この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

【紫微斗数】福徳宮化禄と福徳宮化忌。

こんばんわ。天機です。

(約 4800字)

 

 

 

きょうは、占いに関するお話です。

 

 

 

東洋占術において、本場の台湾や中国などでは、

四柱推命と並ぶくらいの人気があるのが、「紫微斗数(しびとすう)」です。

 

 

 

その紫微斗数では、

人の運命を占うために12個の部屋を用意するのですが、

そのなかに、福徳宮(ふくとくきゅう)というのがあります。

 

 

 

きょうは、その福徳宮のなかに、

四化星である化禄星と化忌星が入ったばあいに

どういう現象があらわれるのかについて、

独自の立場から考察記事を書いてみたいと思います。

 

 

 

では、まずその前に、

記事の前提となる知識を整理しておきましょう。

 

 

 

① 

人間には、運というものがあります。

一般的に言えば、嫌なことや辛いこと、苦しいことがあったときには、

運が「貯まって」います。

逆に、楽しいことや嬉しいこと、ハッピーなことがあったときには、

運を「消費して」います。

運が貯まれば貯まるほど、

だんだんと楽しいことが起こりやすくなってきます。

逆に、運を消費しすぎて運が足りなくなってくると、

だんだんと嫌なことが起こるようになってきます。

福徳宮は、運についてあらわすことがある宮位です。

言ってみれば、「運の貯蔵庫」のような役割をもつのが福徳宮だ、

と言ってもいいかもしれません。

 

 

 

四化星には、化禄、化権、化科、化忌の4種類がありますが、

そのなかでも、

ラッキースターの代表格が化禄で、

アンラッキースターの代表格が化忌です。

化禄があれば吉の事象をあらわし、化忌があれば凶の事象をあらわします。

一般的にはそれでいのですが、たぶん、それ以外に、

化禄は「膨張や拡大」、つまり、

大きくなっていくことや広がっていくこと、増えていくことをあらわし、

化忌は「収縮や縮小」、つまり、

小さくなっていくことや減っていくこと、少なくなっていくことを

あらわすように思えます。

西洋占星術には、

ドラゴンヘッドドラゴンテールというのがありますが、ちょうど、

ドラゴンヘッドが化禄に、ドラゴンテールが化忌に、

それぞれ対応しているような感じです。

そのために、

福徳宮に化禄が入っているということは、

運が増えていくということをあらわします。

逆に、福徳宮に化忌が入っているということは、

運が減っていくということをあらわすのです。

 

 

 

福徳宮は、後半生、つまり、

人生の後半がどうなるのか、ということをあらわします。

紫微斗数において、後半生をあらわす宮位といえば身宮が有名ですが、

台湾や中国などの紫微斗数の本場のネットや書籍では、

身宮以外にも、福徳宮や遷移宮が後半生をあらわす、

としているものがちらほらあります。

したがって、

福徳宮に吉星が入っているようなら後半生において恵まれることになり、

福徳宮に凶星が入っているようなら後半生において辛い目にあうことになる、

と、一般的には言えるかもしれません。

 

 

 

④ 

そしてもちろん、福徳宮本来の意味として、

精神的な充足度や、心のありようといった、

一般的によく知られている意味があります。

福徳宮に吉星がある人というのは、やさしく、

他人を思いやることのできるひとかもしれません。

逆に、福徳宮に凶星があるひとというのは、

どちらかといえば、自己中心的な側面をもつひとであるかもしれないのです。

 

 

 

では、これらの前提知識をもとにして、

福徳宮に化禄が入っている場合と、福徳宮に化忌が入っている場合に

ついて、考察していきましょう。

 

 

 

自分の生年月日時をもとにしてつくった命盤において、

福徳宮に化禄が入ると、どうなるのでしょうか。

 

 

 

まず、このひとは、

どちらかというとのんびりしていて、あくせくしたところがなく、

鷹揚で、心優しく、思いやりを持った人なのかもしれません。

 

心の優しさや思いやりといった面は、

精神的な充足度や心のありようをあらわす福徳宮に、

非常に大きなパワーのある吉星である化禄が入ったことに根拠があります。

 

また、このひとがのんびりしているのは、

もしかしたら、

自分に本当の運がめぐってくるのは人生の後半になってからだ、

ということを、本能で知っているからかもしれません。

 

 

 

紫微斗数においては、重要な宮というのがあります。

 

自分自身の根幹にかかわる命宮、財運をあらわす財帛宮、

どれくらい発展する傾向にあるのかをあらわす遷移宮、

結婚運のよしあしを示す夫妻宮、

仕事運はどうなのかを示す官禄宮、などです。

 

 

 

こういった、

「人生における具体的な成功や発展」にかかわる宮にくらべれば、

福徳宮は、そういった観点からすれば、

「重要ではない宮」である、ということも言えてしまうのです。

 

 

 

化禄というのは、とてもいい星ですから、

おそらくは、どこの宮に入っても、プラスの側面がクローズアップされる

ものでしょう。

 

 

 

それはたしかにそうなのですが、

福徳宮の場合は、すこし事情が違っていて、

手放しでは喜べない可能性がなきにしもあらず、なのです。

 

 

 

福徳宮に化禄が入ったということは、

上であげたような、命宮や財帛宮、遷移宮、夫妻宮、官禄宮といった

枢要な宮に化禄が入るチャンスをいわば「犠牲にして」、

福徳宮に化禄が「入ってしまった」ということなのです。

 

