この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

民主主義の政体は、はたして安定的なのか。

こんにちわ。天機です。

 

 

 

きょうは、「民主主義の政体は安定的なのか?」

ということについて、考えてみようと思います。

 

 

 

18世紀の末ごろに、西洋諸国において、

近代市民革命というのが発生しました。

 

歴史の教科書にも載っていたと思います。

 

その、近代市民革命というのを経て、

西洋諸国には、近代民主主義国家、というのが誕生することになりました。

 

 

 

この、世界史上の、おおきなメルクマールとなる、

近代市民革命と、近代民主主義国家の誕生という、

事象が発生する以前には、

世界のあちこちに、いわゆる、

「伝統的王朝」というのがありました。

 

日本でも、江戸幕府のまえにも、鎌倉幕府室町幕府などがありましたし、

中国でも、殷、周、東周、春秋戦国、秦、前漢、新、後漢、、、

と、さまざまな王朝がありましたね。

 

 

 

これらの、いわゆる「伝統的王朝」というのは、

前王朝を武力で倒して成立したものがほとんどです。

 

つまり、伝統的王朝の存在するところには、

武力討伐と戦争による王朝の交代、というのが、つきものだったわけです。

 

 

 

それに対して、近代民主主義国家、というのは、

これは、現代の世界で非常におおくの国家の形態がそうなんですが、

有権者による選挙によって政権が交代する、というかたちで、

いわば、

「革命の制度化」がおこなわれているわけなんです。

 

 

 

政権や王朝を交代させるのに、いちいち、

武力討伐や戦乱を経験しなければいけない「伝統的王朝」にくらべると、

いかにも、近代民主主義国家というのは、

安定的であるかのように見えます。

 

実際、西洋諸国は、この近代民主主義というものを、

「人類普遍の原理」だ、などとして、称揚していますよね。

その思想が、日本国憲法にも反映されているわけです。

余計なお世話だと思うんですがね。

 

 

 

しかしながら、この近代民主主義という原理が、

真に安定的で普遍的な原理であるのかどうか、ということについては、

時の試練に耐えるのかどうか、という観点から、

再検討されなければならないものだと考えます。

 

 

 

さきに、伝統的王朝というのは、安定的ではないかのように見える、

と書きましたが、実際のところはどうなのでしょうか。

 

 

 

たとえば、古代中国にあった周王朝は、およそ800年続いています。

ローマ帝国ならば、およそ500年。

ビザンツ帝国に至っては、1000年以上も続いているわけです。

日本に目を転じても、江戸幕府は、265年続いたとされています。

 

これが、不安定である、と揶揄されているところの、

伝統的王朝の実態です。

継続年数でみるかぎり、伝統的王朝は、けっして不安定な政体とは言い切れない

ことがわかります。

 

 

 

他方で、近代民主主義については、どうでしょうか。

 

フランス革命が発生したのは、1789年。

アメリカ独立宣言が発表されたのは、1776年で、

それから数えて現在の2017年というのは、

たかだか、200年と少しが経過したにすぎないのです。

 

 

 

このことから考えると、つぎのような帰結がみちびけると思います。

 

人類の歴史上、さまざまな王朝や政体があったけれども、

近代市民革命という出来事をへて、

近代民主主義という、

「進歩的で、発展的で、人類普遍の原理をあらわす、政治形態の

 最終的完成形」

を手に入れた、などと考えるのは、

 

誤り

 

です。

 

近代民主主義というのも、ひとつの実験的な政治体制であって、

それは、かつてこの地球上に存在してきた、

さまざまな政治体制のうちの、一政治体制である、とかんがえる、

相対的な視点こそが、求められる大切な視点なのです。

 

 

 

ほんとうに、近代民主主義という政治体制が、

一過性のものではなくて、

強く、気高く、素晴らしく、人類普遍の原理をあらわしているものなのかどうかは、

ただひとつ、

 

時の試練

 

