この世界の不思議

この世界のいろんなことについて、思ったことを書いていきます。

「逃」げると「挑」むは、似た漢字だ。

こんにちわ。天機です。

 

 

 

きょうは、漢字のお話をしてみようと思います。

 

 

 

「逃」げるという漢字と、「挑」むという漢字は、

両方とも、「兆」という文字がはいっていて、

部首だけが、「しんにょう」と「てへん」で違っています。

 

見た感じ、2つの漢字は似たところがあるなあ、と思いますが、

部首が「しんにょう」になるか、「てへん」になるかで、

意味的には、まるっきり正反対になります。

 

かたや、逃げ出すのに対し、かたや、逃げずに挑戦するわけですから。

 

 

 

はじめて、この2つの文字について意識したのは、

いまから20年ほど前にやっていたテレビ東京系アニメの、

ふしぎ遊戯」という作品を見た時でした。

 

その作品で、主人公の女の子が、

「逃げるっていう漢字と挑むっていう漢字はよく似てるでしょ?

 逃げるのも、挑むのも、ほんの少しの違いなんだよ?」

とかなんとか、そんなことを言っていて、

なるほど、ほんとうにそうだなあ、と感心した記憶があります。

 

 

 

あれから20年ほどたった現在、天機はよく、

漢字の成り立ちについて、自分で考えてみて、独自の説をつくってみる、

というのを面白がってやっています。

 

では、「逃」げるという漢字と、「挑」むという漢字は、

どうして、

「兆」+「しんにょう」だと「逃げる」という意味になって、

「兆」+「てへん」だと「挑む」という意味になるんだろうか?

 

天機は、そんなことを考えてみました。

 

 

 

そこで、天機が考えた説というのは、つぎのような感じです。

 

 

 

まず、「兆」という漢字なのですが、これは、「きざし」と読みます。

物事が、まだはっきりとしたかたちとなってあらわれるまえの、

予兆や兆候のことだと思います。

 

よく、下駄の鼻緒が切れるとよくないことが起きる、とかいう言い伝えが

あったりしますが、天機は、

この「兆」という字は、予兆や兆候の中でも、

なにかよくないことが起こることを暗示するような予兆や兆候を

指す文字なのではないか?

と思ったんですね。

 

そして、「しんにょう」や「てへん」といった部首の部分というのは、

その、よくない予兆や兆候に遭遇した時に、

自分はどういう態度でそれに臨むか、ということをあらわす

部分なのではないか?

と思ったのです。

 

 

 

天機が思うに、「しんにょう」という部首は、

「あることがらから、あることがらへと、変化するプロセスというのが、

 穏当なものであり、いわば、逆接ではなく、

 順接のような関係で変化していく、

 その変化のありかた」

をしめす部首なのではないか、と考えます。

 

ここで、順接というのは、たとえば、

「雨が降ってきた『から』傘をさす」とか、

「おなかがすいた『から』パンを食べた」とかいった、

変化のしかたです。

 

なにかよくない予兆や兆候があったとき、ふつう、ひとは、

恐怖を感じたりして、それを避けたくなりますよね。

 

よくないことの予兆や兆候→恐怖心の発生→回避行動

 

という一連の流れは、ごくごく自然で、穏当で、

うえでいうところの順接の関係なのです。

 

だから、

「兆」-よくないことの予兆や兆候

と、

「しんにょう」-それに直面した時の、自然で、順接関係になるような変化

とがあわさると、

「逃」げる、という意味になるのではないでしょうか。

 

 

 

では他方で、「てへん」はどういうことをあらわすのか、というと、

一般的には、人間の身体における「手」に関することをあらわす、

などといわれたりしますが、天機は、

「ある状況に際して、その状況に対して、主体的、積極的に、

 こちらから改変をくわえていこうとする、意志や行動」

といったものをあらわすのではないか、と考えます。

 

この世界には、石とか、木とか、いろいろなものがありますが、

人間は、二足歩行を実現して両手が自由になり、

その自由になった両手で、それらのさまざまなものに「改造」をくわえて、

世界をつくりかえていきますよね。

 

そういった、「手」のもつ本来的なはたらきから、

さらに敷衍して考えて、「手」に象徴されるようなはたらきというのは

いったい、どのようなものなのだろうか?と考えていったときに、

天機が思いついた「てへん」の定義というのが、

うえのようなものになったわけです。

 

 

 

では、これが、「兆」の文字とあわさると、どうなるのか。

 

「兆」という漢字は、よくない予兆や兆候をあらわしていて、

そういったよくない予兆や兆候に遭遇したときに、

人間がとる「自然な」行動というのは、「逃げる」ということでした。

 

ところが、「てへん」というのは、

「てへん」が象徴するものというのは、そういった、

「自然な」変化のありようではなくて、自然な流れに逆らってでも、

自分は状況に「改変」をくわえてやるぞ、というものなのです。

 

なので、

 

「兆」-よくないことの予兆や兆候

と、

「てへん」-その状況にたいして主体的、積極的に「改変」をくわえて

      いこうとする意志や行動

とがあわさると、

「挑」む、という意味になるのではないでしょうか。

 

 

 

今回は、そんなことを考えてみました。