この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

女性はなぜ、共感をもとめるのか。

こんにちわ。天機です。

(約3600字)

 

 

 

きょうは、男女のコミュニケーションのありかたの違いについて、

考えてみたいと思います。

 

 

 

さて、世の中ではときどき、

男女のコミュニケーションのありかたについて、

 

 

 

女性は共感をもとめる

 

 

 

のに対して、

 

 

 

男性は解決策を提示しようとする

 

 

 

といったことが、言われることがあります。

 

 

 

もし、これが事実なのだとしたら、

その原因はいったい、どんなところにあるのでしょうか。

 

 

 

これについては、

男性は「思考」が発達しているのに対して、

女性は「感情」が発達しているからだ、

といった説明がされることも、よくあると思うのです。

 

 

 

ですが天機は、もっと深く考えてみようと思いました。

それは、以下のようになります。

 

 

 

天機は、このことの背景には、

 

 

 

苦というものをどのようにとらえているのか

 

 

 

について、

男女間で違いがある、ということがあるのではないだろうか…と、

思ったのです。

 

 

 

具体的にみてみましょう。

 

 

 

天機の考え方では、

 

 

 

男性は、「苦を消し去ることは可能だ」と考えている

 

 

 

のに対して、

 

 

 

女性は、「苦を消し去ることはできない」と考えている

 

 

 

のではなかろうか、と思うのですね。

 

 

 

いまここに、なにか問題があったとします。

 

 

 

問題が、解決されないままでそのまま残っているのは、

嫌なことですから、

それはひとつの「苦」である、といっていいかもしれません。

 

 

 

もし、この「苦」を目の前にしたときに、

「苦というものは消し去ることができるんだ」

という考え方を持っていたら、どうでしょう。

 

 

 

それはもちろん、そんな「苦」は、

早々に消し去ってしまったほうがいいに決まっています。

それで、嫌なこととおさらばできるのですから。

 

そして、そのためには、「解決策」を考えていく、ということになりそうです。

 

 

 

これが、おそらくは、男性の基本思想なのです。

 

したがって男性は、

なんらかの「苦」を提示されると、それを「問題」ととらえて、

「解決策」を模索しようと、頭脳を稼働させ始めるのです。

 

それは、「苦というものは消し去ることができるのだ」

という、男性の持つ基本思想が背景にあるからです。

 

 

 

では、同様に、ここになにかひとつ、問題があったときに、

「苦というものは消し去ることはできない」

という考え方を持っていたら、どうでしょう。

 

 

 

これは、先の場合とは異なります。

 

今度は、苦というのは、嫌なものなのに、

それから逃れるすべは、原理的には「ない」ということになってしまいます。

 

ここでは、どんなに「解決策」のようなものが提示されたとしても、

そのひとにとっては、どれも空疎なものに聞こえるでしょう。

 

それよりは、

逃れようのない圧倒的な「苦」にさらされている自分にとっては、

せめて、その自分の苦しみへの「共感」があるほうが、

どんなにか力強く感じられるのではないでしょうか。

 

 

 

これが、おそらくは、女性の基本思想なのです。

 

したがって女性は、

なんらかの「苦」に直面すると、基本的には、

その苦を解決しようとしたり、解決策を求めたりするよりも、

自身への「共感」をもとめることになるのだと思います。

 

それは、

「苦というものを消し去ることは原理的には不可能だ」

という、女性の持つ基本思想が背景にあるからです。

 

 

 

ちまたで、男女が口論になっている場面では、

男性は、

「どうして解決策を考えようとしないんだ!?」といきどおり、

女性は、

「ただ共感がほしいだけなのに…なんでわかってくれないの?」

といったふうにいきどおる…

といったようなことがある、と聞いたことがあります。

 

天機は、そんな場面に出くわしたことが、これまでの人生でありませんので、

よく知りませんが。

 

 

 

こういった場面でも、

男性がなんで、解決策にこだわるのかといえば、それは、

 

問題というものは解決ができるのだ

 

と、ある意味「無邪気に」信じているからかもしれず、

 

女性がなんで、共感にこだわるのかといえば、それは、

 

この世界には、解決できない苦しみもあるんじゃない?

 

という、男性へのひそやかな反問がかげにかくれているから、

かもしれません。

 

 

 

ところで、そもそも、

 

苦って、なくすことはできるんですかね?