に耐えるのかどうか、ということによって、決定されるべきものだと考えます。

「アリとキリギリス」のお話の教訓。

こんにちわ。天機です。

 

 

 

きょうは、イソップの寓話にある、「アリとキリギリス」というお話の、

教訓について考えてみたいと思います。

 

 

 

アリとキリギリス、というお話については、

ご存知のかたも多いと思います。

 

お話の概要は、以下のような感じです。

 

 

 

あるところに、アリとキリギリスがいました。

夏の暑い間、アリはせっせ、せっせと働いて、食料を貯めこんでいました。

その間、キリギリスは、バイオリンをひいて、歌って暮らしていました。

 

やがて、寒い冬がやってきました。

キリギリスは、食料を探し回りましたが、どこにもありません。

しかたなく、アリのところへ行って、食料を分けてくれるように頼みましたが、

アリは、「夏の間に歌っていたんなら、冬には踊ったらどうだい?」

と言って、追い返しました。

キリギリスは、飢え死んでしまいました。

 

 

 

ざっと、こんな感じのお話です。

 

 

 

このお話の教訓として、一般に語られていることというのは、

「将来の危機に備えて、怠けず勤勉に働いておかないと、

将来、苦しむことになる」

といったことだろうと思います。

 

 

 

ですが、自分は、もう一歩掘り下げて、このお話について考えてみたいと思います。

 

 

 

 

 

 

太陽系の中心には、太陽があります。

そのまわりを、惑星である地球がまわっています。

 

地球は、自分自身でも、ぐるぐると回転しています。

地球の自転です。

この、地球の自転は、「1日」というものを生み出します。

 

ただ、地球は、太陽の周りもまわっています。

地球の公転です。

この、地球の公転は、「1年」というものを生み出します。

 

 

 

1日、というものをうみだす、地球の自転は、

比較的、小さな円運動です。

 

それに対して、1年、というものをうみだす、地球の公転は、

比較的、大きな円運動です。

 

 

 

つまり、ここに、2種類の円があるのです。

内側にある小さな円と、外側にある大きな円と。

 

内側にある小さな円は、1日をうみだす地球の自転で、

外側にある大きな円は、1年をうみだす地球の公転なのです。

 

 

 

 

 

さて、アリとキリギリスのお話に戻ってみましょうか。

 

ところで、いったいどうしてキリギリスは、

夏の間、将来の冬に備えることもなく、

バイオリンをひいて、歌をうたって暮らしていたのでしょうか。

 

 

 

ぼくが思うに、キリギリスの目には、

「内側の小さな円」の存在しか、見えていなかったのではないでしょうか。

 

 

 

1日、というのは、

朝が来て、昼が来て、夜が来ます。これで、1日です。

次の日も、やっぱり、

朝が来て、昼が来て、夜が来ます。これで、1日です。

 

これを繰り返していると、

なーんだ、この世界というのは、

朝が来て、昼が来て、夜が来て、というのを、

ただ繰り返していくだけなんだな、

おんなじものの繰り返し、

循環しているのは、「たった1つの円」なんだな、と思ってしまいそうです。

キリギリスも、たぶん、そう思ったのでしょう。

 

 

 

ところが、実際には、そうではない。

 

この世界を支配する円の数は、「1」ではなく、「2」なんです。

「1」は誤りで、「2」が正解なんです。

内側の小さな円の外には、外側の大きな円があって、

内側の円と外側の円、あわせて「2」つの円で、

この世界は成り立っているんです。

 

 

 

ところが、この、外側にある大きな円の働きというのは、

見えにくい。

 

内側にある小さな円というのは、

1日という、短周期での時間単位を支配しています。

外側にある大きな円というのは、

1年という、長周期での時間単位を支配しています。

 

1日というのは、

朝が来て、昼が来て、夜が来て、だから、

その変化は、実感しやすいのです。

 

