この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

報道で使用される、いろんな言葉

みなさん天機です٩(ˊᗜˋ*)و

 

 

今回は、報道で使用される、いろんな言葉

というテーマで記事を書いてみたいと思います。

(この記事の字数 約5200字)

 

 

報道というのは、基本的には

事実を国民に正確に伝える役割があると思うんですね。

 

 

でも実際には、メディアの立ち位置などが影響して、

報道にはいろんな色がつくことがあります。

 

 

よく言われる有名なところでは、

読売、産経などは、どちらかというと右寄りで、

朝日、毎日などは、どちらかというと左寄りだ、

なんていうのがありますよね。

 

 

それ以外にも、各社の立ち位置によって

いろんな主張の違いがあり、

各社は自社の主張を展開して、

悪く言えば、読者や視聴者を扇動しようとする

ことがあると思うんですよ。

 

 

自分なんかは

報道というのは淡々と事実だけを伝えてくれればいい、

と思っていますから、

そのような扇動があからさまだと

なんとなく興ざめしてしまうこともありますね(;´∀`)

 

 

そして実は、その扇動は

その報道の論旨の展開にだけあらわれるのではなくて、

細かい表現の使用法にもあらわれてくるんじゃないか、

なんて、最近よく思うのですね。

 

 

では以下に、報道機関やメディアが使用する表現と、

その表現を使用することによって

メディアはどのような扇動効果を狙っているのか、

ということについて

自分が思ったことを書いていきたいと思います。

 

 

 

 

「誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)」

 

これは最近よく使われる表現ですよね。

 

本当に誹謗中傷しているのなら問題であり

そのような誹謗中傷はやめるべきものですが、

誹謗中傷とされるものの中には

論理的で正当な批判が含まれていることもあるんですね。

 

それをひとまとめにして「誹謗中傷」と表現することで、

批判されている側に正義があり、

批判している側は誹謗中傷ばっかりしている、

というふうに印象付ける狙いがあるように思います。

 

 

「揶揄(やゆ)」

 

誹謗中傷と似たような表現に、この揶揄というのがあります。

 

この揶揄というのも、批判が含まれるものなのですが、

揶揄という表現を使うことによって、

批判している側は

正当でないダメ出しをからかい半分でしている、

というふうに印象付けて、

揶揄されている、とされる側に味方する効果があります。

 

 

以上の誹謗中傷と揶揄については、

たとえば、Aさんがなんらかのことで批判されているけれど、

報道機関にとってはAさんが批判されているのは都合が悪い、

なんとかしてAさんの味方をしたい、

というようなときに、

Aさんは誹謗中傷されている、Aさんは揶揄されている、

という表現をもちいて報道することによって、

Aさんに対する批判は正当なものではない、と

読者や視聴者に印象付ける作戦がとられます。

 

 

「主張した」 「指摘した」

 

一見、扇動とは何の関係もないような普通の表現に見える

主張した、と、指摘した、なのですが、

この2つの表現には微妙な違いがあります。

 

主張した、という表現は

その人が勝手にそう言っているだけのことで

それが本当に事実であるかどうかの裏付けはない、

というニュアンスのある表現だと思うんですね。

 

それに対して、指摘した、という表現は

それが事実である、ということが前提になっています。

 

なので、

これから日本の景気はよくなっていくと主張した、

は言えますが、

太陽は西からのぼってくると指摘した、

は、おかしな表現になってしまいますよね。

 

これからの日本の景気については

論者によっていろんな意見があるところですが、

太陽が西からのぼってくるというのは

明らかに事実に反するからです。

 

じゃあ、このようなニュアンスの違いをもつ

2つの表現、主張した、と、指摘した、を

報道機関はどのように使い分けるのか、というと、

報道機関が味方をしたくて、

読者や視聴者に正しいものと印象付けたい場合には

「指摘した」のほうを用いて、

報道機関が味方をしたくなくて、

あたかもそいつが勝手に言っているだけの

いい加減な意見、というふうに印象付けたい場合には

「主張した」のほうを用いるんですよ。

 

たとえば、いまだと

ロシアがウクライナに侵攻しているので、

報道機関の多くは

プーチンを悪者、ゼレンスキーを正義、

として報道したいですよね。

 

なので、この2人について報道するさいに、

プーチンがなにか言ったら

プーチンは〇〇と主張した」と報道して、

ゼレンスキーがなにか言ったら

「ゼレンスキーは〇〇と指摘した」と報道するわけです。

 

