この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

上善は水の如し?

こんにちわ。天機です。

 

 

 

きょうは、中国の古典作品にかんして、自分の思ったことを

述べてみたい、と思います。

(この記事の字数 約900字)

 

 

 

老子、という中国の古典作品には、

「上善は水の如し(じょうぜんはみずのごとし)」という

言葉がでてきます。

 

 

日本では、お酒の銘柄の名前にもなっているようですね。

 

 

水というのは、低いほうへ、低いほうへと流れていく。

 

それはあたかも、自分はへりくだって、

いつも謙虚につつましくしているかのようだ。

 

そんな水の在り方こそが、素晴らしいものなのだ、と、

だいたい、こういうことを老子は考えていて、それで、

上善は水の如し、なんて言っているわけです。

 

 

 

が、天機は、その考えには、

かならずしも全面的には賛同できません。

 

 

水というのは、たしかに、

低いほうへ低いほうへと流れくだるのですが、

それは、自分がへりくだっているから、というよりは、

天機の目には、

安易なほうへ安易なほうへと行きたがっているように見えます。

 

 

また、水に流す、という言葉がありますが、

僕たちは日常で、洗濯をしたあとの汚れを水に流し、

体を洗ったあとの汚れを水に流し、

食器を洗ったあとの汚れを水に流します。

 

 

水は、僕たちを綺麗にしてくれる、という意味で

役に立ってくれているのですが、

見方をかえれば、水というものは、

汚れたものを好んで飲み込んでいるようにもみえます。

 

 

さらには、水というのは、喉の渇きをいやしてくれたり、

お風呂であれば、体をあたためてくれたり、あるいは、

農業用水であれば、農作物を育ててくれたり、

たくさんの有用なはたらきをしてくれているわけなのですが、

そのいっぽうで、

水難事故があれば、水はひとを殺しもするし、

河川が氾濫したり、暴風雨が来たりすれば、水は、

甚大な被害を人間にもたらすわけです。

 

 

 

このように、水というものは、

人間をたすけてくれる、素晴らしいはたらきをするいっぽうで、

それに負けず劣らず、人間に害をもなしているわけなのです。

 

 

だとするならば、人間は、ある程度、水というもの、そして、

水というものの背後にひそんでいる原理に対して、

警戒心をもってのぞむべきだと、天機はかんがえます。

 

 

老子のように、

水というものは全面的に素晴らしいものなのだ、とは、

天機はどうしても、考えられないのです。

意外と強力。100均の接着剤。

こんにちわ。天機です。

 

 

 

きょうは、天機の日常のおはなしです。

(この記事の字数 約700字)

 

 

 

天機は、パソコンで音楽を聴くときに、

700円ほどで買ってきたヘッドホンをつないで聴いています。

 

 

 

先日、そのヘッドホンの、耳にひっかけるところが、

ぽきっと、折れてしまいました。

 

 

 

天機は悲しんで、セロテープでぐるぐる巻いたりして使いましたが、

やっぱり、ぐらぐらしていました。

 

 

 

ああ、安いから、簡単に折れたりするのかもしれないな。

これは、もういちど、同じものを買わなくちゃいけないかも。

 

なんて、考えていたのです。

 

 

 

しかし、そこで天機はひらめきました。

 

「これは、アロンアルファでくっつければ、うまくいくかもしれない。」と。

 

 

 

とはいうものの、半信半疑でした。

 

天機の頭の中では、接着剤、というものに、あまり信用を置いていなくて、

くっついても、すぐにまたとれてしまう、みたいなイメージが強かった

んですよね。

 

 

 

でも、試してみよう、と思いました。

 

アロンアルファを買いに行こう→いやいや、100均の接着剤でいいやん

→そもそも、家に接着剤なかったっけ?

 

という思考過程をへて、家の中に接着剤を見つけました。

 

 

 

それは、100均のセリアで買った、「ボンド」というやつでした。

ずいぶん、買ってから時間がたって、古くなっているようにもみえました。

 

 

 

でも、それを、ヘッドホンのこわれたところにつけてみたのです。

 

 

 

すると、なんということでしょう。

 

ヘッドホンのこわれたところは、まったくぐらつかなくなりました。

きょうで、修理してから1か月ほどたつと思いますが、

いまだに、折れたり、とれたりしていません。

 

 

 

100均の接着剤、意外と強力です。

外格が、初年運が恵まれている、とは、かぎらない。

こんばんわ。天機です。

 

 

 

