この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

モンゴル帰れ、という相撲ヤジ。

さきの大阪場所で、横綱稀勢の里が優勝した。

優勝を決めた一戦は照ノ富士との戦いだったが、その戦いの最中に、

タイトルのようなヤジがとんだという。

 

モンゴル帰れとか、朝鮮に帰れとか、そういった

母国に帰れというような発言は、ヘイトスピーチであるとの

立場を、政府はとっているらしい。

 

たしかに、こういった発言は、その国の出身であるひとを

傷つけもするし、

そういった発言が社会に蔓延するのを放置すれば、

排外主義的な風潮が広がることにもなりかねない。

 

しかし、こういった発言をする「気持ちじたい」は、

わからなくもないところがある。

たとえば、WBCやサッカーW杯のような国際大会、

あるいはオリンピックといった場では、たいていの日本人は、

日本選手の応援をするだろう。

自分の出身国と出身国選手にはみな、愛着、思い入れがあるものなのだ。

だとすれば、そういった国際大会の場で出身国選手の応援を

するのはかまわないが、相撲の場では出身国選手の応援をしては

ならない、というのは、心情的には、

どうも腑に落ちない規制のような気がする。

 

相撲の場で出身国選手のひいきをしないようにしよう、というのは、

「自国選手に肩入れするのは自然な気持ちの発露ではあるが、

諸般の事情を考慮すると、

そういった自然な気持ちを自然な気持ちのまま表現するのは

差し控えたほうがいい」ということなのだろう。

 

こういった、自然な気持ちはあったとしても、それをそのまま

表現しないほうがいい、とされる事例は、ほかにもある。

 

たとえば、街を歩いていたり、電車に乗っていたりすると、

たまに、顔中にできものができたひととか、

首が妙な方向に曲がっているひととか、

電車の車内で1人で車掌のまねをしてアナウンスを独り言で

つぶやいているひととか、

目の端が妙につりあがっているひととかに、出会うことがある。

こういった場合、

「気持ち悪い」と感じてしまうその気持ちじたいは、

はたして、責められるようなものなのだろうか。

たしかに、その気持ちをそのまま相手にぶつけて、

たとえば「きもっ」とか声に出してしまうのならば、

それは相手を傷つけることにもなるだろう。

しかし、気持ち悪い、と感じてしまう自分の心じたいを、

自分で内罰的に責める必要はあるのだろうか。

 

24時間テレビとかでは、障害者をとりあげたコーナーを毎年

やっている。

そういった番組をみるなどして、

障害があったとしても素晴らしいんだ、と感じるひとも、

もちろんいるだろう。

しかし、そうは感じないひともいるかもしれない。

このとき、

障害者を素晴らしいと感じる気持ちだけが正しい気持ちで、

そうは感じない気持ちは間違った気持ちだ、と言われたら、

どう思うだろう。

 

ひとの気持ちは、さまざまだ。

そのさまざまであることは、内心にとどまっているかぎり、

果てしなく自由なのだ。

行動したり、外界に表現したりすれば、人を傷つけることもあるだろう。

しかし、子供がとっさに示す反応のような、自然な気持ちは、

だれの心の中にもあるものだ。

新聞離れ、CD離れというけれど。

新聞をとる人が減っていて、新聞離れということがいわれたりする。

CDを購入するひとが減っていて、CD離れということも、

いわれたりする。

活字のニュースをみんな読まなくなったからだ、とか、

音楽を聴かないひとが増えているからだ、とか、

原因がいろいろいわれているけれど、

原因は、はっきりしている。

 

インターネットの登場だ。

ニュースなんかは、ヤフーニュースのヘッドラインで概略を知る

ことができる。

そのほうが、速報性もある。

テレビ番組欄も、ネットでチェックできる。

全国のスーパーのチラシをあつめたサイトもある。

新聞を必要としなくなりつつあるのだ。

音楽もそうだ。

Youtubeで好きな時に好きな音楽を好きなだけ視聴できる。

CDには動画はついていないが、Youtubeにはある。

 

なによりも大きいのは、お金の問題だ。

みんなが貧乏になったから、新聞をとらなくなったり、

CDを買わなくなったりしたわけでは、かならずしもない。

お金の使いみちがかわったのだ。

昔は、新聞代に月4000円、CD代に月2000円、などと

お金を出していた。

いまは、パソコンのネットに月4000円、スマホに月6000円、

などと使っているのである。

新聞やCDにはお金を使わなくなったが、パソコンやスマホには

お金を使うようになったのだから、

帳尻は合っているのだ。

これがもし、パソコンやスマホにお金を使い、

さらにそのうえ、新聞やCDにも以前と同じようにお金を使う、

となると、財布がパンクしてしまうかもしれない。

 

お金を使わなくなったわけではないのだ。

使いみちがかわっただけなのである。

「こども保険」が事実上の増税であるのならば、許されない。

自民党の若手議員でつくる委員会が、こども保険なるものを創設

しようとしている、とヤフーニュース。

幼児教育の無償化などを社会全体で支えるため、

社会保険料に上乗せして保険料を特別に徴収するという。

 

おかしくはないか?

われわれは、社会のさまざまな公的サービスを実現するために、

「すでに」税金や社会保険料を支払っている。

この項目にお金が必要、この項目にもお金が必要、ということで、

その都度、つぎつぎに個別にお金をあらたに徴収していくのなら、

事実上の際限のない増税が可能になってしまうわな。

幼児教育の無償化などにお金が必要であるのならば、税金の使途として

その分野をとくに重視して配分しましょう、というのがスジじゃないの?

つまり、あらたに国民からお金を徴収するのではなく、

従来の税収の中で、その税収の使途の配分を変えることで対応する

のが当然のやり方だろう。

 

また、こども保険として、保険という名前がついているからには、

保険料を支払った者が、受益者にもならないとおかしいわな。

一方的に保険料だけ支払うが、自分には子供などまったくいないために

払い損になるひとがでるのでは、公平な制度とはいえないわ。

 

こども保険、問題がとても多そうだ。

そして、問題があるのは、今回のこども保険にかぎったことではない。

おかしいと思うことは、ほかにもある。

 

貧困家庭のこどもを支援するために、寄付金をつのる、という政府の方針。

それは、税金でやるべきことだろう。

そのために税金を支払っているのだから。

なんで、あらたにお金をとろうとするの?

 

また、東京オリンピックの運営のために、通訳ボランティアを無償で

働かせようとする方針。

なんで、正当な対価を支払おうとしないの?

ボランティア、ボランティアって、なにかボランティアを、

無償で手に入る都合のいい労働力とでも考えているのではないかな?

 

必要だから、とか、利益があるかどうか、利用できるかどうか、とか、

そういった観点よりも、

公平なのか、公正なのか、正しいのか正しくないのか、

といった観点をもっと重視すべきだと、せつに思う。