微妙な表現やニュアンスの違いが、

読者や視聴者の脳内の印象を微妙に変化させるのですね。

 

 

「〇〇疲れ」

 

この表現は、〇〇に対して、少なくない人が反発を覚えていたり、

反対していたり、怒っていたりするんだけど、

報道機関としては、〇〇は正しいことだと考えているので、

〇〇のほうを応援したいと思っており、

人々が反発したり怒っていたりするという事実が

報道機関にとってははなはだ不都合である場合に、

いえいえ、人々は〇〇に反発なんかしていないんですよ、

人々も〇〇の価値は認めているんですけど

ただ疲れているだけなんです、というふうに

事実を歪曲したい場合に使われる表現です。

 

例としては、

ウクライナ支援疲れ、とか、ポリコレ疲れ、

というのがありますね。

 

実際には、ウクライナ支援とかポリコレとかに対して

反感を抱いていたり、反発したり、怒ったりしている人が

欧米でもだんだんと増えてきているんですよ。

 

でも、報道機関としては

ウクライナを支援したり、ポリコレを推進したりすることは

いいことだ、と思っているので、

反発する人間が実際には多いというのは都合が悪く、

なんとかこれを肯定する方向で報道したいんですね。

 

なので、実際には人々は反発しているんだけど、

反発とか反感とか怒りという言葉は使いたくないので、

人々はウクライナ支援とかポリコレとかの価値は

認めているんだけど、ただ疲れているだけなんです、

というふうに報道するために、

ウクライナ支援疲れ、とか、ポリコレ疲れ、

という表現で報道するわけです。

 

 

書類送検

 

これは純粋な表現の問題ではないのですが、

報道機関は「書類送検」というのがあったときに、

場合に応じて報道機関に都合よく

異なった意味づけをおこなうことがありますね。

 

たとえば、報道機関は普段からAさんを嫌っていて、

なんとかしてAさんをやっつけたい、と思っている場合、

Aさんが書類送検された、というニュースがあると、

まるで鬼の首でもとったかのように

Aさんが重大な嫌疑で逮捕でもされたかのように

その書類送検のニュースを報道し、

パトカーがいっぱい並んだようなイメージ画像を

添付したりするんですね。

 

でもこれが逆に、

報道機関は普段からBさんを応援していて、

なんとかしてBさんの主張を社会に広めたい、と思っているのに

そんなBさんが書類送検されてしまったときは、

書類送検というのは逮捕とは違って単なる事務手続きであり

 たいしたことはない」というような

(自称)専門家の論評をくっつけたりするんですよ。

 

Aさんが書類送検されたときとは大違いの報道姿勢で、

報道機関の報道は公平公正だ、って

どの口が言ってるんだ?みたいに思えてきます。

 

ネットの情報は玉石混交で新聞とかの報道のほうが信頼できる、

なんて、報道機関は自画自賛するんですが、

本当にそうかな~、なんて思いますね。

 

 

「根強い」

 

根強い人気がある、とか、根気強く挑戦する、みたいに

プラスのイメージがあるかもしれないこの言葉なんですが、

おそらく報道機関はこの言葉を

ネガティブな印象を植え付けたいときに

使うようにも思うんですよね。

 

たとえば、あるプロジェクトを推進するということがあって、

報道機関としてはそのプロジェクトを推進することには

価値があると思っていて、なんとかして応援したいと

思っているのに、そのプロジェクトに反対する人が多い、

というようなときに、

「反対が多い」とは表現しないで

「反対論が根強い」と表現して報道するんですね。

 

2005年ごろに、ときの小泉首相

郵政民営化をとなえて解散総選挙に打って出て

大勝する、ということがありました。

 

そのときに小泉首相

自分に反対する人々にたいしてつけた名前が

抵抗勢力」だったんですね。

 

報道機関のこの「反対論が根強い」という表現も、

なんだか、正しい価値のあるプロジェクトを推進しようと

しているのに頑なに反対し続ける抵抗勢力のような、

そんなイメージを反対する側につけるのに

一役買っているような感じもします。

 

 

「逆恨み」

 

これは、殺人事件が発生したときなどに

報道で使用される表現なんですね。

 

面白いのは、「恨み」ではなく、

「逆恨み」という表現を用いるところなんですよ。

 

普通の表現のように思えますか?