したがって、このひとは、とくにその前半生においては、

どちらかといえばうだつのあがらない、

ぱっとしない人生を歩んでしまう懸念もあります。

 

 

 

ところが本人は、それでしょげているのか、といえば、

全然そんなことはなくて、

自分のそんな窮境をどこか俯瞰して眺めていたり、

自分の「悲惨な状況を」笑い話にしてユーモアにかえていたり、

あるいは趣味に走っていたりして、

やはり、どこか鷹揚なのです。脳天気とでもいいましょうか。

 

 

 

このひとは、さきに述べましたように、

他者に対する優しい思いやりの気持ちを持っていて、

ときには自己犠牲的な奉仕的行動をとったりもします。

 

また、とくにその前半生において、

めだった金銭的、あるいは社会的な成功をしません。

 

 

 

そのために、このひとは、その前半生において、

「あまり運を使わない」のです。

 

いや、もっと言うならば、

このひとは人生の中ごろに至るまで、運を使うどころか、

どんどん、どんどんと、

運を貯めこむ人生をおくるのです。

 

このことは、

ドラゴンヘッドのように「拡大や膨張」をあらわす化禄が、

運の貯蔵庫をしめす福徳宮に入っていることと、軌を一にします。

 

運が増える、ということなのです。

 

 

 

そのために、このひとが人生の中盤にさしかかり、

人生の後半がスタートするころには、

かなり大量の運が貯めこまれているのです。

 

そして、このことこそが、

このひとが後半生において運がよくなるということの原因になっており、

この、後半生において運がよくなるということは、

後半生をあらわすことのある福徳宮に

代表的な吉星である化禄が入っていることと符合しています。

 

 

 

では逆に、

自分の生年月日時でだした命盤において、

福徳宮に化忌が入ったひとは、どのようになるのでしょうか。

 

 

 

このひとは、どちらかといえば、

「心根の汚い」ひとであるのかもしれません。

 

心根の汚い、という表現が語弊のあるものかもしれないので、

ほかの表現を借りるならば、

他人の窮境といったものに思いを寄せるというよりは、

自己が競争によって他人に打ち勝つことを重視する、というような、

ある意味で自己中心的な傾向性を持っている可能性があります。

 

 

 

このひとは、心の中で、

まるで渇した者が水を求めるように「具体的な成果」を求めます。

 

その成果を求めることを急ぐあまりに汲々とし、

心がどこかアクセクするのです。

簡単にいうならば、心から余裕が失われるのです。

 

そして、具体的な成果がたとえあがったとしても、

満足感を得られることが少なくて、

次々と、「もっと、もっと!」と求めてしまうことがありそうです。

 

 

 

自己中心的な傾向性を持っているということ、

悪い言い方をすれば「心が汚い」ということは、

精神的な充足度や心のありようといったものをあらわす福徳宮に、

代表的な凶星中の凶星である化忌が入ったことによって示されます。

 

また、

このひとが具体的な成果を非常に急ぐということは、

もしかしたら、

人生の後半になると運勢が暗転する可能性があるということを、

本能のどこかで知っているからかもしれません。

 

 

 

こうしてみてくると、

福徳宮に化忌がはいっているということは、

やはり、よくない事象としてあらわれてくるものなのだな、

と思われるひとも多いかもしれません。

 

 

 

ところが、必ずしもそうとばかりも言いきれないのです。

 

 

 

先に、紫微斗数の命盤においては、

命宮や財帛宮、遷移宮、夫妻宮、官禄宮といった、

「枢要な宮」がある、というお話をしました。

 

このひとの場合は、

福徳宮に化忌が入ったために、結果として、

それらの枢要な宮に化忌が入るということからまぬかれているのです。

 

 

 

男性、女性ともに、命宮や遷移宮に化忌が入ったり、

あるいは、男性の場合なら官禄宮や財帛宮に化忌が入ったり、

あるいは、女性の場合なら夫妻宮に化忌が入ったりすれば、

人生が大ダメージを受けてしまうということが、

決して少なくはないのです。

 

このひとは、福徳宮に化忌が入ったために、

そういった最悪の事態は回避することに成功しているわけです。

 

 

 

だけではありません。

 

化忌をいわば、福徳宮が「引き受けた」おかげで、

このひとは、

財産や社会的な成功といった面で、

おもにその前半生において、具体的な成果をあげる可能性が高くなります。

 

 

 

これは、そのひとの心性が、

どちらかといえば自己中心的で、競争的であることも、

その支えになっています。

 

世間的に、成功したり、有名になったり、

財を成したりするひとはいるものですが、

彼らがただ単に、

お人よしで、人の苦しみを感じやすい痛みやすい心の持ち主であったのならば、

そういう成功をはたして勝ち得たかどうかは、

疑わしいものであるかもしれないのです。

 

心の汚さというのは、

ある意味では成功に必要な1つの要素であって、

福徳宮化忌のひとは、その資格を持っている可能性があります。

 

 

 

ところが、時間の経過とともに、状況は変化していきます。

 

 

 

福徳宮化忌のひとは、その前半生において、

あまり他人のことを顧みる思いやりはなく、

どちらかといえば、奉仕的なこともしないで、

自己中心的な、競争的価値観のなかで生きていきます。

 

