この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

時計とカレンダーを、なくしてみる。

こんにちわ。天機です。

(この記事 約800字)

 

 

 

天機はふだん、家にいるときは、自分のデスクに向かってすごしています。

 

そのデスクには、目覚まし時計が置いてあり、また、

デスクの前の壁には、カレンダーが吊ってありました。

両方とも、つねに自分の視界に入ってきていたのです。

 

 

 

で、昨日の夜、急に思いついたのですが、この、

 

時計とカレンダー

 

つまり、

 

いまがいつですよ、ということを、絶えず知らせてくる存在

 

というのが、じつは、

自分の集中力を、かなり阻害しているんじゃないか?

と思ったんですね。

 

 

 

たとえば、時計。

 

こいつを見ていると、

ああ、もうこんなに時間がたってしまったのか、

と、後悔とともに過去を振り返り、

それでも、まだこんなに時間があるな、

と根拠のない楽観とともに未来を眺めます。

 

つまり、意識が「過去」か「未来」に飛ぶことが多くて、

その間で揺れ動き、

なかなか、

 

 

に集中できないのですよね。

 

 

 

子供のころを思い返してみると、

遊びに集中していて、時間のたつことも忘れて、

夕方、家に帰ってくるのが遅れて、

お母さんに怒られた、なんてことも、あったような気がします。

 

つまり、なにかに集中できているとき、というのは、

時間の存在など、忘れていることが多いのです。

 

いまがいつなのか、ということを、たえず意識している状態というのは、

それゆえ、

集中とは正反対の状態になっているのではないでしょうか。

 

 

 

もちろん、仕事をしているときとかは、

時間を意識することが必要である場合もあるでしょう。

 

しかし、日常生活の四六時中において、

いつもいつも、かならず、時間を意識していなければ生活できない、

というわけでも、ないような気がするのです。

 

 

 

そういうわけで、天機は、

昨晩から、

カレンダーと時計を、普段の視界には入らないように置きなおしました

(捨てたわけではありません)。

 

 

 

どのような効果が自分にあらわれてくるのか、

しばらく見てみようと思います。

逆境にどう立ち向かうべきか。

こんにちわ。天機です。

(この記事 約4000字)

 

 

 

新幹線での殺傷事件が、依然として社会に波紋を投げかけています。

 

 

 

世の中では、時として、こういった、

社会の不特定多数へ向けての、むきだしの敵意が表明されるような

事件が発生することがあります。

 

今回の、新幹線での殺傷事件もそうでしたし、

かつての、大阪教育大付属池田小学校の殺傷事件、秋葉原の殺傷事件も

そうでした。

 

 

 

そうした事件においては、犯人はたいてい、まだ若くて、

幼少期からの生育環境に問題があり、

人生の前半期において運命の女神に微笑んでもらえず、

自分のその苦境を、世の中全体のせいだ、という気持ちをつのらせたあげくに、

犯行に及んでいる例が多いような気がします。

 

 

 

こういった犯行は、言うまでもないことですが、許されるものではなく、

強い非難に値するものです。

 

犯人がそのような犯行に及ぶことがなければ、

被害者は、その後の人生を平穏にあゆむことができたのです。

 

 

 

だけでなく、犯人自身にとっても、なんらいいことはありません。

そんな犯行を犯さなければ、

警察に逮捕されることも、裁判で裁かれることも、

人生に深刻な汚点をのこすことも、さらには、死刑囚になるようなことも、

みな、なかったはずなのですから。

 

つまり、犯人がこのような犯行を思いとどまることさえできていれば、

まわりのひとも、犯人自身も、苦しい思いをせずにすんだかもしれない。

天機は、そう思います。

 

 

 

こういった事件において、犯人が犯行に及んでしまう背景には、

犯人自身の原因と、環境や運命に関する原因の、

2つがあるだろうと思います。

 

 

 

ひとが人生を生きていくうえでは、

自分の自由意思でどのように人生を形作っていくのか、という側面と、

まわりの環境や運命によってどのように影響されるのか、という側面の、

2つの側面があるだろうと思います。

 

なので、

人間は環境や運命の奴隷であって、自分ではなんにも決められないのだ、

とする考え方が、一方的であって真実をとらえていないのと同様に、

人間は自由意思で自分の人生をなんとでも決められる、

環境や運命の影響など受けないのだ、

とする考え方も、やはり、一面的であっておかしなものだろう、と思うのです。

 