 

 

 

これが、根源にある、かなり大きな問いであるような気がするのです。

 

 

 

天機は、この広い自然世界と、人間の体のかたちとかを、

関連付けて考えるクセがあって、

それは、このブログのほかの記事とかでも書いているのですが、

この世界は、

 

 

 

矛盾→理→生

 

 

 

という順番で生成してきた、と、勝手に考えています。

 

 

 

具体的な存在や現象でいうと、

 

矛盾(夜の闇の黒)→理(昼の光の白)→生(夕焼け空の赤)

 

であり、また、

 

矛盾(髪の毛)→理(頭脳)→生(胴体、生殖器

 

でもある、と思っているのです。

 

 

 

で、この原理の関係のなかに、

 

 

というのを入れてみると、じつは、

 

 

 

矛盾(苦しみ)→理(それを解決しようとする理性)

→生(その結果得られる快楽)

 

 

 

なんじゃないか?

とも、思ったんですよね。

 

 

 

ここでもう一度、問いにもどります。

 

苦って、なくすことはできるんですかね?

 

 

 

上の原理の関係でいえば、たとえば、

 

矛盾=苦しみ=髪の毛

 

なわけです。

 

 

 

女性って、どういうわけか、髪の毛を長くのばしますよね。

男性は、そうはしない。バッサリといっちゃう。

 

 

 

これなんかも、

女性というのは、苦(髪の毛)というものを、

まるで愛おしむかのようなところがあるように、自分なんかには思えるのです。

 

 

 

いや、そんなことはないよ、って、女性からの反発の声もあるとは思います。

 

でも、少なくとも男性は、苦というものを、

ただ嫌なものでしかない、と見る傾向が強いな、という気はします。

 

 

 

もうひとつ、上の原理の関係でいえば、たとえば、

 

矛盾=苦しみ=夜の闇の黒

 

でもあるわけです。

 

 

 

暗闇で、たとえばマッチなんかをすって、光をともすでしょう。

 

すると、そこにあった暗闇(苦)は、消えます。

 

言ってみれば、光(理性)によって闇は殺された、とも、言えるかもしれません。

 

 

 

そうすると、たしかに、

光(理性)によって闇(苦)を消すことができた、と見えるかもしれません。

 

 

 

しかし、光には、寿命があります。

 

マッチの火であれば、マッチが燃え尽きれば、やがては、

もとの闇が戻ります。

 

 

 

この広い広い宇宙は、そのほとんどが暗闇でおおわれています。

 

太陽のように、みずから燃えて輝く恒星はたくさんあって、

その恒星の周辺では、暗闇が消されているわけですが、

それら恒星にも、寿命があるわけなので、

恒星が燃え尽きれば、やがては、ふたたび闇におおわれることになるでしょう。

 

 

 

男性というものは、ある意味、無邪気なところがあって、

その無邪気さが、いろんな成功や発展につながることもあったし、

その無邪気さが、逆に、悲しみや苦しみを生むこともあったと思うのです。

 

 

 

基本的には、男性は、苦しみを嫌がります。そして、快楽を好みます。

苦しみがあれば、それを消し去ろうとして、

頭脳をフル稼働させてくるのが、男性です。

 

苦しみとともにいよう、とか、苦しみを抱きしめよう、とかは、

たぶん、ほとんどの男性は、考えないと思います。

男性にとっては、「苦」は「嫌なもの」でしかないからです。

 

 

 

その男性の、苦しみを避けたいという気持ちと、

そのために働かせた頭脳のおかげで、

たとえばこの地球上には、さまざまな学問がうまれ、科学が発達し、

文明の利器がたくさん誕生しました。

 

そのために、たとえば、

夏の暑さに苦しむという「苦」も、

過重な労働をしなければいけないという「苦」も、

みな、「消し去る」ことができたのです。

 

 

 

そのなかには、たとえば、

炊飯器や電気洗濯機、エアコンや冷蔵庫や電気掃除機なんていうものも

あったりして、

それらは、これまで家事労働を主にになうことも多かった女性の負担を

一定程度減らしているかもしれず、

男性は「えっへん。どうだい?」と胸を張るわけです。

 

 

 

しかし、そんなにも文明と文明の利器が発達したのにもかかわらず、

もう何千年、何万年の昔から、

たとえば、

お産の時に、女性だけが苦しまなければいけない、

といった現実は、なんら変わっていないのです。

 

 

 

女性だけが苦しまなければいけない、などという理は、

もちろん、あるはずもないのですが、

この、人間の歴史においては、事実として、

「女性」と「苦しみ」は、近い位置に存在し続けてきたのです。

 

 

 

つまり、

「苦しみ」というのは、

女性にとっては、「肌感覚で感じることのできる現実の1つ」

なのだ、というところが、男性と違うところであって、

それゆえ、

なにか問題があったときに、

解決策を提示してくる男性の、その背景に、

 

苦しみというものは消し去ることができる

 

という、男性特有の無邪気な基本思想の存在を、

女性の敏感な「嗅覚」は感じ取っていて、

それが女性の中に、いやいや、

 

消せない苦しみもあると思うよ?

