることが可能だ、という場合、

彼は泳ぐことができる、ということを意味する。

 

この可能性というものは、飲み物をいれるコーヒーカップ(CUP)のような

器や、絵を描くためのキャンバス(CANVAS)に似ている、とおもう。

 

カップがあれば、そこに飲み物を満たすことができる。

満たさないこともできる。

 

満たすかどうかは自由で、満たすことも満たさないこともできる。

だが、満たそうと思えば、いつでも満たせる。

 

それは、カップとして、ある空間が無の状態で確保されているからだ。

 

もし、このカップの中に最初から鉛かなんかが入っていて充満している

なら、飲み物を入れようとしても入れることができない。

その意味で、このカップは、内部が無の状態で保たれている必要がある。

無の状態で保たれていればこそ、その空間を飲み物でうずめることが

できるのだ。

 

でも、ただ単純に無であればいいかというと、そうでもない。

もし、このカップの中の無の空間というものを実現している、

外側のカップそのものが消え去ってしまえば、

やはり、飲み物を注ぐことはできなくなってしまう。

 

空中に飲み物をポットからそそげば、じゃーと床にこぼれ落ちる

だけだろう。

 

 

おなじようなことは、絵をかくためのキャンバスについてもいえる。

 

ここにキャンバスがあれば、そこに絵をかくことができる。

絵をかかないこともできる。

 

絵をかくかどうかは自由で、かくことも、かかないこともできる。

でも、描こうと思えば、いつでも描ける。

 

それは、キャンバス上の平面が、白紙の状態で確保されているからだ。

 

もし、このキャンバスのうえに最初から水墨画かなんかが描いてあったり、

真っ黒なペンキで塗りつぶされていたりすれば、

自由に絵を描こうとしても、なかなか難しいにちがいない。

 

その意味で、キャンバスは白紙の状態で保たれている必要がある。

白紙の状態であるからこそ、そのうえにあらたに絵をのせることができる

のだ。

何も描かれていないという意味において、キャンバスの上はやはり、

無である必要があるのである。

 

しかし、絵を描くための場であるキャンバスそのものが消え去ってしまえ

ば、やはり、絵を描くことはできない。

空中に絵筆をはしらせてみたところで、絵の具がぽたぽたと床に

飛び散るだけで、絵は描けないにちがいない。

 

さきに、可能性があるということについて、

明日雨が降る可能性がある、とか、彼は水泳をすることが可能だ、

みたいな例をだして話をしてみた。

 

明日雨が降る可能性がある、というのは、可能性の段階である。

これが実際に明日になると、

雨が降ったよ、とか、雷雨だったよ、とか、小降りだったよ、とか、

曇りだったよ、とか、晴れていたよ、とか、実際になにかが発生する。

これが、現実化の段階だ。

 

彼は水泳をすることが可能だ、というのは、可能性の段階である。

これが、

彼は去年は海で泳いだよ、とか、

先月の第3日曜日に彼はプールで泳いだよ、とか、

彼は先週の金曜日はおなかが痛くて泳がなかったよ、とか、

実際の行動になってあらわれる。

これが、実行の段階だ。

 

可能性がある、可能である、能力があるというのを、

英単語のCANであらわし、

現実化する、実行するというのを英単語のDOであらわすとすると、

アルファベットのCのあとにDがくるように、

CANのあとにDOがくる。

CANという可能性があって、それがDOという現実化でみたされる。

CANという能力があって、それがDOという実行でみたされる。

 

もしこれが、CANという可能性、能力すらなかったとしたら、

DOという現実化、実行はきっと発生しないにちがいない。

 

明日雨が降る可能性はありません、というのならば、

雨が降るということは決してない。

彼は水泳をすることが可能ではありません、というのならば、

彼が水泳をするということは決してない。

 

もういちど、コーヒーカップやキャンバスの例に戻って考えてみよう。

コーヒーカップは、内部に無を確保していたからこそ、

その無を飲み物で充足することができた。

 

しかし、その確保された無、という場そのものがなくなってしまえば、

もはや飲み物をそそぐことはできなくなってしまった。

 

キャンバスは、そのうえに無を確保していたからこそ、

その無をあらたな絵で充足することができた。

 

しかし、その確保された無、という場そのものがなくなってしまえば、

もはや絵を描くことはできなくなってしまった。

 