環境や運命の影響を受けながらも、そのなかで、

自分の自由意思によって決定できる部分も有している。

それが、人間だろうと思います。

 

 

 

社会の不特定多数に牙をむくような犯罪を犯した犯人についても、

そのことは妥当します。

 

幼少期からの不幸な生い立ちという、環境や運命の影響がたしかにあるいっぽうで、

凶行に及ぶのかどうかということを、最終的に自分自身で決定することもできる、

自由意思もたしかに持っているのです。

 

その自由意思の側面がたしかにあるからこそ、

実際に凶行に及んでしまった人間に対しては、

その身勝手な動機がきびしく非難されることがあるのでしょう。

 

 

 

とはいうものの、

自分をとりまく環境や運命が、自分に優しく微笑んでくれるようなひとにくらべて、

自分をとりまく環境や運命が、やたらと自分に厳しくあたってくるような

ひとというのは、やはり、

その人生が破たんしやすくなるような傾向というのが、

たしかにあると思うのです。

 

 

 

よく人はいいます。

環境や運命のせいにするのは間違っている。結局は、本人の責任だろ、と。

 

 

 

天機は、それは半面で真実ですが、半面で誤りだろうと思います。

 

考えてもみれば明らかなことですが、

自分がどのような親の元に生まれてくるのか、

幼少期にどういった家庭環境で過ごすのか、

はたまた、うまれながらの重篤な持病をかかえているのかどうか、

優秀な遺伝子が自分を組成しているのかどうか、

両親からいかほどの経済的なバックアップがえられるのか、

といったことなどは、自分で選択できることではなく、したがって、

自分には責任のないことです。

 

そして、そういった、自分には責任のない事柄が、

自分の人生に、おおきな暗い影を当初から落としている、といったようなことは、

めずらしいことではないはずです。

 

 

 

そうすると、このように言う人もいます。

 

たしかに環境や運命はつらかったかもしれない。

でも、世の中には、もっとたいへんな目に遭っているひとだって、

いっぱいいるんだ。

みんな、そのなかで頑張っている。おまえだけ、たいへんなわけじゃないんだ、と。

 

 

 

天機は、これについても、半面で真実ですが、半面で誤りだろうと思います。

 

世の中には、たしかに、たいへんでつらい目に遭っているひとは、たくさんいます。

しかしそのいっぽうで、

楽しい目に際会し、美味しい思いをしているひとも、それなりにいるのです。

 

であるのに、

世の中に存在する、大変で苦しい思いをしているひとのことだけを考慮に入れて、

楽しく美味しい思いをしているひとのことをあえて考慮からはずすのは、

公平で客観的なものの見方であるようには、思えません。

 

 

 

さらにいえば、ひとが人生で遭遇する苦しみや不幸というのは、

その内容や性質も、その量も、ひとによって異なるはずです。

 

芸能界のご意見番、あるいは、芸能界の重鎮、といったひとは、よく、

自分も若いころは苦労したんだ、なんてことを言いますが、

その内容をよく聞いてみると、たいていは、

貧乏で経済的に苦労した、というものであることがほとんどなのです。

 

ところが実際には、世の中にある苦労や悩みは、

けして、貧乏だけではない。

 

家庭環境が複雑で、氷室のような家庭で育ったために、

本人が成人してから、他人と健全な人間関係を取り結んでいくのに難渋している、

といったような例もあります。

 

また、数万人に1人しかいないような難病にかかっているために、

生まれながらに日常生活に支障をきたしているような例もあるはずなのです。

 

 

 

トルストイだったか、ドストエフスキーだったか、

たしか、ロシアの文豪が言ったはずなのですが、

苦しみの数、悲しみの数、というのは、家庭の数だけあるのであって、

けして一様ではないのです。

 

貧乏のような、「わかりやすい」苦しみや不幸だけがあるのではない。

だからこそ、

ひとがなんらかの苦しみや不幸をかかえているときに、

そんな苦しみや不幸なんて、誰しもが抱えている、

でも、みんな頑張っているんだ、

というように、

自分の状況を直線的に延長したその先に他者の状況があるかのように、

安直に「理解」することは、

誤りを生むものだろうと、天機は思うのです。

 

 

 

とはいうものの、たしかに実際のこの世の中では、

世の中をうらんだあげくに凶悪な犯罪行為に及んでしまうようなひとというのは、

まれな存在です。

 

