この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

太公望と、まっすぐな針。

太公望については、いろんな伝説がある。

そのひとつが、まっすぐな針で釣りをしていた、というものだ。

 

ふつう、釣りをするときには、かえしのある針をつかう。

でなければ、魚がえさに食いついても、逃げられてしまうからだ。

でも、太公望の釣りは、独特だった。

その釣り針には、かえしがなく、まっすぐ。

なおかつ、その釣り針は、水中にはいっておらず、

水面まですこしのところの空中にたれていた。

 

これを、どう解釈したらいいだろう。

ああ、太公望ってバカだねー。釣りの仕方もわからないんだね。

そんなふうに感じるひともいるだろう。

 

自分は、こんなふうに考えてみた。

釣りというのは、ふつう、魚をとらえるためにおこなう。

魚をとらえるというのは、自分が利益をえる、プラスを手に入れる、

ということだ。

太公望のまっすぐな針では、それができない。

つまり、太公望の行為は、利益をえることをねらったものではなく、

利益をえるという目的からは、距離を置いていることがわかる。

ふつう、人間は、利益をえたいものだ。

利益をえるために行動することが多いのである。

しかし、太公望は、利益なんかいらないよ、という姿勢を、

はっきりとしめしているのだ。

太公望のまっすぐな針は、魚をねらったものではない。

では、その針は、いったいなにをねらっているのだろう。

 

まっすぐな針は、なにを突き刺そうとしているのだろうか。

 

それは、水そのものだ。

太公望は、水を攻撃しようとしているのである。

水なんか、どうやって攻撃するの。

水なんか攻撃して、意味あるの。

ふつうは、そう思うだろう。

が、たぶん、太公望の目には、実際に存在する水という物質の背後に、

水が象徴するなにかの原理が見えていたのだ。

そして太公望は、その、水が象徴する原理は邪悪だとかんがえた。

だから、まっすぐな針で、水を威圧しているのである。

 

では、なぜ、針を水中に入れないのであろう。

 

それはたぶん、ON(接触)というのを警戒しているからだ。

自分のブログのべつの記事で、こんなことを書いた。

人間の三大欲求には、すべて、ON(接触)が関係している、と。

また、女性という英単語は、MANにWOをつけることで成り立ち、

現在の世界でファイブアイズと言われている5か国の首都の名前の

ほとんどに、W、O、ONがはいっている、と。

この世界には、ON、つまり、接触し接触させることで力をえる原理がある。

太公望の原理は、それとは異なる原理なんだ。

だからあえて接触を避け、

針を水中には入れていないのではないだろうか。

「トロッコ問題」に、あらたな仮定を付け加えてみた。

トロッコ問題、といわれる問題がある。

詳しい内容はググってもらうとして、自分は、以下のように、

あたらしい仮定を加えてみることにした。

 

ある線路で、制御不能な列車が暴走している。

その列車がすすんでいく線路の先には、100人の作業員が

保線作業をしている。

このまま暴走列車がすすんでいけば、その100人がまきこまれて、

全員が命を落としてしまうことは確実だ。

ただ、その暴走列車と、100人がいる地点のあいだには、

線路を切り替えるポイントがある。

そのポイントで線路を切り替えれば、暴走列車は、

100人のいる地点へは向かわず、べつの経路をとることになって、

100人の命は、すくわれる。

ただ、その場合、あらたに暴走列車が向かうことになる線路の先には、

1人が存在する。

線路を切り替えることにすれば、今度は、その1人のほうが、

犠牲になることになるだろう。

ただし、その1人というのは、

この国の王様

である。

 

この問題、どのように考えるだろうか。

近代市民革命が発生したあと、みんなは当然のように、

人間はみな平等で、1人1人の価値は同等だと思っている。

1人1人の価値が同等だという前提に立つからこそ、

1人1票を原則とした選挙制度による民主主義も、

多数決による決定を原則とする民主主義もなりたつ。

数、というのは、同じ、を前提にして成り立つシステムだ。

3個のリンゴと4個のリンゴをあわせれば、7個のリンゴになる

という。

それが、数の論理だ。

そのうちのいくつかのリンゴは青くて、いくつかのリンゴは赤い

かもしれない。

そのうちのいくつかのリンゴは小さくて、いくつかのリンゴは大きい

かもしれない。

そのうちのいくつかのリンゴは腐っていて、いくつかのリンゴは新鮮

かもしれない。

にもかかわらず、そういった事情にもかかわらず、

3個と4個を足せば7個になると言えるのは、

リンゴというくくりでいえば同一だろう、という、

その同一性に着目するからだ。

同一性の前提がくずれれば、数の論理は、その正当性の根拠をうしなう。

1人1人の価値が同等だとする近代民主主義の基本思想は、

この、数の論理と、分かちがたく結びついている。

 

が、その考え方は、かならずしも当然のものではない。

フランス人権宣言などが高らかにある理想をのべたからといって、

それ以前の伝統的な社会が、はたして、

間違っていたことになるんだろうか。

近代市民革命が発生するまで、人間は間違った社会で暮らしていて、

近代市民革命後は、人間は正しい社会で暮らすことになったのか。

そこに、ある種の民主主義の傲慢さを見て取るのは、

変な考え方なのだろうか。

 