この2つの例にあげた無というのは、実際の物理的な空間としての無

であったが、可能性という抽象的なものについて考える際には、

その無(VACANCY)というのを、抽象的な無に敷衍して考えることができる

のではないだろうか。

 

雨が降るという可能性の後には、実際に雨が降るという現実化がひかえていて、

水泳ができるという能力の後には、実際に泳ぐという実行がひかえている。

ここでは可能性は、実際の現実化や実行というものによって充足されうるという

意味では無となっている。

 

実際に現実化や実行が行われないかぎり、現実の現象や行為はなんら発生して

いない。その意味では無である。

 

しかし、その無は、無として確保されていなければいけない。

もしかりに、雨が降る可能性そのものがありませんよ、ということになれば、

雨は絶対にふらなくなるし、

泳ぐ能力そのものがありませんよ、ということになれば、絶対に泳げなくなる。

 

つまり、可能性においては、現実化や実行を受け入れる場としての無は内包

されているものの、可能性そのものが無というわけではないのである。

 

無のようにみえて、無とはわずかに異なるもの、

そこに可能性の本質の1つがあるように思える。

 

宇宙は真空を嫌う、という言葉があるが、真空というのは、

容易に他のなにものかによってうずめられやすい性質をもつ。

 

無というものも、それがなにもない、という意味であるのならば、

その無は簡単になんらかの実体によってうずめられてしまうかもしれない。

無に対する、実体による圧縮がおこってしまうのだ。

しかし、可能性における無は、無ではあるものの、その無は確保された無

なのである。

 

外部からその無を圧縮して、実体でもってうずめてしまおうとする動きに

対して、無を無として存立させようとする、

外的抵抗性をもった無なのだ。

なぜ、おっぱいは2つなのか? 2

※ 過去記事は、こちらから↓

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

 

 

 

この世界のはじまりのお母さんというのも、

そのお母さんが生み出した2人の子供というのも、

これがお母さんですよ、これがその子供ですよ、というふうに

具体的なかたちをとってあらわれる実際の存在ではなく、

抽象的な原理をあらわすものだろう、と書いた。

では、その原理とはなんだろう。

 

まずひとつめは、頭髪が守っている頭部である。

頭部はなにをするところだろう。

ここで注意しなければいけないのは、このブログの別の記事でも書いたが、

この世界の秘密は、ひとつには「人間の」からだにあらわれる、

ということだ。

人間以外のさまざまな生き物のからだにもこの世界の秘密が

あらわれる、と解釈すると、間違うことになる。

もちろん、人間以外の生き物のからだについても考えてみることで、

この世界についてのある種の洞察はえられるかもしれない。

が、旧約聖書の創世記にかかれているように、

あくまで人間というのは、ほかの生き物とは異なって特別なのだ。

ここをおさえる必要がある。

だとすれば、頭部というのはもちろんほかの生き物にも存在する

わけだけれど、

ほかの生き物とはちがってとくに人間の頭部だけがおこなうはたらき

とはなんですか、というのが、ここでたてられるべき問い、

ということになる。

 

人間の頭部は、なにをするところだろう。

それは、考えることをおこなう場所だ。

人間は、考えるということができるから、ほかの生き物ではなしえない

ような、文明を築くということも可能にしてきたのだ。

判断する。区別する。道理に従って考える。

理性によって思考する。

そういったことをおこなうのが、人間の頭部だ。

もちろん、人間の頭部には、頭がい骨があり、そのなかに脳みそが

おさまっている。

しかし、ここで守られているのは、そういった具体的な生物学上の

器官ではなく、原理だといった。

とするならば、理性や思考、判断をつかさどる頭部を守っている

頭髪が守っている抽象的な原理とは、

「理」ということになる。

つまり、はじまりの母親の子供のうち、ひとりは「理」という原理を

あらわしている、ということになる。

 

では、陰部を守っている陰毛は、いったい、どのような原理を守って

いるのだろう。

ここに存在するだろう、もう1人の子供は、いったいなにをあらわして

いるのだろう。

 