ほとんどのひとは、過酷な環境や運命にかりに遭遇したとしても、

そのなかで必死に抗いながら、日々を生きていくことのほうが多いのです。

 

 

 

では、どうして、凶悪な犯罪行為にあえてでた犯人たちは、

そのような行為にでてしまったのでしょうか。

 

原因はいくつかあるとは思いますが、天機は、

過酷な環境や運命という、ひとつの「逆境」に遭遇した時の、

彼らの、短慮にもとづく対処のまずさ、があるように思います。

 

 

 

まず第一に、

こういった事件の犯人たちは、ほぼ共通して、みな、

その「若い時に」凶悪犯罪を実行するに至っている、ということがあります。

 

生まれながらに運命の女神に微笑んでもらえないような人というのは、

だいたいにおいて、

その幼少期から青年期にかけて、つまり、人生のまだ早い段階において、

過酷な運命におかれることが多いのです。

 

ということは、時を待てば、人生の中盤から後半へとさしかかるころまで、

時期を待てば、

もしかしたら、状況は、すこしは変わっていったかもしれないのです。

 

 

 

第二に、

かれらは、自分の運命を呪い、世の中をうらむなかで、

自分が戦う相手を「世の中全体」に設定した、ということがあります。

 

戦いや戦争というのは、基本的に、

自分がたたかう相手を、細かく、小さく分けたうえで、

その一を撃つようにしなければ、なかなか勝てないものです。

 

敵が大きくまとまって強大になればなるほど、戦いは勝ちにくくなります。

世の中全体や、世界全体を敵に回して戦おうとするならば、

どんなひとでも破滅してしまうでしょう。

 

 

 

第三に、

かれらは過酷な環境や運命に対峙するときに、

「状況を一挙に変えてしまおうとした」ということがあります。

 

追い詰められ、窮迫した時には、

状況を一挙に好転させようとすると、たいてい、失敗します。

 

かつて、会社の金か何かを横領し、それがばれそうになったかなにかで、

多額の金を、競馬で1頭の馬につぎこんで最後の大博打をうった男が、

お目当ての馬が来ずに、破綻したことがありました。

 

追い詰められた者が、最後の大博打と思って大勝負に出ると、

どういうわけか、

幸運の女神の美意識に反するのかどうか、

敗北して破綻を決定づけられることが、よくあるのです。

 

なので、自分がいま逆境にあるなあ、過酷な環境と運命のもとにあるなあ、

と思ったら、

いちかばちかの大勝負は避けるべきです。

 

ボクシングのことはよくわかりませんが、

ボクシングでも、一撃必殺のアッパーばかりを狙うのではなくて、

ボディーへの攻撃を細かく繰り出しながら、相手の体力をそいでいくでしょう?

 

将棋でも、劣勢に立たされたなら、

状況を一挙に好転させるような、会心の一手を狙うのではなくて、

徐々に、徐々に、差をつめていくことを狙います。

 

逆境におかれたときは、長期戦の構えで、

その運命としっかり組んで、わたりあっていったほうがいいと思います。

 

 

 

世の中に牙をむくような凶悪犯罪を実行してしまえば、

犯人も、被害者も、みなが不幸になるだけで、

結局、なんのいいこともありません。

 

そのような事態になるのを防ぐ一つの方法は、

犯人の側に、不満に思うような境遇があるにせよ、

そこから一歩引いてみて、自分の人生を俯瞰し、

粘り強く、しぶとく、ある意味で狡猾に、

自分の人生と長期戦でわたりあっていくことだと思うのです。

電子書籍について思うこと。

こんにちわ。天機です。

(この記事 約2100字)

 

 

 

天機が普段から愛読しているブログに、こんな記事が掲載されました。

 

nagaisan00.hatenablog.com

 

この記事を書いている、長井さんという方は、

会社を退職されてから、フリーランスとしてライターをされています。

 

天機は、会社勤めをしているわけでもなくて、また、

フリーランスの仕事を直近で始める予定もないのですが、

長井さんの記事は、

会社での仕事がどういうものか、また、

フリーランスで仕事をしていくとはどういうことなのか、

といったことを知るうえで面白く、

なにより、長井さんの人生への向き合い方、その哲学、といったものが、

自分の考え方とぴったりくるので、

読んでいて心地よいのですね。

 

 

 