また、その前半生において、

たとえば、財をなしたり、出世したり、事業が成功したりと、

具体的な成果をあげてしまうのです。

 

 

 

これらの、「自己中心性」と「具体的な成功」というのが、

このひとの前半生においてあらわれる結果、

このひとは、前半生において、すごく運を消費するのです。

 

このひとは、前半生をつうじて、どんどんと運が少なくなっていきます。

 

もともと持っていた運が、

具体的な成功へとかたちを変えるからです。

 

 

 

この、前半生をつうじて運が少なくなっていくということは、

「収縮や縮小」をあらわすドラゴンテールのような化忌が、

運の貯蔵庫とでもいうべき福徳宮に在位していることと符合します。

 

運が減っていく、ということです。

 

 

 

このために、このひとは、

人生が中盤にさしかかり、これからいよいよ人生の後半がはじまるぞ、

というときに、

運が尽きかかってしまう懸念があります。

 

 

 

そして、これこそが、

このひとが後半生においては運勢が暗転する可能性があることを示しており、

そしてそのことは、

後半生をあらわすことのある福徳宮に代表的な凶星である化忌がはいっている

ということと、軌を一にしているのです。

 

 

 

では、

福徳宮化禄のひと、福徳宮化忌のひとは、

それぞれ、

どんなことに注意して、どんなふうに生きていったらいいのか。

 

 

 

また、

たとえば兄弟宮や夫妻宮といった個別の宮の宮干、

あるいは、特定の大限の大限宮の宮干からとばした化禄や化忌が、

福徳宮に入ってくる場合には、

どう考えたらいいのか。

 

 

 

こういったことについて、

続編記事で書いていこうと思います。

 

 

 

この記事の続編記事

 

reasongomainstream.hatenablog.com

 

reasongomainstream.hatenablog.com

ストーカーは、なぜ嫌われるのか。

こんにちわ。天機です。

(約3400字)

 

 

 

きょうは、ストーカーについて、

すこし思ったことを書いてみようと思います。

 

 

 

天機は、ストーカーをしたことも、されたこともありません。

恋愛に無縁である、ということが影響しているのかもしれませんが。

 

 

 

しかし、世の中では、

ときどき、ストーカーについての話を聞くことがあり、

ニュースになったりもしています。

 

 

 

たいていは、1人の相手に対して、

かなわぬ恋愛感情をつのらせたあげく、といった例が多いようで、

男性から女性へ、といったものが多いようですが、

女性から男性へ、といったものもあるようです。

 

 

 

そして、深刻な場合には、

殺人や傷害といった事件にも発展するようですね。

 

 

 

ストーカーに関する規制法がまだ存在しなかったときには、

こういったストーカーについては、

とくに法で規制するものとは、思われていませんでした。

 

 

 

そのため、

こういったストーカーの被害にあったひとは、

本当に困難な状況におかれたことと思います。

 

 

 

この社会では、

ストーカーをする人というのは、

嫌われ、非難されることが多いと思います。

 

 

 

それは、ストーカーに遭っている当事者から嫌われ、非難される

ばかりではなくて、

広く社会の多くの人からも、

嫌われ、非難される可能性が高いものだろうと思うのです。

 

 

 

なぜ、そうなのか、といえば、

それは1つには、

ストーカーという行為の持つ、

その行為態様の薄気味悪さからくるものだろうと思うのですね。

 

 

 

実際に、

自分が思いをよせる相手に対してつきまとったり、

といった、

実際の行為の持つ薄気味悪さばかりでなく、

相手から拒絶されているのにもかかわらず、

しつこく思い続けることをやめない、という、

その心性の持つ薄気味悪さも、ここでいう薄気味悪さの1つです。

 

 

 

しかしながら、

ストーカーの持つそういった行動原理には、

すこし、共感したり、同情したりできる部分がないわけではありません。

 

 

 

ひとから拒絶されるというのは、

誰にとっても、つらく悲しい現実の1つです。

 

 

 

容易にはあきらめきれないという気持ちは、

ストーカーにまでは至らない人の心の中にも、

おそらくは、多かれ少なかれ、存在するでしょう。

 

 

 

また、容姿や能力、収入といった、

そのひとのもつスペックの違いによって、

他人に容易に受け入れられるひともいれば、

なかなか他人には受け入れてはもらえないひともいる、というのも、

恋愛にともなう、

かならずしも「美しい」とはいえないかもしれない、

harshな現実の1つです。

 

 

 

けれども、

そういったことどもを考慮に入れても、なお、

ストーカーをするというのは、

その相手側にとって嫌なことになる、というだけではなくて、

そのストーカーをする本人にとっても、

報われることの少ない行動ではないだろうか、

とも思うのですね。

 

 

 

というのは、

そこには、この世界における、

2つの異なった原理がかかわっていると思うからです。

 

 

 

天機が思うに、この世界には、

 

他者からの好意や同意といったものが

非常に重要な意味をもつ原理

 

と、

 

同意がなくても頭脳などの力により

強制的に物事を実現できる原理

 

という、2つの原理があると思うのです。

 

 

 

この両原理は、

どちらの原理のほうが優れているとか、

どちらの原理のほうが劣っているとか、

そういったものでは、ないのです。

 

 

 