 

といったような、ある種の反発をも生じさせているんじゃないかな。

 

 

 

そんなふうなことを、天機は考えていました。

 

 

食事中のトイレについて、思うこと。

こんにちわ。天機です。

(約2200字)

 

 

 

きょうは、食事中のトイレについて、思うことを書いてみようと思います。

 

 

 

食事中にトイレに立つことについては、いろいろな意見があるようです。

 

 

 

「食事中にトイレに立つなんて、マナー違反だ。

 きちんと食事前にトイレをすませておくべきだ。」

 

という意見があるいっぽうで、

 

「食事中にトイレに行きたくなったときに、

 我慢を強いるというのは、一種の虐待にもなるんじゃないか?」

 

といった意見があったりします。

 

 

 

天機は、この問題について、自分の意見をのべてみたいと思います。

 

天機の意見が正しい、というわけではなくて、

世の中にいろんな意見がある、そんななかの1つの意見として、

天機はこんなふうに考えているのだな、

と思っていただければ、さいわいです。

 

 

 

さて、天機はいろんな問題について考える際の、

その思考枠組みの1つに、

 

「物事には、この世界には、通常と異常がある。

 通常だけがこの世界のすべてをおおいつくしているわけではなくて、

 通常と異常、その2つが合わさって、はじめてこの世界はできている。」

 

というような思考枠組みを持っています。

 

 

 

今回の、食事中のトイレの問題も、

この思考枠組みをもとにして、考えてみましょう。

 

 

 

まず、「通常」は、

食事中にトイレに立つというのは、マナー違反であって、

避けるべきことだと思うのです。

 

 

 

1人で食事をしているときなら、さほど問題ではないかもしれないですが、

ほかのひとが同席しているときなどは、やはり、

だれかが食事中にトイレに立つというのは、

気分のよいものではありません。

 

 

 

お里が知れる、という言葉もありますが、

いい大人になって、食事の最中にトイレに立つようなことが度重なると、

「このひとは、小さい時に、そういったマナーをしつけてもらえなかった

 のかな?」

と思われる可能性も、なきにしもあらずでしょう。

 

 

 

そして「通常」は、

食事中にトイレに立つことを防ぐことは、

さほどむずかしいことでもないようにも思うのです。

 

自分がそういった傾向がある、というふうにわかっているのなら、

注意して、

なるべくトイレは食事前にすませておくように、

習慣づけることもできるはずだからです。

 

 

 

以上が、「通常」です。

 

 

 

ただ、この世界には、「通常」だけではなく、

「通常」の外側に、「異常」が存在する、と天機は思うのです。

 

 

 

では、食事中のトイレの問題に関しての、

「異常」とは、いったい、なんなのでしょうか?

 

 

 

天機が思うに、その「異常」というのは、

 

「食事前にあらかじめトイレに行っておく、などの予防策を講じて

 おいたのにもかかわらず、

 その点における不注意はなかったにもかかわらず、

 急な、突発的な腹痛などによって、どうしてもトイレに立つ必要に

 迫られた場合」

 

のような場合だと思うのです。

 

 

 

これが、「通常」に対する、「異常」の場合です。

 

 

 

そして、通常には通常を管轄する論理があって、

通常の場合は、その通常を管轄する論理に従えばいいのですが、

他方で、

異常には異常を管轄する論理があって、

異常の場合は、通常を管轄する論理で対応すべきではなく、

異常を管轄する論理で対応しなければいけない、

というのが、天機の考え方です。

 

 

 

あらかじめ、食事前にトイレを済ませておく、

などの予防策をとったのに、

それでも、急な突発的な腹痛で、どうしてもトイレに行く必要に

迫られた、というのは、「異常」の論理が適用されるべき場面です。

 

 

 

ここでもかりに、

「通常」の論理を適用したとなると、

 

「どんなに急で突発的な腹痛が起こったとしても、

 食事中にトイレに立つのは、

 いついかなるときでも絶対的にマナー違反だから、

 どんなに苦しくても、絶対に食事中にトイレに立ってはダメだよ?」

 