きょうは、四柱推命に関するおはなしです。

(この記事の字数 約1800字)

 

 

 

四柱推命についての本やサイトをみていると、

 

「外格という特殊格のひとは、通常、第1運から第2運くらいまでの

 初年運は、幸運に恵まれる。

 裕福な家に生まれたり、セレブに生まれたりして、何不自由ない子供時代

 を過ごす。

 逆に言えば、幼少期をふりかえって、貧しく苦労したなあ、といったことが

 あれば、そのひとは外格ではない。

 ただし、外格のひとも、第3運以降の後天運で、破格運がめぐってきて、

 運勢が急降下することがよくある。」

 

といったことが書かれてあることがあります。

 

 

 

自分は、この記述は、半分くらいは間違った記述ではないか?

と考えています。

その理由は、以下の通りです。

 

 

 

考えてもみてください。

 

四柱推命において、そのひとの運命を決めるのは命式であり、

その命式は、生まれた年、生まれた月、生まれた日、生まれた時間、

この4つの組み合わせによって決定されます。

 

外格になるのかどうか、ということも、この4つが決めるのです。

 

そして、この4つがどのような組み合わせになるのか、

ということは、まったくの偶然に依存しています。

 

 

 

世の中には、生まれたときに両親が裕福だった、とか、

セレブの家に生まれた、とかいったひとが、たしかに存在します。

 

さきに、うえでのべたような四柱推命のサイトや本で、

「外格になる人というのは、かならず、実家が裕福であるとか、セレブに生まれる

 とか、とにかく初年運がめぐまれているのだ。」

と主張していたひとがいましたね。

 

 

 

このひとの主張する論理関係を、命題の形式であらわすと、

 

命題A「外格である、ならば、そのひとは、恵まれた両親のもとにうまれた」

 

ということです。

 

この命題Aの対偶は、

 

「恵まれた両親でない、ならば、生まれる子供は外格にはならない」

 

ということです。

 

 

 

ある命題と、その命題の対偶は、真偽が同じになります。

だから、ある命題がはたして真であるのかどうか、ということを調べたければ、

その命題の対偶が真であるかどうかを確かめればすみます。

 

 

 

では、

 

「恵まれた両親ではない、ならば、生まれる子供は外格にはならない」

 

は、はたして、真である、といえるでしょうか。

 

 

 

これは、考えてみればわかりそうなことですが、おかしなことです。

 

親がたとえば貧乏で苦しい生活をおくっていて、その親が、

さあ、子供をもうけよう、とした場合には、その子供は、

絶対に外格にはならない、と言っているのです。

 

外格というのは、生年月日と生まれた時間の組み合わせだけで決まるものです。

そして、それは、まったくの偶然できまるのです。

なのに、この意見にしたがえば、

貧乏で困窮した両親が子供をつくろうとする場合には、

その子供は、外格を形成するような生年月日と生まれた時間の組み合わせだけは、

「はずして」生まれてくる、と言っているんです。

 

そんなバカげたことがあるでしょうか。

 

 

 

自分は、両親が貧乏であれ、裕福であれ、

自分の生まれた家庭が、恵まれていても、そうでなかったとしても、

まったくの偶然性によって生年月日と生まれた時間の組み合わせが決まる以上、

外格の命式をもつ子供がうまれてくる可能性は、ひとしく存在する、

と考えます。

 

そして、そのように考えてくると、

外格という特殊格をもったひとのあゆむ運命については、

おおまかに言って、次の2通りがあるだろうと、自分は考えるのです。

 

 

 

1つは、

恵まれた家庭に生を享け、初年運がすごく恵まれていたものの、

その後の後天運で破格運がやってきて、

運命が急降下してしまう、というようなひと。

 

もう1つは、

貧しく困窮していたりなど、あまり恵まれてはいない家庭環境にうまれて、

(初年運が破格運であるために)つらいつらい若年時代をおくりながらも、

たとえば、中年にさしかかったときなどに、

後天運で破格運が終わり、喜神運にはいるために、

運命が激変して急上昇する、というようなひとです。

 

 

 

外格というのは、運命のふり幅が大きいタイプだ、ということができます。

運のいい時期には、王侯のような身分にもなるものの、

運の悪い時期には、乞食のような境遇にもなってしまうもの、

それが、外格です。

 

ただ、その運命の変化については、

王侯のような身分 → 乞食のような境遇

という方向での変化もあれば、

乞食のような境遇 → 王侯のような身分

という方向での変化もあるだろうと、自分は考えます。