ただ、この世界には、そういった2つの原理があるだけであり、

みずからの原理が「管轄」する世界においては、

あたかも、その世界の「王様」であるかのように、

圧倒的なパワーをもって、

それぞれの原理が君臨しているのです。

 

 

 

このことを理解せずに、たとえば、

同意や好意が重要な意味を持つ世界で、

物事を強制的に実現することを目指したり、

逆に、

同意がなくても強制的に物事が実現されるような世界で、

ただ同意や好意といったものを重視したりするのでは、

無用の反発をくらって、

得られる収穫は少なくなるものだろうと、天機なんかは思うのですね。

 

 

 

具体的には、どういったものがあるでしょうか。

 

 

 

まず、同意や好意といったものが重要な意味を持つ世界としては、

 

恋愛や商売、芸能界

 

といったものがあるだろうと思います。

 

 

 

たとえば、恋愛の世界で、相手に、

自分のことを強制的に好きになれ、といっても、それは無理でしょう。

 

 

 

商売で、自分の商品を強制的に買わせるとか、

芸能界で、視聴者に自分を強制的に好きにならせるとか、

みな、無理な話なのです。

 

 

 

そういった世界では、相手から同意や好意を得る、

ということこそが大きなポイントになるのであって、

また、そういった同意や好意という、「他者からの支持」を

幅広く獲得すればするほど、

自分の人気やパワーといったものが、

大きくひろがっていくのです。

 

 

 

つまり、そこには、

 

面の広がり

 

といったものをイメージできるかもしれません。

 

 

 

一方、

物事を強制的に実現できる世界としては、

 

軍事や科学、学問や学科試験

 

といったものがあるだろうと思います。

 

 

 

戦争に勝利した国は、基本的には、戦争に敗れた国に対して、

自分ののぞむことを強制的に実現できます。

 

 

 

科学的な法則が発見されて、

それに基づいて機械や新薬が発明、発見されたならば、

それらは、

人間が賛成しようとしまいと、

その科学的な法則のみに基づいて作動、作用します。

 

 

 

試験勉強を頑張ったならば、

そのひとが、芸能オーディションなどでは簡単に落とされてしまうような、

まったく魅力的ではない外見の持ち主であったとしても、

点数さえよければ、機械的に合格するのです。

 

 

 

戦争に勝利するためには、

部分的、局地的な戦闘での勝利を積み重ねていく必要があり、

部分的、局地的な戦闘で勝利するには、

「局限された戦域において相手方よりも優勢な兵力」

を結集させる必要があります。

 

 

 

たとえるならそれは、

細い細い針の先が、先がとても細いために、

その針の先にかかる圧力が非常に大きなものとなって、

結果的に紙を破るようなものです。

 

 

 

科学でも、学科試験でも、これと似たようなところがあって、

科学的な発明や発見にいたるためには、

問題となっている状況に対象をしぼって、

繰り返し観察や実験、考察をかさねていく必要がありますし、

学科試験でいい成績をとろうと思うのならば、

自分の苦手としているところなどに、たとえば範囲をしぼって、

繰り返し練習問題などを解くなどして、

試験に合格できるだけの実力を涵養していく必要があるのです。

 

 

 

このように見てくると、

軍事や科学、学問や学科試験といった、

物事を強制的に実現することを目指す世界というのは、

 

一点を深く掘り下げる

 

ということと親和的だ、といえるかもしれません。

 

 

 

では、ここで、ストーカーのお話に戻ってみましょうか。

 

 

 

ストーカーをする人が目指しているのは、おそらくは本来は、

 

恋愛において自分が報われること

 

であったはずなのです。

 

 

 

ただ、その恋愛という世界をつかさどっている原理というのは、

 

同意や好意が重要な意味をもつという原理

 

であって、

 

面の広がり

 

と親和的な世界なのです。

 

 

 

ところが、ストーカーをするひとというのは、

そのような恋愛の原理と世界において、

たった1人の人に絶対にこだわり、そのひとを決してあきらめず、

自分の偏執的な行為によって、

相手を強制的に振り向かせることを目指すのです。

 

 

 

つまり、

同意や好意が重要な意味をもち、

面の広がりと親和的な

恋愛の世界で、

 

一点を深く掘り下げるという、

物事を強制的に実現させる、

軍事や科学といった世界をつかさどるような

原理でもって臨もうとする

 

わけです。

 

 

 

これが天機が、ストーカーという行動原理が、

おそらくは、そもそもが原理的に報われないだろうなあ、

と考える理由です。

 

 

 

そしてこの世界には、ストーカーとは対照的なひとがいます。

 

 

 

数うちゃあたる、で、

何人もの女性につぎつぎと交際を申し込むものの、見事に撃沈をすることを重ねて、

それでも、

「また振られちゃったよ┐(´~`;)┌」

と、あっけらかんとしているひとです。

 

 

 

こちらのタイプの男性は、

比較的、社会から笑顔をもって迎えられることが多いのです。

 

 

 

それはなぜかといえば、

1つには、その行動や心性が「陽性」である、

ということももちろんあるでしょうが、おそらくは、

その「数うちゃあたる」式で、

振られた相手にこだわることなく、つぎつぎとチャレンジして

広げていくということが、

 

面の広がり

 

と親和的な、恋愛の原理に合致しているからだろうと、

天機などは思います。

咳という漢字の字源と、亥と、垓下と、四面楚歌。

こんにちわ。天機です。

 

 

 

今日はひさしぶりに、漢字についての分析記事を書いてみようと思います。

(約8200字)

 

 

 

今回分析するのは、

 

 

という漢字です。

 

 

 

咳という漢字は、口に亥と書いてできます。

 

なぜ、口に亥と書くと、咳になるのでしょうか。

 

咳という漢字に亥がふくまれているのは、なぜなんでしょうか?