ということになりかねません。

 

 

 

ですが、天機は、これはおかしなことだと思うのです。

 

 

 

そもそも、マナーや礼儀といったものは、

人と人とが、健やかに幸福に社会生活をおくっていくために、

人間社会において醸成されてきたものであるはずです。

 

つまり、人間の幸福というものが優先すべきものであって、

その意味からすれば、マナーは、

人間の幸福との関係では、劣後するものなのです。

 

 

 

いま、急で突発的な腹痛によって、どうしてもトイレに行きたくて、

苦痛を感じている人に、

それでもマナーだからトイレに行くな、

というのは、

人間に不必要な苦痛を強いるものであって、

本来、人間の幸福には劣後するはずのマナーが、

人間の幸福に対する優位を主張する、おかしなことになっている、

といえそうです。

 

 

 

ですから、天機は思うのです。

 

 

 

食事中のトイレの問題に関しても、

「通常」と「異常」が存在するのです。

 

「通常」は、食事中にはトイレに立たないように、

食事前にトイレを済ませておくのがマナーであって、

それは、特段むずかしいことでもありません。

 

また、小用など、我慢するのがさしてむずかしくないような

便意に関しても、我慢するのがベターだといえそうです。

 

 

 

しかし、あらかじめ注意をしていた(つまり、本人に「帰責性」がない)

にもかかわらず、

急で突発的な腹痛などによって、どうしてもトイレに立ちたくなった

(つまり、トイレに立つ「必要性」が大きい)ときに、

それでもマナーを理由として、本人に無用の苦痛を強制するのは、

不適当だと思うのです。

 

このような「異常」の場合には、

マナーは劣後し、トイレに行かせてあげるのが穏当であろう、

と、天機は思います。

昔話と、意識と時間。

こんにちわ。天機です。

(約2800字)

 

 

 

今回は、昔話を題材にもしつつ、人間の意識と、時間の関係について、

考えてみたいと思います。

 

 

 

まず、ここでちょっと、皆さんの日常的なことを思い出してほしいのですが、

たとえば、

おんなじ8時間と言っても、

朝出勤してから夕方退勤するまでの8時間と、

夜就寝してから朝起床するまでの8時間とでは、

あー、8時間たった、というときの、その時間経過の感覚が、

すこし違うような感じがしませんか?

 

 

 

自分なんかは、

朝から夕方までの8時間の場合には、

それこそいろんなことがあって、いろんな人にも会って、

飯も食って、移動もして、それでようやく夕方になって、

ああ、やっと今日も一日お疲れさんだ、という感じで、

すごく、8時間が長く感じるんですよ。

 

 

 

それに対して、

夜布団に入ってから、ぐーぐー、ぐーぐー、寝て、

まあ、夢とかは見ることがあるかもしれませんが、

朝になって起きたとき、ああ、朝が来たなあ、また1日のはじまりだ、

というときって、

なんだか、布団に入ったのは、ついさっきのような感じがしませんか?

 

つまり、8時間がすごく短く感じるんですよ。

 

 

 

この、時間経過に対する感覚の違いは、

いったいどこからやってくるんだろう?と考えたときに、

そういえば、

朝から夕方までの8時間というのは、起きている、つまり、意識がある。

それに対して、

夜から朝までの8時間というのは、眠っている、つまり、意識がない。

ということに、思い至りました。

 

 

 

言葉を変えると、

起きている、というのは、顕在意識の状態であり、

眠っている、というのは、潜在意識あるいは無意識の状態なのですが、

この、意識状態の差異が、時間経過に対する感覚に違いをあたえている

のではないだろうか。

 

 

 

具体的に言うと、

無意識状態のもとでは、

時間があまりたっていないかのように感じてしまうような、

そんな現象がおこるのではないか。

 

 

 

そんなことを思ったのです。

 

 

 

無意識ということでいいますと、

ユングとか、フロイトとかいった精神分析学者は、

人間の意識、無意識について、深く研究したひとたちです。

 

なかでも、集合的無意識という概念を導入したユングによって

創始された心理学を、深層心理学というのですが、

この深層心理学を日本に導入した泰斗が、河合隼雄という先生で、

かつて、文化庁長官をつとめられました。

 

この河合先生は、その深層心理学の研究に役立つという観点から、

世界各地の神話や伝説のほかに、

日本のもふくめた民話や昔話といったものにも、

熱心に目を通されていたといいます。

 

 

 