本来のトロッコ問題を前にしたとき、なぜ悩むのかといえば、

100人と1人という、数の違いが存在するからだ。

100人と1人なら、当然数の多い100人のほうを助けたほうが

いいような気がする。

しかし、そこには、1人1人の価値は平等であるという、

近代市民革命後にはじめて成立した、ある特定のイデオロギー

ひそんでいる。

このトロッコ問題を考える際には、そのイデオロギーそのものの

正当性も問い直されるべきだ。

つまり、数の違いという量的な違いだけを問題にしていいのだろうか。

その人間の個性、質的な違いは、問題を検討するさいに問題とは

ならないのか。

 

だから、自分は、あらたな仮定をおいた。

もし、その1人のほうが、

この国の王様

だったらどうするのか、と。

 

矛盾の、その前。

このブログで、自分はしばしば、

世界のはじまりには矛盾という名の女性がいた、と述べている。

はじまりに矛盾があった。

その矛盾が、理を産んだ。

矛盾と、その理が、まじわった。

2番目の子供である、生がうまれた。

こんな順番で世界は生成した、と、このブログの主は、

勝手に考えている。

本当かどうかは、わからない。

 

順序でいうと、

矛盾→理→生。

そして、このそれぞれは、人間の体の各箇所に対応している。

矛盾は髪の毛。理は頭脳(頭部)。生は生殖器(胴体)。

矛盾→理→生という世界生成の順番と同じように、

人間の体も、上から順に、髪の毛→頭→胴体の順でならんでいるよね。

下から逆に上に向かって見ていくと、胴体→頭→髪の毛。

ああ、矛盾は世界のはじまりだから、矛盾をあらわす髪の毛も、

いちばん高いところにあるんだね、と思うひとも、いるかもしれない。

 

でも、ほんとうに、いちばん高いところだろうか。

人間の体でいえば、たしかに髪の毛は、いちばん高いところだ。

が、その上がある。

頭のさらに上には、空間がひろがっている。

手を伸ばしたり、移動したりすることのできる、空間がひろがっている。

この空間は、一見したところ、なにもないように見える。

 

では、この空間は、なにもないという意味での、無、なのだろうか。

たぶん、それはちがう。

この空間は、空気でみたされている。

空気は80%が窒素、20%が酸素という組成になっているといわれていて、

窒素も酸素も、物質だ。

つまり、この頭上にひろがる空間は、

一見したところ無のようにみえるが、無とはわずかに違うもの、

ということになりそうだ。

完全な無のようにみえて、無とは異なるもの。

それを、とても小さいが、なにかが存在する、という意味をこめて、

「寸」と名付けてみよう。

人間の頭上には、寸がひろがっている。

 

では、この寸で、行き止まりであろうか。

いや、まだ上がある。

この空間をさらに上に向かってすすんでいくと、やがて、

大気圏を抜ける。

成層圏だの、熱圏だの、電離層だの、詳しくないのでよくわかんないけど、

そういったもろもろのなにかを抜けて、

ついには、宇宙空間にいたる。

この宇宙空間は、基本的には真空であるといわれている。

ここに至ってはじめて、無があらわれてくる。

なにもない、という意味での無だ。

 

つまり、人間の足元から順番に上のほうに向かって見ていくと、

胴体→頭→髪の毛→大気圏などの空間→真空を基調とする宇宙空間、

という順番でならんでいる。

抽象的な原理になおして考えると、

生→理→矛盾→寸→無、という順番になる。

これを上から逆にみていくと、

無→寸→矛盾→理→生という順番になる。

 

つまり、はじまりは矛盾だよ、って言ってきたけれど、

その矛盾よりさらに前に、無→寸っていうプロセスがあるんじゃないかな。

そして、矛盾→理→生のプロセスにおいては、

矛盾が理を産み、その理と矛盾が交合し、あらたに生がうまれる、

と考えてきた。

この、AがBを産み、そのBとAが交合し、あらたにCがうまれる、

という生成プロセスは、

矛盾以前にも、もしかしたら、適用されるんじゃないか。

つまり、

無がそもそもの根本のはじまりにあって、

その無が寸をうむ。

うまれた寸は無と交合し、あらたに矛盾がうまれる、という具合だ。

 

整理すると、以下のようになる。

そもそものはじまりに、無があった。

その無は、寸をうんだ。

うまれた寸と、寸をうんだ無がまじわった。

すると、矛盾がうまれた。

矛盾は、理をうんだ。

うまれた理と、理をうんだ矛盾がまじわった。

すると、生がうまれた。

こんな感じだ。

 

ここで、生のつぎには死がくることを考え合わせれば、

無→寸→矛盾→理→生→死、という感じになるのではないだろうか。

この流れを2系統に分割すると、

無、矛盾、生が女性原理系統、

寸、理、死が男性原理系統、

そんなふうに分かれると、個人的には考えている。

 

矛盾というのは世界のはじまりと言ってきたが、

こうしてみてみると、

無と寸がまじわった形態であることがわかった。

べつのブログ記事で、

存在の根本をなす原子というのは、陽子と中性子のまわりを

電子が周回しているが、それは、

母である矛盾のまわりを、はるかかなたから帰ってきた子供である

理が周回している姿なのではないか、ということを示唆した。

ということは、陽子と中性子からなる原子核が、矛盾ということになる。

そして、矛盾をあらわす原子核がなぜ、陽子と中性子という2つのもの

から成るのかといえば、

それは、矛盾というものがそもそも、

無と寸という2つのものから成っているからなのではないか。

こんな、とりとめもないことを考えるのが、自分は好きだ。