 

 

 

まずはネットで、咳という漢字の字源について、

一般的な説を調べてみましょう。

 

 

 

ウィクショナリーという漢字についてのサイトでは、

こう書いてあります。

 

つまり、

亥という漢字の部分は、豚の骨組みをあらわしており、

豚が病んで痩せて、咳を出している様子をあらわしているのだ、と。

 

 

 

また、知恵袋など、そのほかのサイトでは、

つぎのような分析をしているひともいました。

 

つまり、亥という部分は音(おん)を借りてきた部分で、

つまりは、咳をした時のゴホン!という音をあらわしているのが

亥という漢字なのだと。

 

 

 

天機は例によって、

一般的な漢字学説をことごとく無視して、独自説をたててみたいと思います。

 

 

 

天機が注目したのは、

咳という漢字のなかに含まれている亥という文字は、

十二支の1つだということです。

 

 

 

十二支を順にならべてみると、

 

子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥、

 

で、十二支の12番目に来るのが、亥なんですね。

 

 

 

ここから天機は、次のようなへんなことを考えました。

 

 

 

つまり、

 

咳という漢字の中に亥がふくまれているのは、

咳という生理現象と、

亥があらわす十二支の第12原理とのあいだに、

なんらかの関連があるからなのではないか?

 

なんてことを考えたのですね。

 

 

 

では、この自分の考えを説明していくために、

まずは、咳という生理現象について考えてみましょう。

 

 

 

咳って、どういうときにでるでしょうか。

 

 

 

思いつくのは、風邪をひいたり、なんらかの肺の病気にかかったりしたときには、

咳がでるでしょう。

 

また、食べ物や飲み物がむせたりしたときにも、

ゴホゴホと、咳が出てしまうものだと思います。

 

 

 

これらのことの背景に共通してあるのは、おそらく、

 

異物が肺に入ろうとしたときに、それを防ぐため咳が出る

 

ということだろうと思うのですね。

 

 

 

でも、このことを、もっと深く考えてみたいと、

天機は思うんです。

 

 

 

この、咳によって、肺に入ろうとすることを防ぐところの、

 

異物の大きさ

 

って、どれくらいのものだと、みなさんは思いますか?

 

 

 

ジャガイモくらい?

サイコロステーキくらい?

お刺身くらい?

わらびもちくらい?

お豆さんくらい?

ラムネくらい?

ごまくらい?

砂糖の粒くらい?

 

 

 

すこし、言葉をかえてみましょうか。

 

 

 

咳というのは、わらびもちくらいの異物が肺に入ろうとしただけでは出なくて、

異物がサイコロステーキくらいの大きさになって、はじめて出る、

そういったものなのですかね?

 

 

 

あるいは、咳というのは、

異物が砂糖の粒くらいの大きさの時にはまだ出なくて、

お豆さんくらいの大きさの異物が肺に入ろうとした段になって

はじめて出る、

そういったものなのですかね?

 

 

 

…いずれもたぶん、違いますよね。

 

 

 

咳というのは、その異物がかなり微細なものであっても、

たとえば、ほんのわずかな食べ物のかすとか、ツバのかすかな一部とか、

蒸気みたいな水滴の一部であっても、

 

おおよそ空気でないものが、

本来、空気のみが通過することを許可されているところの

肺や気管に侵入しようとしたときには、

それがかなり微細なレベルにあって、

十分な大きさをそなえてはいなかったとしても、

咳でもってその侵入をはばむ

 

ものだろうと思うんですよね。

 

 

 

肺や気管というのは、おもに空気の通り道です。

 

その肺や気管に侵入しようとして、咳でもってその侵入をはばまれるのは、

おもに、たとえば水滴であったり、食べ物のカスであったりです。

 

 

 

ここで、

 

空気=実体のないもの

水滴や食べ物のカスなど=実体のあるもの

 

と、ものすごくザックリと2つにわけて対比してみると、

咳というのは、

 

実体のないものが存在すべき「場」が、

実体のあるものによって占有されようとしたときに、

逆方向へと爆発的にそれを押し返す

 

という性質をもつものであることがわかります。

 

 

 

そして咳というのは、先にみたように、

その異物がかなり微細なものであっても発生するのです。

 

というよりはむしろ、異物が微細な段階であるときに処理するからこそ、

咳というのは異物排除の用をなすのであって、

異物がある程度大きくなるまで咳が発生しないようなら、

異物排除の役には立たないような気もするんですよね。

 

 

 

ここで、この咳によって排除される異物が、

微細なものであっても排除されるというところから、

「微細」ということについて考えてみましょう。

 

 

 

数の世界において、数をどんどん、どんどん、小さくしていくと、

いずれは、0(ゼロ)になります。

 

そして、数の理論と数学においては、

限りなく、限りなく小さな「数」である

0.00000000000000…1のようなものは、

これを0(ゼロ)と同視します。

 

0.00000000000000…1を0と同視するということは、

数の理論と数学が成立するうえでの根幹、大前提になっているのです。

 

 

 

ただ、数の理論や数学の世界では、

そのように、0.000000000000…1を0と同視するのですが、

天機の考え方、および天機理論では、

そのようには考えません。

 

 

 

天機は、

なにかがどんどん、どんどん、小さくなって小さくなって、

限りなく小さくなっていくときには、

それが完全なゼロ、つまり、「無」になってしまう、

ちょうどその直前の段階に、

「無」とすごくよく似ているけれど「無」とはかすかに違い、

なにかがあるという状態がある、と考えていて、

その「無」の超直前の段階を「寸」と呼んで区別しています。

 

「闘」という漢字は、「門」のなかに「豆」と「寸」がはいってますよね?