ものごとを考え、判断する際には、細かいところをなおざりにせず、

注意深く、慎重に、ねちねちと考え抜いていく必要がある。

陰毛というのは、おちんちんと、おまんこのまわりに生える。

でも注意したいのは、この陰毛というのは、生まれた時から生えて

いるわけではない、ということだ。

陰毛が生えるのは、思春期からなのである。

思春期になると、男子は精通があって射精をはじめるようになり、

女子は初潮があって月経がはじまるようになる。

が、おちんちんとおまんこそれ自体は、うまれたときから存在する。

おちんちんはおしっこをする際に使用し、おまんこの近くにも尿道

があって、やはりおしっこがでてくる。

しかし、幼児期においては、陰毛はいまだ生えていない。

とするならば、陰毛はまず第一に、泌尿器に象徴されるような、

泌尿作用、排せつ作用という原理を守っているわけではない、

ということである。

陰毛は、思春期の開始とともにはえてくる。

思春期の開始とともに顕在化してくる原理とはなんだろう。

 

それは、生殖作用だ。

男子の射精も、女子の生理も、みな、次代に子孫をのこしていく

ためにおこなわれるものだ。

陰毛は、この生殖作用が顕在化してくるまでは決してはえてはこず、

生殖作用が顕在化してくるとともにはえてくる。

とするならば、陰毛が守ろうとする原理は、おそらく、

生殖作用に関係がありそうだ、ということがわかる。

 

ここで、この原理をさらに突き詰めて抽象化するために、

生殖作用とはなんぞや、ということを考えてみる。

人間は、生まれてから死ぬまで、他の生き物を食べて生きていく。

これは、1人の人間が生まれてから死ぬまでの、

1つのサイクル、プロセスだ。

このプロセスは、なにもしなければ、その1人の人間が死亡した

時点で終わりをつげる。

ところが、生殖作用をおこない、子孫を残すという選択をすることで、

その人間が死亡したあとも、そのプロセス、サイクルを終了させずに、

別のかたちで次につなげていくことができる。

1人の人間が自分の一生をいきていくためには、食べるための口が

あればよく、生殖器官はかならずしも必要ではない。

現に男性であれば、食べないで生きていくことは不可能だが、

射精を我慢しながら生きていくことは、かならずしも不可能ではないだろう。

口がなければ生きてはいけないが、性器を切断したとしても、

古代中国の宦官のように生きていく例は存在するのだ。

 

しかし、自分が死んでしまったとしても、

「なおもべつのかたちで生き続けたい」という願いをもったとき、

生殖器官と生殖作用が必要になる。

食べるというのは、自分1人が自分の一生を生きるためであり、

生殖作用をおこなうというのは、自分が死んでしまったとしても、

そのあともなお生命のプロセスを絶やさない、生き続ける、

ということのためである。

ということはつまり、生殖作用は、より長いスパンでの、

「生きる」ということにかかわる。

であるならば、陰毛が守っている抽象的な原理とは、

「生」ということになる。

つまり、はじまりの母親の子供のうち、もう1人は

「生」という原理をあらわしている、ということになる。

 

はじまりの母親がいったい、どのような原理をあらわしているのか、

ということについては、まだここでは言及しなかったが、

その2人の子供は、「理」と「生」という原理をそれぞれあらわしている、

と考えてきた。

こう考えてきたのも、人間の体に注目したからで、

おっぱいが2つある→子供が2人いる→実際の人間の子供は

2人とはかぎらない→その子供は実際の子供ではない→

抽象的なこの世界の原理に関わる→頭部と陰部には集中して

毛が生えている→そこにこの世界の2人の子供が存在するから

守られている→その2人の子供とは?→頭部と陰部のそれぞれの

はたらきから抽象的に帰納して考える→理と生ではなかろうか、

という思考過程をたどってきたわけだ。

 

はじまりの母というのが、この世界のはじまりにあって、

その同じ母から2人の子供がうまれた。

その子供は、1人が「理」、もう1人が「生」。

同じ母からうまれた以上、この理と生のあいだには、

兄弟関係、姉妹関係がある。

そして、頭髪は最初からはえているが、陰毛はあとからはえてくる

ことを考えると、

兄や姉にあたるのが理、弟や妹にあたるのが生、

ということに、たぶんなるのだろう。

自分は、この理のほうが兄、生のほうが妹、と考えている。

なぜ、性別がわかれるのかについては、

はじまりの母から理と生がそれぞれうまれてきた生成過程にかかわる

のだが、それはまた別の記事で。