そんな長井さんですが、今回、電子書籍というものを出版されました。

忙中閑あり、ということで制作された、

というふうに、ご自身は謙遜されていますが、

ふだん、長井さんのブログを知らなかったかたにとっては、

そのブログの内容をコンパクトに知ることができる1冊だろうと思います。

 

 

 

そして、この記事をきっかけに、天機自身も、

電子書籍というものに、興味がわいてきました。

 

 

 

有名人でもない一般人が、片手間に書いてすごく儲かるほど、

電子書籍の世界も、甘いものではないとは思いますが、

それでも、

自分の思うところ、考えるところを、

かんたんな本にしてみて、

それを何人かの人が読んでくれたうえで、

すこしのお金も入ってくる、というのは、

悪くない話だと思います。

 

 

 

天機が書くとしたら、どんなジャンルでしょうか。

 

パッと思いつくのは、

紫微斗数四柱推命、西洋占星術奇門遁甲といった、

占いジャンルについての考察、研究を内容とするもの。

 

あるいは、この世界の不思議についての、独自の考察、

さらには、独自の漢字論、でしょうか。

 

占いコンテンツというのは儲かる、と、どこかで聞いたことはあります。

はてさて、占いジャンルについての独自の考察研究に、

お金を出そうというひとは、いるのでしょうか。

 

 

 

字数は、どれくらいになるのでしょうか。

 

天機は、このブログで、最長20000字ほどの記事を書いたことがあります。

 

電子書籍というのは、

50000字から60000字というのも標準的な長さだ、

と聞いたりするので、けっこうたいへんそう。

 

 

 

価格はどうでしょうか。

 

 

 

天機も含めて、ふつうのひとは、こう考えるんじゃないでしょうか。

 

「価格というものは、安いほど、ひとは買ってくれる。

 100円くらいの価格に設定しておけば、手に取ってくれやすいんじゃないか」

 

と。

 

 

 

また、世の中には、こんなことを考えてみたひともいるのではないでしょうか。

 

「日本には、1億人からの人間がいる。1人あたり、1円をもらっていけば、

 1億人で1億円手に入って、ぼろ儲けだ」

 

と。

 

 

 

普通の人の思考というのは、おそらく、

単価は小さくしておいて、それをたくさん集めることで、

おおきな儲けになる、というものであるような気がするんです。

 

もちろん、実際には、そういうふうには考えない人も、

たくさんいるとは思いますが。

 

 

 

でも、世の中で報道される詐欺事件、たとえば、

架空の出資話で大量のお金をあつめた、といったような事件では、いつも、

被害者1人あたりの被害金額が、何十万、何百万と高額であるいっぽうで、

被害人数は、めちゃくちゃ多いというわけでもないような気がするんですよね。

 

 

 

つまり、こういうことです。

 

世の中のごくごく普通のひとたち、大多数の人たちというのは、

通常、あまりお金に縁がありません。

 

それはそうでしょう。

多数派のほうがお金持ちで、少数派のほうが貧乏、なんて、普通はないわけです。

 

普通は、

多数派のほうが貧乏人で、少数派のほうが金持ちなのです。

 

そして、その多数派の貧乏人は、お金を稼ぐとき、お金を集めるときに、

どう考えるくせがあるかというと、

「少量のお金を多数人からあつめると、お金は集まる」

と考えるくせがあるのです。

 

ところが、少数のお金持ち、実際にお金に縁があるようなひとたちというのは、

どう考えるくせがあるのかというと、

「お金というのは、1人からがっぽりと取り、人数は少なくてもいい」

と考えてるように思うのです、天機は。

 

 

 

もちろん、これが必ず正しいかどうかは、わかりません。

 

世の中には、いろんなビジネスモデルがあります。

 

高級宝飾品の販売であれば、1人の人間から多額のお金を頂戴するいっぽうで、

購入者は少ないかもしれません。

 

他方で、セリアやダイソーといった100均ショップ、あるいは、

松屋吉野家すき家といった牛丼チェーンでは、

少額のお金を多数人から集めています。

 

だから、天機が先に述べたようなことが、世の中の真実をついているかどうかは、

わかりません。

 

 

 

が、往々にして、普通の人間は、

「価格を安くすれば、たくさんのひとが手に取ってくれて、結果、

 全体の儲けも大きくなるに違いない」

と考える、思考のワナに陥ってしまいがちであるような気が、天機はするのです。

 

なので天機は、電子書籍についても、

かならずしも、100円といった、極めて安い価格をつけることは、

得策ではないような気がします。