「寸」はその「寸」です。

 

 

 

つまり、天機理論においては、

「寸」というのは、ひとつのごくごく微細な最小単位なのです。

 

 

 

この、天機理論において、

「無」という段階の超直前に「寸」という、微細な最小単位があるということ。

 

咳というのは、排除しようとする異物が微細なものであっても、

それを排除しようとする、ということ。

 

咳は、空気という、いわば「実体のないもの」が本来占めるべき「場」を、

水滴や食べ物のカスといった、いわば「実体のある」ものが占めようとしたときに、

それを逆方向へと爆発的に押し返す現象である、ということ。

 

そして、その咳という漢字のなかに、亥という文字が含まれているのは、

咳という生理現象と、十二支の第12原理である「亥」に、

なんらかの関連があるのではないか、ということ。

 

 

 

これらのことを総合して、自分は以下のように考えました。

 

 

 

十二支の第12番目の亥のあらわす原理というのは、

「寸」であらわされるような最小単位領域が、

実体のないなにかではなく、

実体のあるなにかによって占められようとした

まさにその瞬間に、

爆発的に逆方向へと押し返すことによって、

その、実体のあるなにかを排除しようとする原理、

その原理こそが十二支の第12原理である「亥」であって、

人間の咳の発生機序は、

この十二支の第12原理が、

人体における生理現象として具体化したものであるので、

咳という漢字には亥がふくまれる。

 

 

 

とまあ、こんなふうな非常に理屈っぽいことを考えたんですよね(๑◔‿◔๑)

 

 

 

なんで、十二支の第12番目の「亥」の原理というのは、

こんなふうになっているのか。

 

それを考えるには、十二支というものがそもそも、

どうしてできてきたのか、ということについて考える必要があります。

 

 

 

天機の考えでは、十二支というのは、

この世界がどのようにしてできてきたのか、また、

どのように変化していくのか、という、

生成、変化、流転の順序をあらわすものだと思っているんですね。

 

そして、十二支の第12番目である「亥」というのも、

この、世界生成の1つの段階をあらわしているのです。

 

 

 

天機は、こんなふうに想像してみました。

 

この世界のはじまりに、無だろうか、なんだろうか、

何かがありました。

 

それが、世界のはじまりとともに、

それがもともといた中心となるところから、周囲へとむかって、

ぱーーーっと、広がっていくんですね。

 

そして、それが限界まで広がっていったところで、

今度はそれが、もとの中心へ向かって帰ってきます。

 

 

 

どうたとえればいいですかね。

 

たとえば、ミカンの皮をむくときに似ているかもしれません。

 

ミカンをひっくりかえして、底の部分に指をつっこんで、

ミカンの皮をむきはじめますよね。

 

それが、世界のはじまりで、中心から周囲へ向かってわーーっと

向かっていくスタートのところです。

 

で、ミカンの皮を途中で切れたりせずにうまくむけたら、

底とは反対側のぽちっとしたところまでむけますよね?

 

その、ぽちっとしたところにたどりつくのが、

わーっと広がっていったものがもともとの中心へ帰ってきた、

というところです。

 

 

 

ミカンだったら、

スタート地点は底のところで、帰ってくるところはぽちっとしたところなので、

スタート地点≠ゴール地点ですね。

 

なので、たとえとしては、うまくなかったかもしれません。

 

 

 

むむむ。

 

 

 

天機が、十二支の第12原理である「亥」の原理を、

いちばんわかりやすく説明できると思うのは、

新世紀エヴァンゲリオン」というテレビアニメでの一場面かもしれません。

 

 

 

地上波テレビ放送で「新世紀エヴァンゲリオン」のテレビ本放送がはじまったのは、

たしか1995年のことで、

天機はまだ高校生でした。

 

テレビ版新世紀エヴァンゲリオンは、たぶん、全部で26話くらいあったと思う

のですが、そのなかに、

使徒、侵入」というのがあります。

 

 

 

マイクロサイズの使徒である第11使徒の「イロウル」が、

ネルフ本部のコンピュータ指令システムであるMAGIシステムに侵入するのです。

 

MAGIシステムは、

メルキオール、バルタザール、カスパーという3つの部分からなるのですが、

その第11使徒イロウル」によって、

メルキオール、バルタザールはすべて侵食されてしまい、

最後に残ったカスパーも、

そのなかの最小単位を残すだけになって、残りはすべて

イロウル」に制圧されてしまいます。

 

そして「イロウル」が、

MAGIシステムを完全に制圧しようとして、

最後に残ったカスパーの最小単位をやっつけようと攻撃すると、

そこの最小単位は、まるで戦っているかのように少し点滅した後、

なんと、

制圧しようとしていた攻撃側の使徒イロウル」が、

さーーーっと、MAGIシステムから一掃されてしまうのですね。

 

