この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

「トロッコ問題」に、あらたな仮定を付け加えてみた。

トロッコ問題、といわれる問題がある。

詳しい内容はググってもらうとして、自分は、以下のように、

あたらしい仮定を加えてみることにした。

 

ある線路で、制御不能な列車が暴走している。

その列車がすすんでいく線路の先には、100人の作業員が

保線作業をしている。

このまま暴走列車がすすんでいけば、その100人がまきこまれて、

全員が命を落としてしまうことは確実だ。

ただ、その暴走列車と、100人がいる地点のあいだには、

線路を切り替えるポイントがある。

そのポイントで線路を切り替えれば、暴走列車は、

100人のいる地点へは向かわず、べつの経路をとることになって、

100人の命は、すくわれる。

ただ、その場合、あらたに暴走列車が向かうことになる線路の先には、

1人が存在する。

線路を切り替えることにすれば、今度は、その1人のほうが、

犠牲になることになるだろう。

ただし、その1人というのは、

この国の王様

である。

 

この問題、どのように考えるだろうか。

近代市民革命が発生したあと、みんなは当然のように、

人間はみな平等で、1人1人の価値は同等だと思っている。

1人1人の価値が同等だという前提に立つからこそ、

1人1票を原則とした選挙制度による民主主義も、

多数決による決定を原則とする民主主義もなりたつ。

数、というのは、同じ、を前提にして成り立つシステムだ。

3個のリンゴと4個のリンゴをあわせれば、7個のリンゴになる

という。

それが、数の論理だ。

そのうちのいくつかのリンゴは青くて、いくつかのリンゴは赤い

かもしれない。

そのうちのいくつかのリンゴは小さくて、いくつかのリンゴは大きい

かもしれない。

そのうちのいくつかのリンゴは腐っていて、いくつかのリンゴは新鮮

かもしれない。

にもかかわらず、そういった事情にもかかわらず、

3個と4個を足せば7個になると言えるのは、

リンゴというくくりでいえば同一だろう、という、

その同一性に着目するからだ。

同一性の前提がくずれれば、数の論理は、その正当性の根拠をうしなう。

1人1人の価値が同等だとする近代民主主義の基本思想は、

この、数の論理と、分かちがたく結びついている。

 

が、その考え方は、かならずしも当然のものではない。

フランス人権宣言などが高らかにある理想をのべたからといって、

それ以前の伝統的な社会が、はたして、

間違っていたことになるんだろうか。

近代市民革命が発生するまで、人間は間違った社会で暮らしていて、

近代市民革命後は、人間は正しい社会で暮らすことになったのか。

そこに、ある種の民主主義の傲慢さを見て取るのは、

変な考え方なのだろうか。

 

本来のトロッコ問題を前にしたとき、なぜ悩むのかといえば、

100人と1人という、数の違いが存在するからだ。

100人と1人なら、当然数の多い100人のほうを助けたほうが

いいような気がする。

しかし、そこには、1人1人の価値は平等であるという、

近代市民革命後にはじめて成立した、ある特定のイデオロギー

ひそんでいる。

このトロッコ問題を考える際には、そのイデオロギーそのものの

正当性も問い直されるべきだ。

つまり、数の違いという量的な違いだけを問題にしていいのだろうか。

その人間の個性、質的な違いは、問題を検討するさいに問題とは

ならないのか。

 

だから、自分は、あらたな仮定をおいた。

もし、その1人のほうが、

この国の王様

だったらどうするのか、と。

 

矛盾の、その前。

このブログで、自分はしばしば、

世界のはじまりには矛盾という名の女性がいた、と述べている。

はじまりに矛盾があった。

その矛盾が、理を産んだ。

矛盾と、その理が、まじわった。

2番目の子供である、生がうまれた。

こんな順番で世界は生成した、と、このブログの主は、

勝手に考えている。

本当かどうかは、わからない。

 

順序でいうと、

矛盾→理→生。

そして、このそれぞれは、人間の体の各箇所に対応している。

矛盾は髪の毛。理は頭脳(頭部)。生は生殖器(胴体)。

矛盾→理→生という世界生成の順番と同じように、

人間の体も、上から順に、髪の毛→頭→胴体の順でならんでいるよね。

下から逆に上に向かって見ていくと、胴体→頭→髪の毛。

ああ、矛盾は世界のはじまりだから、矛盾をあらわす髪の毛も、

いちばん高いところにあるんだね、と思うひとも、いるかもしれない。

 

でも、ほんとうに、いちばん高いところだろうか。

人間の体でいえば、たしかに髪の毛は、いちばん高いところだ。

が、その上がある。

頭のさらに上には、空間がひろがっている。

手を伸ばしたり、移動したりすることのできる、空間がひろがっている。

この空間は、一見したところ、なにもないように見える。

 

では、この空間は、なにもないという意味での、無、なのだろうか。

たぶん、それはちがう。

この空間は、空気でみたされている。

空気は80%が窒素、20%が酸素という組成になっているといわれていて、

窒素も酸素も、物質だ。

つまり、この頭上にひろがる空間は、

一見したところ無のようにみえるが、無とはわずかに違うもの、

ということになりそうだ。

完全な無のようにみえて、無とは異なるもの。

それを、とても小さいが、なにかが存在する、という意味をこめて、

「寸」と名付けてみよう。

人間の頭上には、寸がひろがっている。

 

では、この寸で、行き止まりであろうか。

いや、まだ上がある。

この空間をさらに上に向かってすすんでいくと、やがて、

大気圏を抜ける。

成層圏だの、熱圏だの、電離層だの、詳しくないのでよくわかんないけど、

そういったもろもろのなにかを抜けて、

ついには、宇宙空間にいたる。

この宇宙空間は、基本的には真空であるといわれている。

ここに至ってはじめて、無があらわれてくる。

なにもない、という意味での無だ。

 