自分も、たとえば、昔話のなかにも、

この世界のかくれた真理や秘密の「かけら」のようなものが、

隠れているのではないだろうか?と考える人間なのです。

 

 

 

では、今回の記事のテーマでもある、

人間の意識と時間の関係について、ヒントになるような昔話は、

あるのでしょうか。

 

 

 

自分が思いついた昔話は、以下の2つです。

 

 

 

① 浦島太郎

 

浦島太郎は、亀を助けたために、海の底にある竜宮城へといざなわれ、

乙姫たちと楽しい日々をおくって、やがてもとの漁村へ帰ってきたのですが、

あたりは、もう何十年もたったかのように様変わりしていました。

そこで浦島太郎が玉手箱をあけると、白い煙がふきだして、

自分も白髪のおじいさんになってしまった、というのが、あらましです。

 

 

 

なんで、この物語は、最後はバッドエンドで終わるんでしょうか。

竜宮城で楽しみ過ぎたことの、罰が、年寄りになってしまうということだった

のでしょうか。

 

 

 

自分は、じつは、この浦島太郎という物語のなかにかくれている、

この世界の真理や秘密に関するひとつの「かけら」が、

人間の意識と時間の関係に関するものだろうと思うのです。

 

 

 

じつは、「海」というのは、無意識ととてもつよい結びつきがあります。

 

西洋占星術では、海をあらわす海王星は、無意識を管轄する星ですし、

また、先に述べたユング深層心理学では、

人間の意識(顕在意識)というのは、無意識の大海に浮かんだ、

島のようなものだ、という説明がされています。

 

 

 

つまり、です。

 

浦島太郎のお話においては、じつは、

 

〇海の底の竜宮城にいるとき→無意識下にあるという状態

 

〇もとの漁村に帰ってきたら時間がすごくたっていた

→無意識下と意識下では、時間の進行速度が異なる

 

ということが、描かれていたのではないでしょうか?

 

 

 

② 養老の滝伝説

 

自分が、人間の意識と時間とのかかわりについて、

示唆をあたえてくれるだろう、と考えた、もうひとつの昔話が、

いわゆる、養老の滝伝説です。

 

 

 

これは、日本各地にさまざまなバージョンがあるのですが、

だいたいのあらましをいうと、

 

〇 おじいさんと息子が暮らしていて、あるとき、息子が山奥で、

  かぐわしい香りをはなっている滝の水を見つけて、家に持ち帰り、

  おじいさんに飲ませると、おじいさんが元気になって若返った、

  というもの。

 

〇 老夫婦が暮らしていて、あるとき、おじいさんが山奥で、

  かぐわしい香りをはなっている滝の水を見つけ、飲んでみたところ、

  若返ったかのように元気になった。

  その話を、家に帰ったおじいさんがおばあさんにしたところ、

  おばあさんも出かけて行った。

  ところが、おばあさんがなかなか帰ってこないので、

  おじいさんが様子を見に行ったところ、

  若返りの水を飲み過ぎたおばあさんは、なんと、赤ちゃんになっていた、

  というもの。

 

といったパターンがあります。

 

そして、だいたいにおいては、この話に出てくる若返りの水というのが、

じつは、ある種のお酒であった、とされているようです。

 

 

 

ここで、お酒というのは、アルコールであり、

飲めば気分がよくなるように、

人間の意識状態に影響する飲み物です。

 

通常は、お酒を飲めば、顕在意識は退行して、ぼんやりとした意識になります。

 

そして、人間の成長と老化に関して言えば、通常は、

赤ちゃん→子供→青年→壮年→老人

というのが、通常の時間経過のありかたのはずなのですが、

この、養老の滝伝説の昔話においては、

人間の意識をぼんやりさせるところの、若返りの水、つまりはお酒を飲むと、

若返る、つまり、時間経過の流れが反転する、とされているのです。

 

 

 

以上の2つの昔話から、

人間の意識と時間経過について考えてみて、

自分は、つぎのようなことを思いました。

 

 

 

つまり、

顕在意識のもとでの、通常の時間経過が、

たとえば、左から右へと流れる矢印のようなものであらわされるとしたら、

眠ったり、お酒をのんだりして、

意識状態が無意識や潜在意識にはいってくると、

逆に、右から左へ流れるような、

反転した時間経過があらわれてくるのではないだろうか。

 

通常は左から右への矢印なのに、そこに、右から左への矢印が追加されることで、

たとえば、

通常の時間経過が、すこしおそくなるような、

そんな現象もあらわれてくるんじゃないだろうか。

 

 

 

そんなことを考えていました。