これはリツコ博士が逆ハッキングプログラムを送り込んだからなのですが、

あんまり、文字で説明してみても、

よくわかんないかもしれません。

 

どっかに転がってる動画を探してみてもらえれば、よくわかると思います。

 

 

 

これがたぶん、

十二支の第12原理である「亥」の原理を、

とてもよくあらわしている映像になるかと思うんです。

 

 

 

でも、いまここに、その映像はないので、

あくまで自分の言葉で説明すると。

 

 

 

世界のはじまりに、無かなにかがあって、

それが中心からぱーーーっと周囲へむかって広がっていく。

 

それが限界まで広がっていったら、今度は、もとの中心へ向かって

それが帰ってくる。

 

 

 

その、ぱーっと広がっていって、またもとへと帰ってくる「そいつ」

が動いた移動範囲には、

「色がぬられる」とかりに想像してください。

 

もとの中心からそいつが周囲へ向かってぱーっと広がっていくとき、

「色が塗られた」範囲、領域も、どんどん、大きくなっていきます。

 

そいつが限界まで遠く離れて、また、もとの中心へと向かって折り返すとき、

おおよそ、「世界」の半分くらいに色がぬられた状態でしょうか。

 

そいつが、もとの中心へむかってさーーと戻ってきて、

もとの中心へ近づけば近づくほど、

色をぬられた領域はどんどんと広がっていき、

色がまだぬられていない領域というのは、どんどんと小さくなっていきます。

 

 

 

その、色をぬられていない領域がどんどん、どんどん小さくなって、

ついに、「寸」くらいの大きさになって、

「そいつ」が、とうとうその最後に残った最小単位をも自分の「色」

でぬりつくそうとした、まさにその瞬間に、

その最小単位領域から爆発的に「逆進」が発生するのです。

 

 

 

最小単位をつぶそうとした瞬間に反撃を喰らう

 

ひと言で言うと、これが、

十二支の第12原理である「亥」のあらわす原理なのです。

 

 

 

天機が非常に理屈っぽい人間なので、

ながながと理屈っぽいお話に付き合わせてしまい、申し訳ありません。

 

ですが、このお話には、

あとすこし、続きがあるのですლ(╹◡╹ლ✿)

 

 

 

ところで皆さんは、

司馬遼太郎という小説家の書いた、「項羽と劉邦」という作品を

ご存知でしょうか?

 

 

 

いまから2200年ほど前、紀元前200年ごろの古代中国には、

国史上初めて全土にわたって、

中央集権制の官僚国家をうちたてた「秦」王朝というのがありました。

 

その秦が暴政をしいたため、

秦の始皇帝の死後、各地で燎原の火のように反乱がひろがり、

その反乱の中から、

項羽と劉邦という、2大英雄が現われて、覇を競うことになるのです。

 

 

 

先にあげた「項羽と劉邦」という司馬遼太郎の作品は、

この史実に取材したものですが、

もしかしたら、この作品のことは知らなくても、

項羽と劉邦のことは知っている方も、いらっしゃるかもしれませんね。

 

 

 

勇猛無比で向かうところ敵なしだった項羽に対して、

当初、劉邦軍は弱かったのです。

 

ですが、劉邦のもとには、きら星のように才能のある将領があつまり、

多士済済でした。

 

 

 

劉邦は、そんな有能の士のアドバイスをよく容れ、

智恵を使うことで項羽と戦い、だんだんと互角にもっていきます。

 

そしてついには、

広武山というところで1年にわたって両軍が対峙できるほどのところまで

もっていき、

項羽軍がやや衰微したところで、両軍は和約を結びます。

 

 

 

ところが、この和約を、劉邦軍が破って、

退却していく項羽軍の後背を襲うのです。

 

 

 

項羽は怒って野戦で劉邦軍を破り、劉邦は奔って固陵城に逃げ込みます。

 

固陵城はなんということもない平凡な城だったのですが、

項羽軍は補給の難もあってこのころには衰微しており、

攻城戦をやっている余裕がなく、

やがて項羽は、固陵城の囲みを解いて、撤退をはじめます。

 

 

 

このときになって、

劉邦の同盟軍であった韓信の軍30万や、彭越の軍、

周殷の軍などが、

劉邦の説得によって、項羽を討つべく、劉邦軍のもとに参集をはじめます。

 

弱者としての劉邦の戦略的な布石が、ようやく生き始めたのです。

 

 

 

項羽は本来なら、故郷の楚へ帰還して再起を図るべきだったのですが、

ここで項羽は、おかしな行動をとります。

 

「このあたりによい地形はないか?」と、

近侍の者に探索させて、発見した場所で項羽は、

なんと、野戦築城をはじめたのです。

 

その場所というのが、

 

垓下(がいか)

 

というところなのです。

 

 

 

天機という人間が、いったい、なんの話をしようとしているか、

想像はつきますか?