つまり、人間の足元から順番に上のほうに向かって見ていくと、

胴体→頭→髪の毛→大気圏などの空間→真空を基調とする宇宙空間、

という順番でならんでいる。

抽象的な原理になおして考えると、

生→理→矛盾→寸→無、という順番になる。

これを上から逆にみていくと、

無→寸→矛盾→理→生という順番になる。

 

つまり、はじまりは矛盾だよ、って言ってきたけれど、

その矛盾よりさらに前に、無→寸っていうプロセスがあるんじゃないかな。

そして、矛盾→理→生のプロセスにおいては、

矛盾が理を産み、その理と矛盾が交合し、あらたに生がうまれる、

と考えてきた。

この、AがBを産み、そのBとAが交合し、あらたにCがうまれる、

という生成プロセスは、

矛盾以前にも、もしかしたら、適用されるんじゃないか。

つまり、

無がそもそもの根本のはじまりにあって、

その無が寸をうむ。

うまれた寸は無と交合し、あらたに矛盾がうまれる、という具合だ。

 

整理すると、以下のようになる。

そもそものはじまりに、無があった。

その無は、寸をうんだ。

うまれた寸と、寸をうんだ無がまじわった。

すると、矛盾がうまれた。

矛盾は、理をうんだ。

うまれた理と、理をうんだ矛盾がまじわった。

すると、生がうまれた。

こんな感じだ。

 

ここで、生のつぎには死がくることを考え合わせれば、

無→寸→矛盾→理→生→死、という感じになるのではないだろうか。

この流れを2系統に分割すると、

無、矛盾、生が女性原理系統、

寸、理、死が男性原理系統、

そんなふうに分かれると、個人的には考えている。

 

矛盾というのは世界のはじまりと言ってきたが、

こうしてみてみると、

無と寸がまじわった形態であることがわかった。

べつのブログ記事で、

存在の根本をなす原子というのは、陽子と中性子のまわりを

電子が周回しているが、それは、

母である矛盾のまわりを、はるかかなたから帰ってきた子供である

理が周回している姿なのではないか、ということを示唆した。

ということは、陽子と中性子からなる原子核が、矛盾ということになる。

そして、矛盾をあらわす原子核がなぜ、陽子と中性子という2つのもの

から成るのかといえば、

それは、矛盾というものがそもそも、

無と寸という2つのものから成っているからなのではないか。

こんな、とりとめもないことを考えるのが、自分は好きだ。

終末医療の推進をーただ生きていればいいのだろうか。

京都市が配布した終末医療の指示書に関して、

人工呼吸器などをつかって生きるという選択肢が奪われてはならず、

生きている命にこそ価値がある、とする弁護士などが反対の声明を出した、

とヤフーニュース。

 

自分は、この弁護士たちの考えには、賛成できない。

ただ生きていればよいのではなく、善く生きることが大切だ、

と言ったのは昔の哲学者だったと思うが、

物理的にただ生命活動が存在する、ということには、さほどの価値はなく、

どのように生きているのか、という、その生命(いのち)の質こそが、

問われるべき大切なことだと思う。

誤解しないでほしいのは、社会のために役立たない存在になったら、

その生命は無用だ、などと言っているのではない、ということだ。

いのちの質に関しても、社会のために役立っているかどうか、という

観点を、唯一の判断基準としてはならないことは、もちろんのことである。

その意味で、社会の役にも立たない人間を税金を使って延命するのは

費用の点でも無駄だから、といった考えは、

自分の考えとはちがう。

 

ただ生きるのではなく、よく生きるということ、

そのいのちの質を問うということは、

自分自身がどのように生きていくのかという、

自己決定の視点がとても大切なものになってくる。

他人からみて意味のないような生命、人生にたとえ見えたとしても、

自分にとって意味のある生命、人生であると感じられるならば、

その生命、人生は、生きるに値するということだ。

ひるがえっていえば、自分自身が、そのような生命、人生のかたちであれば、

もはやそれは生きていても意味がない、と感じるのであれば、

その生命、人生は、生きるに値しないということだ。

 

他人が、人工呼吸器を使って延命するなんて無駄だから、

あなたの意思とは関係なく治療は終了しますよ、なんていうのなら、

それは、とても恐ろしい世界だ。

自分が人工呼吸器によって生きる生命、人生に価値を見出すのなら、

その生きるという権利は、絶対に侵されてはいけない。

 

ただ、反対に、人工呼吸器を使ってただ生命を長らえさせているだけの

ような生命、人生には、もはや生きる価値がない、と本人が考えるのならば、

そのような本人の意思、自己決定もまた、

同様に尊重に値する、ということなのだ。

生きているいのちにこそ価値がある、という考えは、

ひとつの考えであって、

その考えを受け入れるひとも、そうでないひともいる。

その価値判断は、絶対的なものではない。

人工呼吸器をつかって生きたい、という判断は、

他者から侵害されてはならないものだが、

人工呼吸器をつかうのならもはや生きたくはない、という判断もまた、

同様に尊重されるべきだ。

京都市が、終末医療に関する考え方や指示書のたぐいを一方的に策定し、

押し付けるのならば、問題が非常に多いといわなければならないが、

ひとつの考え方として提示するにとどめ、

それを採用するのかどうかは個人の自主的判断にゆだねられるのならば、

問題提起という観点からも、自分は、

認められてよいものではないか、とも思う。