ところが、1年の変化は、非常にゆっくりです。

じりじり、じりじり、と変わっていくのです。

ほんのわずかだけ、何か月にもわたって、

気温がゆっくりと下がっていったりするんです。

 

でも、それは実感できない。

だから、昨日も、今日も、明日も、

まったくおんなじ「1日」が来たように、錯覚してしまうのです。

 

朝が来て、昼が来て、夜が来て、

まったくおんなじ1日が過ぎていくように感じても、事実はちがう。

1年単位で見たときには、

昨日と、今日と、明日では、

確実に、フェーズがかわっているのです。

 

 

 

繰り返しになりますが、

1日というものをうみだす、地球の自転という、内側の小さな円と、

1年というものをうみだす、地球の公転という、外側の大きな円があるのです。

 

そのうちの、内側の小さな円だけしかなくて、それで世界のすべてだ、

と考えたのが、キリギリスだったのです。

 

それに対して、いやいや、この世界には、外側の、もうひとつの大きな円がある、

と考えて、それに備えたのが、アリだったのです。

 

 

 

おそらく、この、内側の小さな円と、外側の大きな円という、

2種類の円は、

こと、太陽系にだけ存在する関係なのではなくて、

この世界そのものに存在するものであろうと、自分は思います。

 

そしてたぶん、この、外側の大きな円のほうをつかさどっているのは、

「理の原理」なのではないでしょうか。

【奇門遁甲】方位の効果と、距離。【九星気学】

こんにちわ。天機です。

 

きょうは、「方位の効果と、距離」について書いてみたいと思います。

 

 

 

 

運命学の一分野に、方位学というのがありますが、

日本で有名なのは、九星気学ですね。

あまり知られていないのが、奇門遁甲、ということになります。

 

これらは、いずれも、移動によって開運を目指そうとする学問なのですが、

共通していることは、

 

「移動距離が長くなればなるほど、方位の効果はおおきくあらわれる」

 

ということです。

 

 

 

具体例で、考えてみましょう。

 

 

 

あるひとが、A県A市からB県B市へと、

およそ700キロの移転をしたとします。

たとえば、引っ越しなどですね。

これを仮に、「大移動」とします。

 

 

さて、そのひとは、この大移動をおこなうまえに、

A県内で、A県R市→A県S市→A県T市→A県A市と、

複数回の移転をしていました。

このA県内での移転は、それぞれが5キロから10キロ程度の、

「小移動」でした。

 

 

また、このひとは、この大移動をおこなったあとに、

B県内で、B県B市→B県L市→B県M市→B県N市と、

複数回の移転をしました。

このB県内での移転も、やはり、それぞれが5キロから10キロ程度の、

「小移動」でした。

 

 

 

この場合、方位の効果がどのようにあらわれてくるかというと、

もちろん、複数回の小移動の効果も、

それなりにあらわれるにはあらわれるんですが、

それよりもなによりも、

「大移動」の効果が非常に大きくあらわれてくることになります。

 

というのも、大移動は700キロもの移動であるのに対して、

小移動はせいぜい5キロから10キロ程度なので、

その距離に、とても大きな差があるからなのです。

 

 

 

うえにあげたひとの場合でいうと、

ふつうは、あらたな移動をすると、それ以前の移動の効果については、

「リセット」されるのが原則なのですが、

このひとのばあい、

A県A市からB県B市への700キロの移動効果は、

B県B市からB県L市への、あらたな数キロの移動程度では、

リセットされないことになります。

 

このひとは、B県内にとどまり続けるかぎり、

B県内でいくら、数キロ程度の小規模な移動をしたとしても、

「ある時期に、A県からB県への700キロの移動をした」

という方位の効果は、

いつまでも影響をあたえつづけることになります。

 

もし、この大移動の効果をもリセットしたいのならば、

あらたに、B県からC県への、

おなじく数百キロ程度以上の距離での移動をしなければいけません。

 

 

 

ですから、遠く離れた県への移転などをする際には、

通常の場合よりも慎重に、方位を選定する必要があります。