 

まあ、聞いてください。

 

 

 

垓下の地で野戦築城をした項羽は、

そこに急造した城に自分の軍を入れ、そこで籠城戦にはいります。

 

このころには、

劉邦の軍(漢軍といいます)のもとには、

韓信の軍や、彭越の軍、周殷の軍など、

各地の軍が集まりました。

 

その軍は日増しに増え、野に満ち、この大陸始まって以来の大軍になりました。

その大軍は、項羽の所在する城を、幾重にも厳重に包囲しました。

 

 

 

大軍に兵法なし、といいます。

劉邦は、ただ、攻撃命令を下すだけでよかったのです。

 

集結した劉邦軍は、項羽軍の城の城門めがけて殺到しました。

 

項羽軍はそれに対して逼塞してはいませんでした。

 

城門を八の字にひらいて、項羽軍(楚軍といいます)の兵は

逆襲にでました。

 

項羽軍の兵は城門からまっすぐに劉邦軍の中を突き進み、

劉邦のいる本営までもが動揺しましたが、

左右から劉邦軍の別動隊に包み込まれて殲滅されました。

 

夕方頃には、あたりを馳駆しているのは、

ほとんどが劉邦軍の兵ばかりになってしまったのです。

 

項羽は、いよいよ最後の時が来たようだ、と悟ったといいます。

 

 

 

ところが夜半になって、事態はまたおかしな方向へと動きます。

 

真夜中になったころでしょうか。

 

劉邦軍(漢軍)のほうからなんと、歌声が聞こえるのです。

 

それも、漢の歌ではなく、項羽の故郷である楚の歌でした。

 

しかも、四面ことごとく楚歌でした。

 

 

 

有名な

 

四面楚歌

 

です。

 

 

 

古来、この歌はだれが歌っていたのかとか、

だれが歌わせたのかとかについて、いろんな説があります。

 

項羽と劉邦」を書いた司馬遼太郎氏などは、

歌は漢軍中の楚の出身の者によって自然にわきおこったのだろう、

という見解をとっています。

 

そのいっぽうで、

漢軍の総司令官であり、背水の陣など、

奇策をもちいた韓信の指示によって歌は発生したのだ、

という説もあります。

 

 

 

いずれにせよ、

この漢軍陣営で発生した楚歌は、項羽の内心に影響します。

 

項羽は、ここでぽっきりと心が折れたのか、

籠城戦をかなぐりすてて、単騎、陣を抜け出して疾風のように遁走するのです。

後にしたがうのは、項羽軍の騎兵数百騎のみとなってしまいました。

 

 

 

驚いたのは劉邦です。

 

項羽が生きている限り、天下は定まらない。」と、

項羽の首に法外な懸賞金をかけるとともに、

5000騎という、この時代ではまれにみる規模の騎兵団を組織して、

項羽に対する特別捜索軍を編成して、項羽を追撃させるのです。

 

 

 

でも、ここで、天機は思ったんですよね。

 

なんか変じゃないかな?と。

 

 

 

劉邦が特別捜索軍まで編成して項羽のあとを追撃させたということからわかるのは、

劉邦にとって、

絶対に項羽を生かしておくわけにはいかない、ということです。

 

項羽が生きているということは、

劉邦にとって、めちゃくちゃまずいことなんです。

 

 

 

であるならば、考えてもみてください。

 

垓下で籠城戦にはいった項羽というのは、

まさに、籠の中の鳥、まな板の上の鯉じゃないですか?

 

どうしても項羽を仕留めたいのなら、

ここで徹底的に項羽の退路を絶って、厳重の上にも厳重に包囲をかさねて、

逃げ道を封じて、そのうえで一挙に総攻撃をかけて

項羽を殲滅してしまえばよかったんじゃないですか?

 

 

 

四面楚歌というのの発生については、その原因に関していろんな説がたしかに

ありますが、

もし、韓信の指揮下におこなわれた「作戦」であったとすると、

なぜ、項羽本人の遁走にもつながりかねないような、

そんな作戦を志向する必要があったんですかね?

 

なにより、

項羽が自身と、自身に従う数百騎のみなのに、

漢軍の重囲を突破して遁走に成功したというのも不自然です。

 

 

 

天機は、そこで思ったんです。

 

 

 

漢軍は、劉邦軍は、そして韓信は、

項羽を取り逃がしたんじゃ、ないのではないか?

 

総攻撃をかけなかったんじゃなくて、

 

下という場所で総攻撃をかけるわけには

いかなかったんじゃないか?

 

と思ったんです。

 

 

 

垓下。

 

 

項羽が起死回生の必殺の一撃を放とうとしたのか、

えらんだその垓下という地の、

垓の字のなかには、

 

 

がはいっていますよね。

 

 

 

十二支の第12原理の「亥」の原理のあらわすものを一言でいうと、

 

最小単位をつぶそうとした瞬間に反撃を喰らう

 

というものでした。

 

 

 

つまり、こういうことなんです。

 

亥という文字がふくまれた、この垓下という地、垓下という場所、

そのものに、

亥があらわす十二支の第12原理の性質が刻み込まれており、

追い詰められて追い詰められてついには「最小単位」にまでなってしまった

項羽は、

その垓下という土地の性質を知っていたからこそ、

この地で起死回生の反撃を目指そうとして野戦築城をしたかもしれず、

また、漢軍は漢軍で、同様にこの垓下という地のもつ

そのような影の意味を知っていたからこそ、

安易に最終攻撃をかけると最終攻撃をかけた側が逆襲されるという、

十二支の第12原理である「亥」の性質を警戒して、

あえて最終攻撃はかけずに、四面楚歌作戦を発動させたのではないですかね?

 

 

 

きょうは、そんなお話でした。