 

たとえば、ある男性がある女性を殺害した。

 

動機として、その女性に対する恨みがあるようだ。

 

というようなときに、最近の報道機関はしばしば、

「動機には恨みがあったようだ」とは報道しないで、

「動機には逆恨みがあったようだ」と報道するんですよ。

 

恨みと逆恨みは、両方とも、

相手を恨んでいるというのは共通しているんですね。

 

でも、恨みとちがって逆恨みのほうは、

その恨みに正当な理由は存在せず、

恨んでいるほうが勝手に恨んでいるだけのことであって

恨んでいるほうが一方的に悪い、

というニュアンスを含んだ言葉なんですよ。

 

自分は、報道機関というのは

淡々と事実だけを正確に伝えてくれればいい、

と思っています。

 

この事例でいうと、

恨んでいるようだ、というのが事実ならば、

それだけを伝えてくれたらいいんですね。

 

ところが、逆恨みという言葉を使用することで、

そこに報道機関の「解釈」が入り込んでくるんですよね。

 

つまり、

恨んでいる=推定される事実

その恨みは正当なものではない=報道機関の勝手な解釈

というわけです。

 

恨んでいるのが事実だとしたら、

それだけを伝えてくれたらいいんですよ。

 

その恨みがたしかに納得のいくものだと感じるのか、

それとも、

その恨みは自分勝手なものであって正当なものではない、

と感じるのかは、

読者の自由な判断に本来、

委ねられるべきものだと思うんですね。

 

ところが、逆恨みという表現を用いることによって、

その恨みが正当ではない、という解釈を、

報道機関は読み手に押し付けてくるわけです。

 

これがなぜ問題なのかというと、

この逆恨みという表現をもちいるのかどうかは、

報道機関の恣意的な判断で決定されるからです。

 

つまり、

報道機関がAさんという犯人を一方的に悪者にしたい場合は、

逆恨みという表現をもちいて

Aさんの恨みには理由なんてないんだ、とすればよく、

反対に、報道機関がBさんを擁護したい場合には、

逆恨みという表現などは使用しないようにして、

Bさんはたしかに恨んでいたけれど

その恨みは理由のあるものだった、というふうに

報道すればいいわけなんですね。

 

つまり、この逆恨みという表現は、

報道機関がある犯人を一方的に断罪したい場合に、

恣意的に報道機関の解釈を付加する

働きをもった言葉なんです。

 

 

「〇〇する納得の理由」

 

これは、ネットニュースなどのタイトルに

最近使われることが多くなった表現です。

 

この夏このアイテムがバカ売れする納得の理由、

なんていうタイトルですね。

 

とにかく、〇〇の理由、というふうに、

理由、で終わるタイトルが増えてきました。

 

こういうのを見て、いつも思うんですが、

この夏このアイテムがバカ売れする納得の理由、

なんていうけれど、

その理由よりもまず先に、

そのアイテムがこの夏バカ売れするというのは

そもそも、本当に真実なの?

と、自分なんかは思っちゃうんですよ(;´∀`)

 

それがそもそも事実でないなら、

理由もへったくれもないですよね。

 

でも、この〇〇する納得の理由、という表現は、

〇〇する、という部分に疑問を抱くことを

許さないんですよ。

 

〇〇するんですよ!それは当然のことなんです!

だから先に進みますね!で、その理由は~

という感じなんですね。

 

読者がすこし置いてけぼりになるんですよ。

 

似たような表現には、

「〇〇じゃないですか?」

があります。

 

最近、会話で使われることが増えてきました。

 

これ、疑問文ではないんですね。

 

イントネーションも、〇〇じゃないですか?⤴

ではなく、〇〇じゃないですか?⤵

なんですよ。

 

疑問に思って相手の意見を聞いているわけではないんですね。

 

自分は〇〇と思っているんだよ、

そこに疑問をはさむなよ、

〇〇だよね、うん、そういうことにしとこう、

で、それを前提にして

そっから先にこっちは話を進めたいんだよ、

という感じの表現なんですよ。

 

つまり、

相手不在のもとで擬似的に強制同意を獲得する装置、

それが、〇〇じゃないですか?

という表現だと思うんです。

 

それと似たような置いてけぼり感が、

〇〇する納得の理由、という表現にも

感じられるような気がするんですよね。

 

 

今回は、そんな感じのお話でした。

 

 

以上、天機でした( ´ ▽ ` )ノ